メイドさんの一日
まだ陽が昇らないうちに目が覚める。
そのまましぱしぱと瞬き。それから、ユミエルはゆっくりと体を起こす。
もこもことした冬用のスリッパに足を通し、なるべく音を立てないように着替えを済ませる。そして、同じ階にある洗面所に入り、冷たい水で顔を洗う。貴大は寒い、寒いと言って、いつも温水を使うが、ユミエルは冷たい方が、かえって意識が引き締まっていいと思っていた。
とはいえ、体はむやみやたらと冷やすものではない。ユミエルは詳しい原理を知らないが、学者であるエルゥも、物知りな老龍も、揃って体を温めることを勧めていた。
なるほど、確かに、冬は暖かさが心地良い。少し贅沢だとは思ったが、ユミエルは一階のリビング、その奥にある暖炉に薪を並べ、着火の魔石で火をつけた。
多少の寒さは我慢出来たが、それで風邪をひき、主人に移してもしょうがない。ユミエルは薪に火がついたのを確認し、今度は台所に移動した。
「ユミィちゃん、おはよう!」
「……おはようございます」
やかんに火をかけた後、ユミエルは近所のパン屋に買い物に出かけた。
この辺りにパン屋はここしかない。必然的に、ご近所さんであるカオルとは、毎朝、顔を合わせるようになっていた。
「今日も寒いね~」
「……ですね」
イースィンドでも南方生まれのカオルは、グランフェリアの冬の寒さが苦手だった。空気が冷たい、朝靄がかかる、おまけに潮風が吹きつける。たまったものではないと、彼女は服を何枚も重ねて着ていた。
「うひ~、早くパン買って帰ろう!」
「……そうしましょう」
厳冬期の羊のような、丸々と膨らんだカオルは、少し動きにくそうにパン屋へと向かう。その途中、通りの脇にある建物を見上げ、彼女は何度目かの感嘆の声を洩らした。
「それにしても、立派な御殿が出来たね。さっすが、カオスドラゴ……っとと、ルーちゃんだ」
うっかりルートゥーの正体を口に出しかけて、慌てて両手で口を押さえるカオル。きょろきょろと辺りを見回した彼女は、照れくさそうに笑って、そそくさと小走りに竜姫御殿の前を通り過ぎた。
「む、む、む……」
カオルに続いてパンを買い、家に帰ってきたユミエルは、リビングに這いつくばった何かを見つけた。
黒く、大きな毛虫のようなそれは、ずりずりと音を立てて床を這い、ゆっくりと台所へと向かっている。そんな奇妙な生き物に、ユミエルは焼きたてのパンを差し出し、次いで、手早く淹れたお茶を差し出した。
「むぐっ、むっ、むっ! んごっ! ごっごっごっ!」
実に下品な音である。
食事というよりは、まるで排泄物をひり出しているような、恥も外聞もかなぐり捨てたような音。それを発していた怪物は、白パンを二つ、くるみパンを一つ、瞬く間に胃の腑に収め、満足げに息を吐いた。
「ふうー……いやあ、助かったよ、ユミエル君」
「……それはようございました」
毛虫のお化けと思われたそれは、なんと、至高の頭脳、天才エルゥと謳われた女性だった。
研究が第一で、人間として大事な部分が欠落していると思しき彼女は、限界が訪れるまで自分の空腹に気づかないことがままある。今回もそのケースだったのだろう。フリーライフにご飯をたかりに来たのはいいものの、途中で力尽きた、と。
「いつも世話になっているね。あ、これ、お詫びの品だ。私が改良したものだがね。役立ててくれたまえ」
「……ありがとうございます」
腹をさすりながら、暖炉前の揺り椅子に座ろうとしていたエルゥは、今、気がついたとばかりに白衣のポケットからさくらんぼ大の魔石を取り出した。
紅く、つるつるとしていて、ほんのりと温かい。見た目と質感は風呂を沸かすための魔石に似ているが――彼女の手が入っている以上、油断は出来ない。彼女が持ってくるものは、市販品とは一線を画した性能のものが多いが、時々、とんでもないハズレも混ざっているのだ。
後で貴大に鑑定してもらおうと、ユミエルは魔石をポケットに入れた。
「すー……すぴー……」
