覚醒
いくつもの不穏をはらみながら、それを感じさせない新年祭三日目。
けたたましいほどの歓声から逃れるように、一部の貴族の子弟たちは王貴区に引きこもり、または自分の隠れ家に移動していた。
「いらっしゃいませ」
すらりと背が高く、柔和な顔立ちのマスターに迎えられ、エレオノーラは片手を上げた。
「席は取れていまして?」
「ええ、もちろん」
バルトロア貴族の名門ブランケンハイム家の娘であり、王女ドロテアの側近でもあるエレオノーラは、万事において抜かりのない進行に満足そうにうなずいて、後ろに続く少女たちを自ら席へと案内した。
「わ、わあ。いい雰囲気ですね」
「そうね。見事に調和が取れている」
いつもの三角帽子の代わりに毛皮の帽子を被ったカミーラと、男物のようなコートをきっちりと着込んだベルベット。
彼女らは防寒着をマスターへと預け、先に席についたドロテアに続いて、アンティークな椅子に腰を下ろす。
「イースィンド風のようでいて、ところどころにバルトロアの意匠が感じられますね」
「分かりますか! ええ、そうなのです。マスターはバルトロア出身の方でして、美味しいバルトロア菓子を作ってくださいますの」
「バ、バルトロア菓子ですか。私、ザッハトルテには目がなくて……」
中級区の住宅街にひっそりと佇んでいる喫茶〈ノワゼット〉は、バルトロア人であるヴィタメール・ウォルナットが営む店だ。
古都セルワーズの菓子店で勤めていたヴィタメールの腕は確かなものがあり、それを知ったエレオノーラとドロテアは、この店を秘密の隠れ家として通っていた。
「きっととっておきの店だったのでしょう。そのような場所へお招きいただき、ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます」
「気にしなくていいわ」
決して広くはない喫茶店の中。貴族にしてみれば額をこすり合わせるような距離で、四人はひとまず落ち着いて、しかる後にそれぞれメニューを手に取った。
「あら。バームクーヘンがある。店主、張り切ったわね」
「恐れ入ります」
「む? 失礼ですが、バームクーヘンとは?」
「我が国ではお菓子の王様とも呼ばれる焼き菓子です。幾層にも重なる生地が木の年輪にも見えることから、木のお菓子という名前がつけられました」
「そ、それは興味深いですね。私、それを頼んでみます」
その製法の難しさ、複雑さから、イースィンドではあまり認知されていないケーキに、ベルベットとカミーラは興味深そうに瞳を輝かせた。
ドロテアとエレオノーラも懐かしさからバームクーヘンを頼み、結局、四人は同じものを注文することになった。
「きっと見たら驚かれますわ。どうやって作っているのだろうかと」
「た、楽しみです」
「その特殊さから熟練した職人しか作れず、かつては門外不出の品として王家で供されていた菓子ですのよ」
「ほほう」
エレオノーラは他の三人よりも歳が若かったが、持ち前の人当たりのよさで場を盛り上げて、内気なカミーラも堅気なベルベッドも等しく楽しませていた。
ドロテアが無口なのはいつものことだ。彼女の無機質な表情にも今ではすっかり慣れたもので、四人とも特に気にせず取り留めもない話を続けていた。
「お待たせしました」
「わ、わあ……!」
「おお、これが」
マスターのサービスなのか、テーブルの中央に置かれたバームクーヘンは分かりやすい形をしていた。
まるで輪切りにした丸太のように皿の上にどんと鎮座する焼き菓子は、確かに何層もの生地が重なってできたものであり、他のどのようなケーキとも異なる見た目のものだった。
「今、切り分けますね」
八等分にさくりとカットされたケーキは、軽いように見えて、ずしりと生地が詰まっている。
一体、どのような製法で作られたものなのか。いやがおうにも心を引きつけるケーキに、甘いものはあまり得手ではないベルベットさえも釘付けになっていた。
「それでは、ごゆっくり」
取り皿の上には、カットされたバームクーヘンと、ベリーのソースと生クリーム。
添え物によってパッと華やかになったケーキに顔をほころばせて、女子たちはそれぞれにフォークを伸ばす。
「ん~……!」
