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忍び寄る影

 私を忘れてはならない。


 私から目を背けてはならない。


 私こそは人間の業そのものであり、具象化した怨念だ。


 大地を穢し、大気を汚染し、ありとあらゆる悪徳を成す。それが私という存在であり、私をこうしたのは他ならぬ人間たちだ。


 怯えるな。震えるな。あるべくしてある私の行いは、やはり然るべきものなのだ――。


「……ん? お母さん、何か言った?」


 道具屋〈アップル・バスケット〉の若き店主、ミーシャ・ブランシェがその声を聞いたのは、一月一日のことだった。


 年末の大掃除で捨てきれなかった試薬を並べ、どうにかこれを有効利用できないかと考えていたミーシャは、地の底から響くような声に顔を上げた。


「え? ううん、何も言ってないわよ?」


「そう?」


 声を聞いたのはミーシャだけだったようだ。


 工房に繋がるリビングでは、揺り椅子に座ったアリーシャがうとうとと船を漕いでいて、彼女は娘の問いかけに眠たそうに答えていた。


「疲れてるのかな……ええい、もういいや。夜も遅いし、師匠も使い物にならないって言ってたし、これはもう捨てちゃおう。失敗を新しい年にまで引きずるのはよくないよね」


 しぱしぱとまばたきをしたミーシャは、虹色のポーション、蛍光色のポーション、ゲロ色のポーションを流しに捨てて、前かけを脱いでリビングに入った。


「お母さんも、もう寝よ。ここで寝ると風邪引いちゃうよ」


「そうね。うふふ」


 活発な短い髪の娘。おっとりとした長い髪の母。


 栗色の髪の毛をした親子は、姉妹のように仲良く手を取って、寝室へと向かっていった。


 魔法石の灯りも消され、道具屋〈アップル・バスケット〉からはすぐにも人気が絶えていく。


 二階の寝室からは規則正しい寝息が聞こえ始め、少し前までにぎやかだった工房も、今は物音一つ立つことはない。


 新年を迎えたグランフェリアは、年越しの夜とは打って変わって、穏やかなる静けさに包まれていた。 


 日付が変わるにはまだ少し早い時刻だ。しかし、この日ばかりは大都市も眠りに落ちていた。


『ア、オオ……』


 ――人々は寝静まっている。


 ――グランフェリアもまどろみの中にいる。


 ――だが、


『オオ……』


 だが、人外は。


 闇に蠢く化生のものは、誰の目もない地下深くで這いずり回り――。


『オオオ……』


 管を伝って流れ落ちてきた失敗作のポーション。


 光差さない下水道でそれを感知した『ナニカ』は、じゅるじゅると音を立ててポーションをすすった。


 下水に混じった試薬を飲み干し、体を脈動させるその者は、一体何者であるというのか。


 答えを知る者は誰もいない。きっと本人さえも分かっていない。しかし、それは自分がすべきことだけは、本能的に理解できていた。


『ワ、ワタシハ……』


 ごぽごぽと粘着質な声を発したその者は、ずるずると音を立てて、下水道の奥へと消えていった。


 胡乱な瞳は最後まで光を宿すことなく、ただ虚ろにいずこかへと向けられていた。


 ――そして、この日の夜から、グランフェリアには怪人が出没するようになった。









 最初の犠牲者が出た。


 朝も早くから木槌の音が響く中級区。新年祭の準備に駆け回っている人々は、繁華街の中央広場に人だかりができているのを見た。


「おい、何だ、あれ……?」


 夜が明けての道端に誰かが倒れていることなんて珍しいことではない。酔い潰れた者、青あざを浮かべた者、違法娼婦に眠り薬を嗅がされた者など、繁華街には多くの男たちが倒れている。


 だが、今回の事件は異常だ。パブも娼館も開いていないのに、繁華街の中央広場でひっくり返っていた男。警邏隊の防寒着に身を包んだ彼は、白目をむいたままガタガタと震えている。


 彼の体からは果実酒のような甘い匂いが立ち昇っていたが、酔っているわけではなさそうだ。頬はバラのように赤く染まっているのだが――これほど苦悶に歪んだ顔を、繁華街の住人たちは見たことがなかった。


「おう、どうした?」


「キリングの旦那!」


 野次馬たちが気味悪がって遠巻きに見守る中、いの一番に駆けつけたのはギルドマスター率いる冒険者たちだった。


 年が明けて三日の間、盛大に行われる新年祭のため、冒険者たちは総出で見回りを強化している。中級区は彼らの縄張りであり、ここで事件が起きるということは沽券に係わる問題だ。