ユミエルが朝食の準備を進めている間に、エルゥは暖炉の前で寝息を立てていた。あの痩せぎすな黒髪エルフは、貴大が愛用している揺り椅子が大のお気に入りである。隙を見てはあの位置に収まり、ああして仮眠を取ったり、論文を読んだりしているわけだ。
「むにゃむにゃ……」
今日は揺り椅子を奪い合う相手もいない。彼女はそのままにしておこうと思い、ユミエルは手元の鍋に視線を落とした。
店主がいないとはいえ、平日に店を閉めることはない。
午前9時ごろ、ユミエルは一階事務所のカーテンを開き、何でも屋〈フリーライフ〉を開店する。何でも屋の仕事は、基本的にその日のうちに終わるものが中心となるため、開店からしばらくは手持無沙汰になってしまう。
だからといって気を抜くことは出来ない。困った事情を抱えた客が、いつ何時、扉を開くか分からない。そうした人、すべてに対応出来てこそ、何でも屋は一つの商売として成り立つのだ。
ユミエルは開店直後だからこそ、より一層気を引き締めて、自分の仕事机に向かった。すると、真摯な彼女に応えるかのように、カラン、コロンと来客を告げるベルが鳴り――。
「……いらっしゃいませ」
出入り口へと振り返り、ユミエルはきっちりとした所作で頭を下げた。すると、彼女の頭の、ずっとずっと高い位置から、明るい声が降ってくる。
「わんっ!」
「……クルミアさんでしたか」
果たしてフリーライフの入り口に立っていたのは、ユミエルもよく知る犬獣人の少女だった。
ベビーブロンドの短い髪と、垂れた犬耳、ふさふさとした尻尾。厚手のジャケットは着ているものの、冬場でも好んでショートパンツをはいている彼女は、まさしくクルミア=ブライトその人であった。
「……何かご用ですか? それともお仕事の依頼ですか?」
「ううん。タカヒロにね、会いに来たんだけど……いない、ね?」
くんくんと鼻を動かして、貴大の匂いを捜すクルミア。
犬獣人は鼻が利くというが、彼女のそれは格別だ。この場から感じられる匂いだけで貴大の不在を看破したクルミアは、少し寂しそうに尻尾を垂らした。
「……ええ。ご主人さまは遠方へ出かけております。お戻りがいつになるかは、はっきりとは分かりません」
「わう」
「……何か言伝があればうかがいますが」
「ううん、いいの。顔を見に来ただけだから」
ぷるぷると頭を振ったクルミアは、にっこりと笑ってフリーライフを出ていった。
「じゃあ、お仕事、がんばってきまーす!」
「……行ってらっしゃいませ」
元気よく手を振るクルミアにぺこりとお辞儀をして、ユミエルはその後ろ姿を見送った。
(お仕事。クルミアさんも、大人になられましたね)
出会ったばかりのころは、まだ言葉が上手く話せず、まんぷく亭の手伝いもしていなかった。それが今では、料理の仕込みも任されるようになり、酔客のあしらいもこなせるようになったと聞く。
人間は成長する生き物である。特に子どもはそうだ。顔を合わせるたびに、ちょっとしたところが変わっていることに気づく。
――そう考えてみると、自分はどうなのだろうか。
(私も、そうなのでしょうか)
自分では気づきにくいものだが、人から見ると、ユミエルも成長しているのだろうか。三年前の冬、この家にやってきたころに比べ、少しは成長出来ているのだろうか。
(……少なくとも、この家は変わりましたね)
つい先日、修繕のついでに、事務所の壁紙を張り替えてもらった。
以前は味気ない灰色だったのだが、今は温かみのあるクリーム色になっている。どちらかと言えば、ユミエルは今の壁紙の方が良くて、壁紙一つで印象が変わるものだと感心さえしていた。
(私も変わらなくてはいけませんね)
そのためにも、仕事に励まなければならない。
ただ漫然と生きていては駄目だ。様々な体験を経て人は磨かれ、成長するのだとルートゥーも言っていた。だとすれば、何でも屋の仕事ほど相応しいものはない。そうユミエルは信じ、背筋をピンと伸ばし、ドアが開かれるのを待ち続けた。
すると、十分もしないうちに再びベルが鳴り――。
「……いらっしゃいませ。何でも屋〈フリーライフ〉へようこそ」
ユミエルはまた、丁寧に、しかし、いつものように無表情に、訪問者へと頭を下げた。
