喜劇の世界
思い立ったが吉日、善は急げというわけではないが、貴大はその日のうちにメリッサに会いに行くことにした。
考えてみれば、もう一月、いや、二月も顔を合わせていない。不義理というよりも、人外仲間(レベル250)ということで、メリッサの動向は気になるところだ。
「確か……ああ、あったあった」
粉雪が舞い散る王都を、コートを着込み、鼻先までマフラーに埋めた貴大が軽快な足取りで進む。彼が進む先には、小ぢんまりとした教会があり、やはり小さな鐘楼には、青銅の鐘がわずかに風に揺れていた。
あの教会こそがメリッサの勤め先であり、彼女の住居でもあった。住み込みで教会で働いているメリッサは、よほどのことがない限り、あそこにいるはずなのだが――。
「やっぱり【コール】に出ないな」
右手を耳に当て、貴大は通話スキルを発動する。しかし、待てど暮らせど反応がなく、貴大はため息を吐いて手を下ろした。
ここまでの道のりで、何度か【コール】をかけてみたものの、メリッサは一向に出ようとしない。考えられるのは、仕事中につき【コール】をオフにしているか、どこか遠い場所にいるかだ。
「あいつも大概、神出鬼没だからなあ」
ひょっこりと顔を出し、いつの間にかいなくなる。転移スキルのことだけではなく、メリッサという少女のつかみどころのない性格を思い出しながら、貴大は教会の戸を叩いた。
「すみませーん!」
教会のドアはいつも開かれている、という話もあるが、こんなに寒い日は閉じられていても仕方がない。そう思わせるだけの寒風が吹く中、貴大は何度かノックを続けたが、
「……あれ?」
繋がらない【コール】と同じように、貴大を出迎える者はいなかった。
試しにドアノブを引いてみたが、鍵がかかっているのか、つっかえたように戸が開かない。中に誰もいないのだろうか――教会に? 街の救護院を謳っているあの教会に?
たとえ安息日であっても、誰かしら聖職者がいるはずなのだが――。
「おう、ボウズ。粘っても無駄だぞ」
「え?」
「神父様もいねえ。シスターもいねえ。みんないなくなったんだ」
「いなくなった? どこに?」
「さあな。オレが聞きてえよ」
通りがかった職人は、それだけ言い残して去っていった。
無料で治療を施してくれる教会が閉鎖され、彼も難儀しているのだろう。凝っていそうな肩をぐりぐりと回し、初老の男は曲がり角の向こうへと消えていった。
「……メリッサがいなくなった?」
それも、通知もなく、住み込みで働いていた教会の人員ごと。
そういったことはあり得ることなのか。もしかしたら、祭事に関わることなのかもしれないが――教会の事情に疎い貴大にも、何かがおかしいということだけは分かった。
「ちょっと調べてみるか」
ぼそりと呟いた貴大は、さり気ない動きで、人気のない路地へとするりと入り込む。そこで【インビジブル】を発動した貴大は、透明な姿となって跳び上がり、音も立てずに鐘楼へと潜り込んだ。
「ん……閂扉か」
鐘楼の床、そこに鍵穴がないことを確認した貴大は、木戸の上でするりと手を滑らせる。すると、ゴトンと鈍い音が響くと同時に、木戸は下に向かって勢いよく開いた。
得意げにうなずくでもなく、無味乾燥に教会の中に入った貴大は、そっと戸を閉め、閂をかけなおす。ここまでわずか十五秒。熟練の斥候職である貴大にとって、家屋に忍び込むなど造作もないことだった。
「さて、メリッサの部屋は、と」
ただ、若干の後ろめたさを感じ、ついつい独り言を口にしてしまうのが貴大らしさといったところか。
実に小市民的な青年である。誰も見ていないというのに、マフラーで口元を隠そうとする辺り、彼の小心さがうかがえた。
「あれ? 物置……じゃないよな?」
泥棒ではないが、それに近いことをしている。その焦りから、手早くメリッサのことを調べようとした貴大は、すぐにも首を傾げることになった。
「ここも……ここもか?」
それほど大きな教会ではない。三階に並んだ部屋を調べ終わり、二階の治療室、控え室を調べ終わると、もう見るべきものはなくなってしまう。
もしやと思い、一階に下りてみるも――そこにあったのは、貴大の予想通り、信者が祈りを捧げる礼拝堂と、神父の部屋だけだった。
「メリッサの部屋がないぞ?」
どれだけ質素に暮らそうが、人の部屋には生活感というものが生まれるものだ。毎日、そこで寝起きすることによって生まれる、人の営みの痕跡が。
それがこの教会のどこにも見当たらない――いや、それどころか、メリッサが使うであろう家具の類も見当たらない。
ベッドがない。ドレッサーがない。クローゼットがない。机がない。
まさか、治療室のベッドで寝起きしているはずもない。いくら人工聖女とはいえ、そこまで常識外れでも、浮世離れでもなかった。
「……となると、誰かが片づけていったんだろうが……」
思案気に口元に手を当てて、貴大はしばしの間、考え込んだ。
教会が不穏だと聞いた。メリッサが消えた。そして自分は、今、尋常ならざる事態に気づいてしまった。