口元を押さえて感嘆の声を漏らすのは、顔も性格も幼いことで知られるカミーラだった。
幼子のようにキラキラと瞳を輝かせ、口の中のケーキを嚥下したカミーラは、今度はソースと生クリームにたっぷりからめてバームクーヘンを頬張った。
「なるほど、これは絶品です」
辛党のベルベッドも唸らせる母国の焼き菓子。
少女たちの嬉しそうな顔を見て、エレオノーラは我がことのように誇らしげに胸を張っていた。
しかし、彼女の隣に座るドロテアは、美味しいケーキを口にしても何やら浮かない顔で……。
「どうかしましたか、姫様?」
「いえ、何でもないの。ただ……フランソワさん。そう、フランソワさんも来られればよかったと思っただけ」
「そうですねえ」
リスのように頬を丸くしながら、カミーラが相槌を打つ。
ドロテアたちはこうして喫茶店に来ているが、イースィンド一の大貴族の娘ともなるとなかなか時間が取れるものではない。
特に新年祭の期間は会食やパレードで引っ張りだこであり、美しく、華のあるフランソワはどこへ行っても注目の的だった。
「仕方がありません。フランソワ様は本作戦において中核的人物です。ドロテア様と同じように――」
「そう、ね。撒き得はばらけている方がいいわね」
「姫様……」
ベルベットの言葉に、一同はしばし神妙な顔をした。
本作戦。そう、彼女らがここでこうしているのも、とある作戦の一環だった。
街を騒がす謎の生命体。それを捕獲するために、ターゲットとなり得る人物をグランフェリアの各所に配置する。
敵の狙いは王族か、はたまた有力貴族の子弟か――バルトロアの王族さえも餌にした大胆不敵な計画は、イースィンドの威信がかかったものだった。
「本命はまだ捕らえられていませんが、幸いにして別勢力のあぶり出しには成功しております。新年祭のにぎわいに乗じて……という輩は、本作戦によって続々と逮捕されていると報告がありました」
「そう……」
ベルベッドの励ましにも、浮かない顔をして窓の外を見つめるドロテア。
街路の影には最強騎士カウフマン以下、名だたる騎士たちが控えているのだが、彼女の不安はそれでも晴れないというのか。
気にしたカミーラは、ある人物の名前を出してドロテアを元気づけた。
「大丈夫ですよ、ドロテア様。この中級区には黒騎士がいます。きっとドロテア様も助けてくれますよ」
「……っ! そ、そう」
ドロテアが黒騎士に助けられたこと。
それをきっかけにドロテアが黒騎士に執心していること。
周知の事実の通りにドロテアは頬を染め、しかし、それを気取られないよう平静を装っていた。
その様子を、少女たちはにこやかに見つめていた。
グランフェリア各所に張られた罠。
王侯貴族を餌にした大規模な捕獲作戦に――しかし、本命は反応すらしなかった。
「もしや、と思ったが……まさか生き延びていたとはな」
『オオ……』
「知性の片鱗すら感じられる。成長しておるな」
『オオオ……!』
地上のあちこちから感じられる良質な肉体。
否応なく本能を刺激する餌を感じとりながらも――それは、それどころではなかった。
「お前を生み出したのは明らかな失敗だった。あの時、最後の一滴まで蒸発させるべきだった」
『……オオ』
東洋に住むという仙人のような老人。
龍の翼と尾を備えた人物は、暗闇に支配された下水道で異形の怪物と対峙していた。
「さあ、自我があるなら観念せい! 本能あるなら立ち向かえ!」
老龍の吐息が炎に変わる。
下水道の闇が切り裂かれる。
「燃え尽きろっ! 抗うことなく輪廻に戻れっ!!」
怒号とともに放出された大火炎は、一瞬にして汚水をガスへと変え、それすら呑み込み下水道を直進する。
ゲル状の怪物は逃れることさえ許されず、灼熱の中へと消えていく――。
残ったのは、赤熱した魔導レンガの横穴と、煙を吐き出す老龍だけだった。
「許せよ……」
過ちとはいえ、自分が生み出した命を処断し、老龍はわずかな罪悪感に両手を合わせた。
じりじりとレンガがひりつく音が聞こえる――。
――と。
「むっ!?」
空間を裂く鋭い一撃に、老龍の頬が大きく裂ける。
遅れて、傷口から鮮血が流れ出す。痛みはまだ、感じられない。
「貴様……っ!?」
