小さな幸せ、ほっかほか
ロックヤード一家を迎えての新年会は大いに盛り上がった。
何しろ、絶えていたと思われていた主家筋に何人もの子や孫がいて、その者たちが一堂に集ったのだ。
ただでさえめでたい正月は、ますますめでたく祝うべきものとなり、重臣たちを招いての酒宴はいつになく盛り上がっていた。
「うー……飲みすぎたかな」
功労者である貴大とルートゥーは、ロックヤード一家以上に歓待を受けていた。
弥彦に注がれ、薫に注がれ、播磨八将にも酒を注がれた貴大は、すっかり出来上がって顔を真っ赤に染めていた。
「日本酒は……効くなー」
うわばみであるルートゥーは、大杯で一杯、二杯と飲み干していたが、貴大はおちょこに数杯でも結構つらい。
宴の途中には酩酊していた貴大は、最後の最後で起き上がり、自力でトイレに行くことができたが……もう少しで危うく粗相をするところだった。
「あー、でも、おせちは美味かったなあ。やっぱり日本はいいな」
しんしんと冷え込む空気すら気持ちよく感じ、貴大は壁にもたれて目を閉じた。
黒豆、数の子、ごまめにかまぼこ。それからくわいと紅白なます。
日本のデパートに売っているものより数段渋いおせちだったが、濃い日本の味は貴大を満ち足りた気持ちにさせていた。
「……お。今、うとうとしてたな。いかんいかん」
数年ぶりの正月の余韻に浸ったまま、ぐっすりと眠りたい。
危うく廊下で眠りそうになっていた貴大は、いつの間にか落ちていた腰を持ち上げて、またふらふらと廊下を歩いていった。
「お? 何だ、ここ。変なところに迷い込んだな」
板張りの廊下を進み、階段を下り、渡り廊下をいくつか越えたころ、貴大の酔いもようやく醒めてきた。
同時に、貴大は自分がめちゃくちゃな道順を進んでいたことに気がついた。
まったく見覚えのない部屋の前で、貴大はぴしゃんと頬を叩き、それからぶるぶると頭を振った。
「酔っぱらうのも大概にしないとな。城の人に迷惑かけたら、ユミィに怒られる……」
躾の行き届いた貴大は、頭に角を生やしたメイドの顔を思い浮かべながら、来た道を引き返そうとした。
――しかし、
「……ん?」
幽かな声が、彼の足を止める。
『貴大……貴大……』
「カオル、か?」
聞き覚えのある声は、貴大がよく知る少女のものだ。
どこからともなく漂ってくる甘い声は、確かにカオルのものであり――どこか違和感を覚えるものだった。
『貴大……来て……ここに来て……』
「こっちか……?」
声に誘われるように、貴大はどこともしれない廊下を歩く。
酔いではなく、夢を見ているかのように覚束ない足取りで、貴大はどこまでも連なる襖に沿って歩き――。
やがて、角を曲がったところで、呼び声の主を発見する。
「カオル……?」
「ふふっ……」
御簾の向こう、ブラインドに透けて見える少女は、幾重にも衣をまとい、高貴な姫君のように微笑んでいる。
彼女のそばには一組の布団が敷かれていて、そのそばには甘い香りを立ち昇らせる香炉が置かれ、カオルの唇には紅が塗られていた。
「来て……」
甘えるような、媚びるような短い言葉。
それが意味するものを理解できない男はいない。
かつて幾人の男女が臥所をともにしたその場所で、匂いたつような色気をまとったカオルは、艶めかしく腕を伸ばして貴大を誘う。
その動作一つ一つに隙がある。男を誘い込む穴がある。そして、罠を罠と感じさせない魅力があって、それらすべては貴大へと向けられていた。
「寒いの……ここに来て……」
女の許しを得た男は、迷うことなく御簾をくぐる。
それがこの世の常であり、ジパングにおいては不文律の作法であった。
言葉にせずとも伝わる意図。男を甘くくすぐる女の声。そういったものを受けて、年ごろの青年、佐山貴大は――。
「疲れているなら、早く寝ろよー」
それきり言い残して去っていった。
着飾った美少女には目もくれず、貴大は廊下の向こうへ歩いていって、躊躇うことなく角を曲がった。
残された玉藻前は、妖しげな微笑を浮かべたままだったが――すぐに表情を崩し、ヒステリックな金切り声を上げた。
「わ、わわ私の誘いを断るとは……!? 何だ、あの男はっ! 枯れておるのか!?」
(いや、だって、タカヒロだよ? 誘惑されるわけないじゃん)
(くうう……! わ、妾は金毛妖狐、傾城の大妖怪ぞ!? 妾にかかれば、たとえ干物のような老人でも……!)
(残念だったね。でも、諦めたら?)