 見過ごせるわけがなかったし、誰かの仕業であるのなら、その調子に乗った輩を断固として取り締まるつもりでいた。


 血気盛んな冒険者たち。しかし、今回の事件は、彼らほどの荒くれ者であっても顔を曇らせるものだった。


「うっぷ、何だこりゃ? ゲロみてえな、酒みてえな、ひでえ匂いがするぞ」


 吐しゃ物は見当たらないが、被害者の体からはそれらしき匂いがする。


 食べるもの、飲むものによって体臭が変わるという話はあるが、これはいささか度が過ぎている。


 さしものキリングも体をのけぞらせ、鼻先を手で払いながら、率いていた部下に指示を出した。


「しかも、血色はいいのに死人みてえな面をしてやがる……おう、取りあえず運べ。吐くもの吐かせて、解毒薬でも飲ませてやれ」


「はい!」


 これが単なる麻痺ならば、『アンダー・ザ・ローズ』がばら撒いた新薬だと分かっただろう。


 もしもあざや裂傷が見られたならば、強盗、あるいは喧嘩であると予測することもできただろう。


「新年早々、きなくせえな……」


 いずれの経験則にも当てはまらない被害者を見送りながら、キリングはぼそりと呟いた。


 何事もなく終わる新年祭などない。毎年、何かしらの事件が起きる。


 ただ、キリングには、これはそういったものとは毛色が違うように思えた。







 第二の被害者は――いや、初めての目撃者は、下級区に住む孤児だった。


 ラッパの音色が響き渡る正午のグランフェリア。孤児院の庭にテーブルを出して、そのうえにご馳走を運んでいた子どもたちは、一つ、また一つとチキンやハムがなくなっていることに気がついた。


「おい、誰だー? つまみ食いをしてるやつはー?」


 人一倍、新年のお食事会を楽しみにしていたケビンは、いつも自分がしていることを棚に上げ、真剣な表情で犯人捜しを始めた。


「あんたが食べたんじゃないのー?」


「ち、違うよ、ミミル。ケビンじゃないよ」


「そうだよー、違うよー」


 案の定、ミミルやメイ、エステルやベラなど、女子たちにツッコミを入れられるケビン。


 彼を庇ったのは、ケビンといっしょに動いていたベアードであり、セロとバルド、テオの年少三人組だった。


「天使が持ってっちゃったのかな?」


 くすりと笑うウィールの端整な顔立ちに、仲の良いアリッサが頬をわずかに染めた。


「モウタベテイイノ!?」


「あ、あ、違うよリラード」


「ダメー! まだ食べちゃダメだって!」


 ぴょんぴょんと飛び跳ね始めたリラードを、ベラやカール、ニックが慌てて追いかけた。


「あむー」


「くすくす……みんな楽しそうよね。ねー?」


 そして、ワールムを抱いたネネは、にぎやかな集団を楽しそうに見つめていた。


「さあ、みんなー。ケーキも運ぶわよー!」


「「「はーい!」」」


 シスタールードスに呼ばれ、元気に駆けていく子どもたち。


 庭に残った者も、食器を並べ、サラダを取り分けて家族のためにお手伝いをしていた。


 新年を祝うに相応しい、和やかな光景である。ブライト孤児院には、いつも温かな空気が流れていた。


 ――のだが、


「ふぅー!」


 この日はどこか様子が違った。


 コップの水に、一滴のインクを垂らしたような――漠然とした違和感が、一人の少女の第六感をざわめかせていた。


『オオ……』


「ふしゃー!」


 黒猫のニャディア。


 いつもツンとすました顔をしている少女は、孤児院に侵入した異物を追いかけ、裏庭のすみで耳と尻尾を逆立てていた。


「にゃっ! にゃうっ!」


 ぶにぶにとした黄色い体。全身が粘液でできたそれは、ニャディアが絵本で見たスライムとよく似たものであり、自然と怖気を震うような怪物だった。


『オ……オオ……』


「ふかーっ!」


 全身で相手を威嚇して、スライムを庭のすみへ、すみへと追いやろうとするニャディア。


 しかし、粘液の化け物は無作為に体を蠢かせるばかりで、ニャディアに意識を向けようともしない。


『オオオ……』


 化け物の体の中で、チキンや肉片が泡を立てて溶けていく。


 その様子に小さく震えながらも、ニャディアは懸命に時間稼ぎをしていた。


「お待たせしましたー! 院長先生を連れてきましたよー!」


 援軍はニャディアが思うよりも早くやってきた。


 弾丸のように飛び出して、ルードスを抱えて戻ってきた犬獣人の女性。


 大きな体のゴルディは、へろへろと舌を出して呼吸を整えた後、杖を構えたルードスを怪物の前へと押し出した。


「ささ、先生。一発、ビシッと決めてください」


「え、ええ」


 まさか王都の中に――まさか孤児院の敷地内に魔物がいたなど思いもしなかったルードスは、十字を切って動揺を落ち着かせていた。


(誰かが召喚魔法を使った? それとも使役魔法? 野生の魔物ではなさそうだけど……)