老龍がにらみつける先、魔導レンガのわずかな隙間から、じわじわと黄色い粘液が染み出してきていた。
少しずつ大きくなっていく粘液は、伸ばしていた触手をもするすると本体に戻していく。
同時に、触手に付着していた老龍の血が本体に取り込まれていく――。
『……オオオオオオオ!!』
「むうっ!?」
瞬間、光が下水道を照らし出した。
眩いばかりの光は地の底を黄金に照らし、溢れ出た光は街にいくつもの光の柱を作り出した。
温かい――しかし、底の知れない黄金の光に、老龍は肌を泡立たせて腕を十字に組んだ。
「くっ……!?」
警戒していた攻撃が来ない。
襲いかかってくるような獰猛な気配が感じられない。
代わりにあったのは、水を打ったような静けさと、どこまでも穏やかな空気であり――。
「なっ! き、貴様はっ!?」
やがて光が収まったころ、老龍は驚きに両目を見開いた。
『……ふう~』
粘液がいた場所。恐るべき魔物がいた場所に立っていたのは、黄金の男だった。
知恵の実の果汁でできたような透明感のある体。ロマリオ彫刻のような完全なる肉体。
頭に毛こそ生えていなかったが、英雄のような完成された身体を持ったスライムが、老龍の前に立っていた。
『清々しい気分だ……まるで生まれ変わったかのような……』
「人語を解するか……!」
自らの手をじっと見つめ、ぼんやりと何かしらを呟いていた怪物は、今、気がついたかのように老龍に目を向けた。
『ああ、貴方は……もう一人の創造主。喜んでください。私は使命を全うできそうです』
「使命? 使命だと……!?」
『ええ、使命です。私はポーション。完成されたポーション。人を癒し、活力を与えるために私は生まれました』
「そうだとしても、貴様は危険だっ! 魔物を野に放つことなどできはせぬっ!」
『魔物……? 私が?』
「魔物以外に何だというのだ!」
老龍の問いかけに、それはきょとんとした顔をした。
まるで、当たり前のことを聞かれたかのように――思いもしなかった、という気配を見せた。
それがかえってゾッとして、老龍はただちにそれを消滅させようとしたのだが――。
『違う。私はポーション。尊い願いと祈りが生んだ、林檎の名を冠したポーション。奇跡のアップル・ポーション……A・Pだ』
「何がA・Pかっ!」
再び放たれようとした炎熱を封じるように、A・Pは老龍の口の中へと飛び込んだ。
「むおっ!?」
そして、自分の体の一部を残して、振り向くことなく地上へと向かった。
『私は使命を果たさなければならない……この街にかかる暗雲を晴らさなければならない』
人型スライムとも言えるA・Pは、梯子に手をかけて竪穴を上っていく。
上へ、上へと。使命を果たすために。生まれた意味を成すために。
「んおおっ!! 駄目になるぅ! この味、駄目になるぅっ!!」
暗い地下の闇の中には、白目をむいてビクビク震える老龍ただ一人が残されていた。
やがて新年祭三日目の夜が更けていく。
祝いの花火は打ち終わり、それでも止まない興奮に、人々は空に向かって何度も何度も新年の到来を叫んだ。
どこもかしこもお祭り騒ぎ。上から下までひっくり返したかのような大歓声。
それでも、街のこの場所だけはこの日も変わらず澱んでいた。
「ははっ。よう、久しぶり。何の用だい?」
潰れてしまった場末のバー。ほこりが厚く積もり、ガラスの欠片が散らばる店内には、二人の男がいた。
「貴様の仕業か?」
肥え太り、頭もはげ散らかした中年男は、目だけは鋭く相手を見すえた。
「積もる話もあるじゃないか。そんなに急ぐなよ。ははは」
相対するバンダナを頭に巻いた青年は、カウンターに座ったままけらけらと笑うばかり。
彼の右手には乱雑に包帯が巻かれており、青年はそれを見せびらかすようにぶらぶらと揺らしていた。
「フォルカ様を襲ったのは、貴様かと聞いているのだ」
「おおー、怖い怖い。昔はあんなに仲が良かったのに、オレは寂しいよ。ははっ」
下級区を管理する男爵、ミケロッティ。
下級区を根城にする悪人、マチス。
かつてミケロッティが権力を笠に好き放題ふるまっていたころ、二人は綿密な関係にあった。
マチスが汚れ仕事を引き受ける代わりに、ミケロッティは金を渡す。
