訪問者
異変が始まる少し前。表面上は平和だった、二月のある夜のこと。
何でも屋〈フリーライフ〉の店主、佐山貴大は、『非常識な』訪問客を迎え入れていた。
「はいはい、っと。今、明けますよー」
時刻は21時。通りに並ぶ店舗は施錠して、固く扉を閉ざしている。もちろん、営業している訳がない。繁華街ならいざ知らず、住宅街で遅くまで開いている店などない。
それを客の方も承知しているはずなのだが――フリーライフは何でも屋である。『何でも』の言葉に拠るものか、危急時の駆け込み寺に使われることもたまにある。夜分に叩き起こされた経験も、ないことはない。
だから、貴大は「そういった手合いか」と考えて、素直にドアを開けたのだが――。
「ああ! 会いたかった!」
「……は?」
わずかな隙間をこじ開けるように、一人の女が事務所に滑り込んできた。
「私、この時をずっとずっと、待っていました!」
「は、はあ」
年のころは26歳、27歳ほどか。目をうるませた長身の女性は、長い黒髪を揺らしながら、興奮気味に貴大の手を取った。そのまま、勢いよく手を上下に振られて――貴大は、目を白黒させる。
「あの~……」
「はい」
「ど、どちらさまで?」
やけに親しげな態度を取られたが、貴大の方は女に見覚えがない。柳を想わせる、すらりとした美しい女性。病的なまでに白い肌と、妖しく輝く紫色の瞳は、一度見たら忘れられそうにない。
また、胸元を強調したナイトドレス――男を誘う蠱惑的な衣装は、娼婦のもののように見えるが、使われている生地は貴族顔負けの上物だ。
見知らぬ、そして、出自、身分の想像がつかない女性。トラブルの予感を覚えながら、貴大はおずおずと問いかけた。お前は何者なのかと。一体、どこの誰なのだと。
すると、女は心外そうな顔をして、
「……あっ、そ、そうでしたね」
照れたように笑い、固く握っていた手を離した。
「すみません、私、嬉しくって。つい、一人で舞い上がってしまいました」
「いや、それはいいんですけど……俺たち、会ったことありましたっけ?」
「はい。お久しぶりです」
「ぅえっ!?」
てっきり人違いか、女が一方的に知っているだけかと思っていた貴大は、彼女の言葉に声を上げて驚いた。会ったことはない――はずだ。なのに、女は妙に親しげな態度を取る。
それに、お久しぶりだという言葉。これはもう、人違いや勘違いではないのだと判断し、貴大は早くも白旗を上げた。
「すみません、俺、全然分からなくて……どこで会いましたっけ?」
着ている服や上品な所作から、やんごとなき身分であることは分かる。それを覚えていないなど、もしかすると無礼打ちにされるかもしれない。それでも記憶にないのだからしょうがないと、貴大は上目がちに女を見た。
すると、彼の予想に反して、女は大らかに微笑み――。
「直接言葉を交わしたのは二回目ですね。でも、私、ずっと貴方を見ていました。ずっと、ずっと昔から」
「……昔?」
となると、冒険者時代の知り合いか。いや、しかし、微塵も見覚えがないのはいくら何でもおかしい。これほどの美女、言葉を交わしたのならば印象に残るはずだ。
――それに、見ていた、とはどういうことか。
深夜の訪問者の異常さに、ようやく警戒を始めた貴大に、女は顔をほころばせて甘い声で語る。
「私は知っています。貴方がもっとずっと幼かったころのことを。無軌道に、自由気ままに世界を駆けていたころのことを。まだ青くて、未熟で、子どもだったころの貴方を」
「お前……」
「ずっとずっと、見ていました。少しずつ、少しずつ、ゆっくりと成長していった貴方のことを。長い時と試練に磨かれ、大人になっていった貴方のすべてを」
「…………お前は」
「異世界からの来訪者。未来の萌芽。私の希望にして、世界を変え得る一人の異邦人。私は貴方の幸せと成長を、いつも祈り、願っていました」
「………………誰だ?」
語られるごとに増していく違和感。
この女とは、一体、どこで出会ったのか。彼女が言う『ずっと』とは、どこから始まる期間なのか。それに、異世界という決定的な単語を――どうしてこの女が知っているのか。
誰にも話したことがない秘密。ずっと胸に秘めていたこと。それを共有するのは、貴大と親友たち、それと――。
「――言え。誰だ、お前?」
暗がりから染み出すように現れたのは、ナイフを握った貴大の手だ。動いたことさえ知覚させない神速の暗技に、しかし、女は動じない。
「お前が……そうなのか? お前が……お前が……!」
敵意と疑惑、そして警戒心に満ちた貴大を、女は親しげに見つめていた。まるで子の成長を喜ぶ親のように、優しく微笑み、生白い手を伸ばしてくる。
「っ!」
素早くその場を飛び退いた貴大は、ナイフの刃先を女に向け、言外に警告を発する。凍てつくような殺気は、熟練の武芸者さえ竦ませたものだったが――それでも女は止まらない。
「私は嬉しい。その強靭な意志が嬉しい。ああ、もう一歩、更に一歩。踏み出せば、首筋を斬られそう。もしも私が敵だと知れば、貴方はすぐにも覚悟を決める。その真っ直ぐな心が嬉しいのです」
聖母のように微笑みながら、両手を広げ、抱きしめるように近づく女。彼女の正体を確信しながらも、その目的が分からず、貴大はなおも問い質そうとしたが、