 まだ威嚇を続けるニャディアを優しく背中に隠してから、ルードスは天に向かって杖を掲げた。


 空いた右手で十字を切って、邪悪な存在への神罰を願う。聖技【グランドクロス】のモーションだ。


「天にまします我らの父よ。願わくは、この地に平穏をもたらしたまえ……」


 杖が白光に包まれて、黄金の十字が魔物の頭上に現れる。


〈司祭〉唯一にして、強大なる攻撃スキルが、今まさに魔物を浄化しようとしていた。


 ――しかし、


『オオオオオオ!』


「なっ!?」


 びゅるん! と音を立てて、魔物がルードスへと突撃をしかけた。


 あと少しで詠唱は完了していたというのに――それを察知したというのか、魔物の動きは鬼気迫ったものがあり、ルードスは見事に意表を突かれてしまった。


「くっ……!」


 せめて子どもたちだけは守ろうと、ルードスは両手を広げて魔物の進路を塞いだ。


 だが、魔物はルードスの慈愛を嘲笑うかのように、隙間を縫って彼女の背後へと突き進み――。


 狙っていたかのように、ゴルディの顔へと貼りついた。


「もがーっ!?」


「ゴルディ!?」


 ゴルディの頭を包み込んだスライムは、ごぽり、ごぽりと音を立てて彼女の口の中へと入っていき、その分、徐々に体積を減らしていった。


「むおおーっ!?」


 狂乱したゴルディが引きはがそうと爪を立てても、スライムはぶにゅぶにゅと潰れるばかりで、少しも離れることはなかった。


「い、今、助けます!」


「むむゃーっ!?」


 焦ったルードスは、止むを得ないと考えて、ゴルディもろとも魔物を【グランドクロス】の光で焼いた。


 すると、弾けるように魔物はゴルディから飛び退いて、驚くような速さで孤児院の塀を飛び越えていった。少し遅れて、アフロになったゴルディがどうと音を立てて地面に倒れる。


「あああ、ごめんなさい。ごめんなさい、ゴルディ」


 仕方がなかったとはいえ、愛する家族に攻撃スキルを使ったルードスは、悔恨の念に苛まれながら必死にゴルディに【ヒール】をかけた。


 しかし、彼女の予想に反して傷は浅かったのか、すぐにもゴルディは顔を上げ、【ヒール】を続けるルードスの手を止めた。


「ゴルディ!? だ、大丈夫なの?」


「……ええ」


 犬耳とアフロを揺らしながら立ち上がったゴルディ。


 彼女は――妙にキレイな顔をして、何やらおかしなことを言い始めた。


「こんなに爽快な気分になったのは初めてです。まるで全身の細胞が生まれ変わったような……シスター、ありがとう。以前にも増して、私の頭は冴えています」


「ご、ゴルディ?」


 理性が溢れるようでいて――その実、狂気に満ちたゴルディの顔を見て、ニャディアがぴゅうと逃げ出した。


 揺れる茶色のアフロに怯え、庭から一斉に小鳥が飛び立っていった。


 それでも意に介さぬゴルディは、両手を広げて天を仰ぎ、うっすらと目を細めて滔々と語り出す。


「分かる。分かりますよ。この星のこと。この世界のこと。生き物が生きる意味。神の存在。悪魔の企み。そのすべてが理解できます」


「ゴルディ、ゴルディ!? か、帰ってきてー!」


「ああー……! 何ということ……世界はこんなにも簡単だったのですね。分かる。分かりますよ。はい、これが真理の扉なのですね……」


「ゴルディーっ!?」


 遂にはトイレのドアを開け閉めし、理知的に瞳を輝かせるゴルディ。


 彼女の体から立ち昇り始めた香りは、果実酒にゲロをぶちまけたような悪臭だった。

















最後のサイドストーリーズだから、サイドストーリーズファイナル


フリーライフも、いよいよ終わりが見えてきましたよ。

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