「今日はもう、帰って来そうにねえな」
夕食の席でそう洩らしたのは、赤毛の女冒険者、アルティだった。
健康的に日に焼けた彼女は、やや行儀悪くスプーンをくるくると回して、曲芸のようにコップの中へと投げ入れた。それから頭の後ろで手を組んで、面白くなさそうに後ろに倒れようとする。
「せっかく差し入れを持ってきたってのによ。忙しないヤツだぜ、ったく」
ギシギシと音を立て、後ろに倒れるか、倒れないかで椅子のバランスを取るアルティ。言葉通りに仏頂面をする彼女に、ユミエルは頭を下げた。
「……申し訳ありません。ご主人さまがお戻りになった際は、すぐに連絡を差し上げますので」
「ああ、いいんだ、いいんだ! 別にそこまでしてもらわなくていーって!」
慌ててアルティはテーブルに身を乗り出して、ユミエルの頭を上げさせようとした。
「肉串ぐらい、また持ってくるって」
そう言う彼女の手の脇には、皿に盛られた羊肉の串焼きがあり、そしてそれはどこか不揃いで、少しだけ焦げていた。
きっと彼女が自分で焼いたのだろう。人の機微には疎いユミエルにも、それはよく分かった。アルティが貴大を驚かせようと、連絡もなしにフリーライフに来たのだということも。
「それじゃな。晩飯、ごちそーさま」
「……はい。おやすみなさいませ」
結局、串焼きはユミエルとアルティが食べることになった。それでも余った串焼きはスープにでも使えばいいと、そのまま置いていかれた。
アルティがいなくなった後、夕食の片づけをしながら、ユミエルは串焼きをちょっとかじる。
(上達されましたね)
以前の冒険者サンドと比べれば雲泥の差だ。
あの酷い味を思い出しながら、やはり人間、成長するものだと、ユミエルは何度もうなずいていた。
「…………………………」
さて、食器を洗い終えてしまうと、いよいよすることがなくなった。
貴大がいれば、彼にお茶を淹れたり、いっしょに映像水晶を見たりするのだが――一人ではそのような気分になれない。
せめてルートゥーがいてくれれば、話し相手にもなってくれるのだろうが、彼女は意気投合したフランソワの家に遊びに行っている。帰りは遅くなるか、下手をすると泊まりになるのだろう。
今晩はもう、一人で過ごすしかない。別にそれは苦ではないし、どうということではないのだが、
(ご主人さまは、どこで何をしていらっしゃるのでしょうか)
一人でいると、どうしても貴大のことを考えてしまう。
明け方のエルゥのように、貴大愛用の揺り椅子で揺られながら、ユミエルは最近、忙しくしている主人のことを思い浮かべた。
(何だか物々しくなっていますが……何か、関係があるのでしょうか)
ユミエルは貴大の理解者のようでいて、その実、多くのことを知らない。彼が異世界人であることも、かつて元いた世界に戻ろうとしていたことも、悪神の手がかりを探していることも、何も、何も、知らない。
貴大は、家ではそれほど多くは話さない。だから、ユミエルは想像力を働かせ、不足を補おうとするのだが――。
考えても考えても、貴大のことだけはよく分からなかった。
どうして自分を買ってくれたのか。どうして自分をメイドにしてくれたのか。どうしていっしょに暮しているのか。どうして教えてくれないことがあるのか。
暖炉の中で揺らめく炎を見つめながら、ユミエルはぼんやりと、そのようなことを考えていた。
すると、唐突に玄関扉が開く音がして、
「うひー、さみぃー!」
ドタドタと、何やら騒々しい足音が聞こえてきた。
「……ご主人さま」
これだけはよく分かる。貴大が帰ってきたのだ。
ユミエルはサッと揺り椅子を離れ、エプロンドレスのしわをパンパンと叩いて伸ばし、リビングのドアへと近づいた。
「おーい、帰ったぞー」
廊下から近づいてくる声。紛れもない貴大の気配に、ユミエルはにこりともせずにドアノブに手をかけた。
そして、彼女は、
「……おかえりなさいませ、ご主人さま」
と主人を出迎える。
いつも通りの光景。いつも通りの挨拶。これだけは変わらず、ずっと続いていくのだろうなと――。
少なくとも、ユミエルはそう思っていた。