「……まあ、調べてみるか」
考えすぎかもしれない。放っておいても、別段、問題ないことかもしれないが――もしも悪神が関わっていたとしたら、あながち、自分に関係がないわけでもない。
それに、時に子どものように笑う聖女様が行方不明だと知ると、どうにも落ち着かなくなってくる。
我ながら馴染んだものだと自嘲しながら、貴大は鐘楼の木戸に手をかけた。
この世界をお芝居にたとえると、きっと喜劇なのだと少女は思った。
そうでなければあんまりだ。笑い話にしなければ、直視できるものではない。人間の醜さ、汚さは、あらゆる美徳と比して余りある。
自分にされたことを少女は覚えている。自分がしたことを少女は覚えている。吐き気を催すような時間を、少女は覚えている。
ああいったことができるということは――やはり、人間はどこか壊れているのだ。少なくとも、自分や、彼らのような人種は救いようがない。だからこそ神に祈り、神に縋るのだ。赦されたくて。罪から逃れたくて。
度し難いとはこのことだ。自分を正当化するために神を求めるだなんて――純粋ではない。そこに真摯な心はない。あるのはドロドロとした我欲だけだ。
まったくもって救いようがない。きっと終わりが来るまで、自分たちに贖罪の手が差し伸べられることはないだろう。
「待て。そこのお前、フードを取れ」
丘の上から聖都サーバリオを望む宿場町。
その路地裏で、一人のシスターが憲兵に声をかけられていた。
「お務め、ご苦労様です」
防寒着を兼ねた黒いフードローブ。その下から包帯が巻かれた顔が現れ、憲兵はうっと声を上げた。
「いや、失礼。その、申し訳ない」
「いえ、いいんです。慣れていますから」
火傷を負ったのか、魔物に頬を抉られたのか。
声は鈴を転がすように愛らしいというのに、かわいそうなものだ。憲兵は思わず胸の前で十字を切り、その場を離れようとしたが、
「あの、少しお聞きしたいことがあるのですが」
と、シスターに声をかけられて足を止めた。
「ええ。自分にお答えできることでしたら」
若い身空で、顔に傷が残るような怪我を負ったのだ。神に祈りたくもなるだろうし、人に頼りたくもなるだろう。
憲兵は、小動物に向けるような保護欲をもって、シスターにできる限りのことをしてやろうと思ったが――。
即座に、驚愕に身をすくませることになる。
「そうですか。それは……助かります」
シスターの目が爛々と光っている。
黄金色の瞳が、妖しく、蠢くように輝いている。
まるで絵画にあるメデューサの瞳のようだ――そう思うと同時に、憲兵の体が石のように固まっていく。
「あ、ああ……!?」
全身に痺れが走り、指先一つ動かせなくなる。声を上げて助けを呼ぼうにも、喘ぎ声さえ自由にならない。
顔に包帯を巻いたシスターが、ゆっくりと近づいてくる――。
「大丈夫です。体はすぐに動くようになります。ここであったことは……怖いことは、みんな忘れてしまいます」
諭すような声。なだめすかすような音調。
「だから――」
そこに不穏な響きを感じた憲兵は、
「貴方が知っていること、教えてくださいね?」
「~~~~~っ!!」
最後に、声にならない声を上げ、意識を失った。
「やっぱり……」
憲兵を路地裏のすみに寝かせ、包帯を巻いたシスターは――メリッサ・コルテーゼは足早にその場を後にした。
(警備主任が変わってる。私が知らない検問所もいくつか……正規でない命令系統がある)
黒いフードを引き下げながら、メリッサは宿場町を進む。彼女の横手には丘の斜面があり、その先には聖都サーバリオがあり――。
「やっぱり、まだ生きてたんだ」
ぼそりと呟いて、瞳に剣呑な光を宿らせるメリッサ。
それを隠すようにうつむきながら、彼女はゆっくりと歩を進めた。
宿屋までの道中、思い出すのはかつての日々。人工聖女を生み出す工房、あの暗く、虚ろな場所での凄惨な記憶。
いいことなんて一つもなかった。辛く苦しいことばかりだった。だから、自由を得たその日に、跡形もなく消したはずだったのに――。
首謀者がまだ、残っている。中核とも言える人物が生きている。『人工聖女育成計画』を立ち上げた男が、まだ生きている!
あの醜悪な、枯れ木のような老人を思い出す度に、メリッサの心は怒りと憎しみにどろりと濁る。キリリと小さな音を立て、歯ぎしりをした少女は、憎悪に燃える瞳を、もう一度聖都に向けた。
「今度こそ……!」
変装のため、顔に包帯を巻いていてよかったとメリッサは思った。
このような顔、誰にも見せられない。神様にも、かつて共に過ごした仲間にも――そして、一度は自分を救ってくれた青年にも。
バレたらきっと嫌われる。自分の醜い部分は隠し通して、あの人に見せてはダメだ。
笑顔で戻れるようにしよう。あの人には、笑顔だけを見せよう。
――だけど、今、この時だけは。
陰鬱な目をしたメリッサは、ふっと聖都から視線を外し、今度こそ宿屋へ戻っていった。