ミケロッティが金を渡す代わりに、マチスはミケロッティを闇の享楽に誘う。
次第に両者は不可分の関係となっていき、同時に下級区の治安は段々と悪化していったのだが――ある日突然、癒着は一方的に剥がされることになる。
「なあ、教えてくれよ。どうしてあんたはそんなに『いい子ちゃん』になったんだい? やってることも言ってることも、まるで若い時のあんたみたいじゃないか。せっかく仲良くなったのに、オレは悲しいよ」
「囀るな、薄汚い薔薇よ。私はもう、正道からは外れない」
「へえ……ははは」
丁寧に堕落させていったミケロッティに、一体、どのような変化が起きたというのか。
間近で見る澄み切った瞳に、マチスは結果よりも原因の方が気になった。
「まったく、バカ王子はたくましくなったそうだし、ミケロッティの旦那も正気に返るし、どんどん住みにくくなっていくなあ。ははっ」
わざとらしくため息を吐いたマチスは、上体を反らしてあからさまな隙を見せた。
そういったふざけた態度にも怒りを見せることもなく、ミケロッティはただじっとマチスをにらみつけている。
変われば変わるものだと感心しながら、マチスはまた、からからと笑った。
「もう一度聞くぞ。貴様の仕業か?」
「違うよ。はは、違う。オレじゃないし、オレたちでもない。王子様を襲うなんて、怖くてできたものじゃない」
どの口が言うのかとミケロッティは思った。
必要とあれば王国貴族にも手を出すのが『アンダー・ザ・ローズ』であり、マチスという男だ。
そんな彼が違うといったところで、言質になりはしないのだが――。
「……その言葉、信じよう」
哀しいことに、ミケロッティはあまりに闇に手を染めた期間が長すぎた。
マチスの虚言も見抜けるほど裏社会にどっぷりと浸かっていたミケロッティは、そのことを苦々しく思いながら踵を返した。
そして、そのまま潰れたバーを出て行こうとして、
「もうすぐ祭りが始まるぞ。ははは、楽しい祭りが始まるんだ。これからたくさん、この街に集まって来るぞ」
「……何?」
マチスの不吉な言葉に思わず足を止めた。
しかし、振り返ったその先には、すでにマチスの姿はなく――廃バーは、最初から誰もいなかったかのように静まり返っていた。
「どういうことだ……?」
ブラフか、真実か。
悪夢のように漂い消えていった予言は、今度ばかりはミケロッティにも判別つかないものだった。
表面上のにぎわいとは裏腹に、不穏な気配が濃くなっていくグランフェリア。
黒く染まりつつある華の都に、いくつもの影が暗躍する――。
「ぐううっ!?」
上級区東部、王立図書館裏手。
ここでも一つの影が蠢いている。
安穏に暮らす人々を脅かさんと、黒き牙をむいている。
『ハハハ、ハハハハ、アアァハハハハハ!! どうした! どうした、道化師! 貴様の力はその程度か!』
「くっ……!」
獅子を模した兜を被り、魔法剣を敵に向けて構える騎士。
マスクドレオン、あるいはライオン仮面と呼ばれる男は、全身から白煙を立ち昇らせて、今にも膝を着こうとしていた。
『騎士団も質が落ちたものだな。私のような存在の侵入をみすみす許すとは……厳戒態勢にあったことは褒めてやるが、それが意味を成さないのでは、な』
「あ、貴方は……!」
マスクドレオンは歯を食いしばり、今一度、剣を振り上げようとする。
しかし、【エレクトリック・ボルト】の直撃を受けた体には思うように力が入らず、マスクドレオンはとうとう前のめりに倒れてしまった。
「一体、なぜ、貴方のような人が……それに、それに貴方は……!」
『ほほう、私のことを知っているのか。面白い』
愉悦に顔を歪める黒衣の怪人。
人骨を組み合わせて作られた杖を持つ、恐るべき魔法使いの名は――。
『いいや、忘れてもらっては困る。私を忘れることなど、許されない! 私は人の業! 人の犯した罪、そのものだ!!』
ヴォールス・V・ハロルド。
かつてこの国で、宮廷魔術師長を務めた男であった。
ああっ、グランフェリアがどんどん魔都と化していく……!
……前からでしたね。どうってことない、どうってことない。
混沌としてきたサイドストーリーズF! 最終話もお楽しみに!