「いぃぃーっ!」
悔しさのあまり布団に顔を埋め、泣き喚く玉藻前。
表情も口調も素のそれへと戻った妖狐は、枕をかきむしりながら、貴大が去っていった方へ恨みがましい目を向けた。
「おのれ、佐山貴大。おのれ、人間。妾を袖に振った罪は重いぞ」
(はあ……そろそろ私の体、返してくれないかなあ……)
復讐に燃える玉藻前にため息を吐きながら、カオルは疲れたように布団に寝転がった。
『こうなったらもう、実力行使よ!!』
女としての矜持を木っ端微塵に打ち砕かれて、玉藻前はなりふり構わぬ手段に出た。
カオルの体を乗っ取ったまま、大妖は力を解き放ち、妖気をまとってふわりと宙に浮かび上がる。
『ふふふ……どうだ、これが妾の本性よ。この美しい姿に言葉も出まい』
「えー……」
あくる日の朝、障子を開けた貴大の前に、九つの尾を生やした狐耳の美少女が現れた。
白砂の庭に浮かんだカオル――いや、カオルに憑依したままの玉藻前は、金色に輝く尻尾を揺らし、寝ぼけ眼の貴大に流し目を送る。
しかし、貴大は面倒臭そうにため息を吐いたかと思うと、障子を閉めて、もぞもぞと布団の中に潜り込んだ。
しばらくして、部屋の中からはいびきが聞こえてきた。放置された玉藻前の頭に、ちゅぴちゅぴとさえずる小鳥たちがとまっていく。
大妖怪は屈辱に顔を真っ赤にして、細かく、ぷるぷると震えだした。
『許さぬっ! 許さぬぞ、佐山貴大!!』
激昂した玉藻前は、爪を鋭く伸ばして、憎き男ののどをかき切ろうとした。
だが――。
「うるさいっ!!」
『ぶべらっ!?』
部屋からにゅっと出てきた龍の尾に払われて、玉藻前は勢いよく庭の白壁に叩きつけられた。
ガラガラと音を立てて崩れる壁に巻き込まれ、土砂に埋まった玉藻前は、信じられないとばかりに目を見開いた。
『馬鹿なっ!? この体はカオルのものなのに……!? なぜ躊躇わぬっ!? なぜ殺しにかかる!?』
玉藻前が見ている前で、障子が迷惑そうにピシャンと閉まり、それきり誰も出てこなかった。
攻撃をしたのではない。うるさいハエや蚊を追い払ったに過ぎないのだ――。
そのことに気づいた玉藻前は、悔しさのあまり憤死しそうになった。
『妾は、妾は大妖、玉藻前ぞ……!』
(タマちゃん……)
『うるさい、うるさいっ! 妾の名は玉藻前だーっ!』
今にも血涙を流しだしそうな玉藻前を憐れんで、カオルの魂はぽんと彼女の肩に手をかけた。
地団駄を踏むようにそれを振り払った玉藻前からは、威厳や威容など欠片も感じられなかった。
(タマちゃん、本当に大妖怪なのかしら?)
もしかして子狐が背伸びをしているだけではないか。カオルにそう思われて、今にもアイデンティティを崩壊させそうな大妖に――それでも、声をかける者がいた。
「そうか、お前は玉藻前だったか」
『むっ!?』
正しく呼ばれた自分の名前に、玉藻前はすぐにも立ち直り、顔を上げて胸を張る。
『そうだ、妾こそは妖怪の中の妖怪。金毛の大狐とは、妾のことよ』
ふふーんとふんぞり返って、得意げに笑ってみせる玉藻前。
孔雀のように尻尾を広げた彼女の胸に――ギラリと輝く白刃が突きつけられた。
『……え?』
刀身から立ち昇る冷たい殺気に気がついて、玉藻前はようやくまぶたを開けた。
きょとんとした顔の彼女の前には、憤怒の悪鬼かと見まごうばかりの老人が立っていて――。
「久しいな、玉藻前……お前のことを忘れた日はなかったぞ……!」
『ひっ!?』
全身から怒気を発する老人の名は、岩庭弥彦。
彼こそは、かつて玉藻前の妖術によって、イースィンドの地へと飛ばされた男である。
玉藻前にとっては憎い相手であったが、それ以上に、弥彦にとっては玉藻前は怨敵だ。
「黄泉路よりさ迷い出たか、狐ぇぇ……そればかりか、我が孫に取りつくなど戯けたことを……! 今度こそ、引導を渡してやろうぞ!」
『ひいいっ!?』
目にも止まらぬ速さで振り下ろされた刀を間一髪で避けた玉藻前は、愕然としながら大声でわめき散らす。
『こ、こ、この体は、この体はお前の孫のものぞ!? 今の妾を傷つけるということは、カオルを傷つけることと同じ! それが分からないお前では……』
「喝ッッッッッ!!」
『いひいっ!?』
叩きつけられた裂帛の気合に、カオルの体から玉藻前がすぽんと飛び出した。
豪奢な着物をまとった狐耳の美女は、今まで自分が取りついていた少女と、抜身の刃をぶら下げた老人を交互に見やり、飛び退くようにその場から逃げ出した。
『ば、馬鹿な……!?』
ただでさえ白い顔をますます青白くさせながら、玉藻前は白煙に乗って、流れるように廊下を進む。