「……ご主人さま。お茶をお持ちしました」
ガチャリと、背後からドアを開く音がした。
貴大の後ろには、ティーセットをお盆に載せたユミエルが無表情に立っている。事情を知らず、危険地帯に迷い込んだ少女が――。
「――あら」
微笑の女がユミエルを見とめる。
「そういえば、いましたね。この家には」
彼女が笑みをそちらに向ける。穏やかなようで――虫にも似た、無機質な目をユミエルに向ける。そして、
「このような生物が」
ぞっとするほど平坦な声が、ユミエルの耳に届くより先に、貴大は女を蹴り飛ばした。
「お前ぇぇぇぇぇぇぇえええええっ!!」
事務所の壁を突き破り、女諸共、通りに転がり出た貴大は、握ったままのナイフを横薙ぎに振った。龍さえ倒すその一撃は、石畳をバターのように切り裂いたが、肝心の女にはかするだけで終わった。
貴大は激昂していたが、致命傷を与えるつもりはなかった。彼女からは、まだ聞き出さねばならないことが山ほどある。声帯は傷つけず――代わりに、手足の一本や二本は奪おうとしたが、
「やはり、貴方は素晴らしい。よくぞここまで……」
感極まった様子の女は、するりと貴大の手から逃れていた。
それだけで、彼女が相当な実力者であることが分かる。人類としては極限の強さを誇る貴大の攻撃をいなせるのは、同じ高みにいる者だけだ。つまりはレベル250の――化け物。
彼女は街灯の下、うっとりと目を細めながら、頬に出来た薄い切り傷に指を這わせている。とろりと流れる鮮血を指ですくい、それをぺろりと舐め、陶然と体を震わせている。
『なんだなんだ、喧嘩かぁ!?』
『ちょっとあんた! 見てきておくれよ!』
『ママー! すごい音がしたよー!』
どこか超然とした女に怖気を震わせながらも、貴大は間髪入れずに斬りかかろうとしたが、通りに面した民家から聞こえてくる声に動きを止めた。
見られたらまずい。能力を使う際、人目を気にするのは彼の習慣だった。しかし、それよりも、巻き込んではいけないという想いが勝った。
化け物同士の戦いの場として、中級区の住宅街は脆すぎる。頑強な魔導レンガを積み上げていようとも、彼らにとっては砂の城のようなものだ。もしも二人が全力で戦えば、辺り一帯は崩壊するはず。
ならば――!
「タカヒロッ! そいつだ! そいつが――!」
「分かってる!」
貴大が決意を固めた瞬間、屋敷の窓を突き破ってルートゥーが飛び降りてくる。燃え盛る彼女の覇気を背中に感じながら、貴大はナイフを女に向けた。
「ルートゥー! ここじゃまずい! こいつを街の外まで連れ出すぞ!」
「ああっ!!」
瞬時に貴大の意を汲み、ルートゥーは龍の翼を大きく広げる。被害が出るその前に、女を連れてグランフェリアを飛び出そうというのだ。貴大もすぐさま走り出そうと、足に力を込めた。
しかし――。
「【ソウル・バインド】」
次の瞬間、空間が静止した。
住宅街からは一切の動きと音が無くなり、静寂がその場を支配する。呻き声さえ聞こえない住宅街の中で、黒髪の女がそっと開いた右手を突き出した。
「誤解しないで下さい」
柔らかな声。包み込むような女の声は、貴大たちを諭すように発せられる。
「私は戦いに来たのではありません。告げに来たのです」
「な、にを……!?」
よくもそんな口が聞けたものだと――貴大は叫ぼうとしたが、それは叶わぬことだった。やっとの思いで絞り出せたのは、短く、小さな疑問の声。それをすくい取るように受け止めた女は、真摯な態度でこう告げた。
「長きに渡る試練も、次で最後です」
「試練、だと……!?」
「そうです。試練。成長のための糧。降りかかる苦難。進化への道しるべにして、越えるべき壁。それらは貴方が通過してきたもの」
何が、どれが、何のための試練なのか――戸惑う貴大を置いて、女は朗々と語る。
「これから最後の試練がこの国に振りかかります。耐えがたき絶望に、人々は嘆き、苦しみ、身をよじるでしょう」
不吉な予言だった。理不尽な通告だった。しかし、女は愉悦を浮かべるでも、沈痛な顔をするでもなく、ただ、貴大を真っ直ぐに見つめている。
「それら全てを乗り越えて、あの地へ来なさい。全てが始まったあの地へと……私はそこで待っています」
彼女の目に宿っていたのは、貴大への信頼。揺らぐことのない、一人の青年への想い。それを表明するかのように、女は、貴大へと語りかけ――。
「待っています。信じています。きっと貴方は高みに至るのだと。艱難辛苦に抗える存在なのだと。信じてずっと、待ち続けます。彼らと共に……」
やがてふわりと浮き上がり、夜空に溶けて消えるまで、女は貴大に信頼を向けていた。それがどうにも解せず――貴大は街灯の下に立ち尽くしたまま、女が消えた場所をずっと見上げていた。
「……ご主人さま」
どれくらい時間が経ったのか、気がつくと体は自由に動くようになっていた。周囲の民家からは困惑する人々の声が聞こえ、貴大の手は一人の少女に握られていた。
「……彼女は、一体」
怯えを宿した目。不安そうに見上げてくるユミエルの手に、そっと手を重ねながら、貴大は――。
「ああ、あいつは……」
疑問は増すばかりであったが、これだけは確信をもって言えた。
「そうだ。あれが悪神だ」
うなずくルートゥー。彼女の言葉こそ真実だった。