想定外の事態に混乱した妖狐は、童のように縮こまり、顔を袖で覆って逃げ去っていく。
だが、彼女が進む先には、決して逃がさないと薙刀を構えた老女が立ち塞がっていた。
「この日を夢にまで見ましたよ、玉藻前。憎い貴女に刃を突き立てるその日を……」
『ええい、退け、退けぇ! そこを退けぇい!』
「黙れ、女狐ぇぇぇ!!」
『なあっ!?』
薫がくわっと目を見開いた瞬間、柱という柱がスライドし、中から小さな仏像が現れる。
座禅を組んだ仏像群から放たれた光は、鎖のように玉藻前へと絡みつき、妖狐の動きを鈍らせる。
『こ、これは一体!?』
身動き一つ取れなくなった玉藻前は、廊下に座り込みながら、光り輝く仏像群を睨む。
「お兄様を妖怪に隠された私が、何の対策もしていなかったとお思いですか……」
『ひっ!?』
玉藻前の肩に、ずしりと薙刀の刃が乗せられる。
「妖怪に苦しめられた私が、何の研鑚も積んでいなかったと思ったか……」
『ひええっ!?』
反対側の肩には、刀の腹が乗せられた。
そのどちらの刀身も玉藻前の首筋に向けられており、それは今にも動きだし、彼女の首を切断しそうに見えた。
「因果応報……」
「冥府に落ちろ、性悪狐……」
『い、命だけはお助けをーっ!?』
刀と薙刀を構えた老兄妹を見上げ、玉藻前は涙を浮かべて助命を願った。
しかし、弥彦たちの表情は変わらず、彼らの瞳には殺気が渦巻くばかりで――それがますます、妖狐の視界を涙でにじませた。
「こ、このままだとタマちゃんが死んじゃう」
最大の被害者であるはずのカオルは、逆に不憫に思い、復讐鬼たちの私刑を止めに走った。
まさかの妖狐復活も、過ぎてしまえばいいにぎやかしであった。
一月二日。弥彦と薫が修羅と化した日の夜、貴大は縁側に座ってお茶を飲んでいた。
「まったく……」
ゆるゆると首を振りながら思うことは、記憶にも新しい玉藻前のことだった。
カオルの体に憑依して、貴大をたぶらかそうと色仕掛けをする。それが通じないと分かれば、今度は正体を現して、実力行使に出ようとする。
「日本昔話か」
ある意味ではお約束に忠実な妖狐のことを思いながら、貴大はまた、湯呑に口をつけた。
「あっ、ここにいたんだ」
「ん? カオルか」
大晦日の夜とは反対に、縁側に座る貴大にカオルが声をかけた。
カオルはいつものような気安さで、ひょいと貴大の隣に座って、はあと大きく息を吐いた。
「あの妖怪、どうなったんだ?」
「あー、タマちゃんね。お爺ちゃんたちは『寸刻みにして、肥溜めにばら撒いて、そこに火をつける』とか物騒なこと言ってたけど……かわいそうだから助けてあげたよ」
「え? よく許してもらえたな。お前の爺さん、絶対に殺すってノリだったのに」
「そこはほら、岩庭家の守り神になって尽くします、ってことで手打ちにしてもらったの。悪さをした分の何倍も人助けをするってことで」
「えー……でも、妖怪だろ? ってことは魔物だぞ、魔物。共存できるのか?」
「根は悪い子じゃなかったし……それに、ルートゥーちゃんだって魔物でしょ? タカヒロたちはうまくいってるじゃない」
「あ、そうか」
縁側に並んで茶飲み話をする二人。
月明かりに照らされた貴大とカオルは、茶を飲み、菓子をつまみながら、あれやこれやと話を続ける。
そうするうちに、ふと気になることを思い出したカオルは、流れに乗ってそのことを聞くことにした。
「そういえば、タカヒロ。よくタマちゃんに抱きつかなかったね」
「ん?」
「ほら、昨日の晩。タマちゃん、気合を入れてたじゃない」
「あー、そのことか」
貴大に聞いてから、カオルの心に後悔が湧き上がってきた。
美女妖怪が相手でも、体がカオルじゃな……と言われるかもしれない。
いや、大いにあり得る。きっとそうに違いない。
自分の容姿に自信がないカオルは、動揺を隠すように笑って先手を打った。
「まあ、私の体じゃ無理もないか。色気ないもんね、私」
――恋しい男に言われるよりは。
先んじて自分を卑下したカオルだが、彼女の予想に反して貴大は首を横に振った。
「いや、違うぞ。ちょっと考えてみろよ」
「え? 何を」
「たとえば俺がだな。ある日突然、貴族みたいな恰好をしてだな。半裸でベッドに寝そべって、『来いよ、子猫ちゃん』とか言い出してみろ。おかしいと思うだろ、普通」
「あっ!? あーあー、そうね! そうなるね!」
当たり前のことにようやく気がついたカオルは、意表をつかれたとばかりに手を打って、何度も何度もうなずいた。
「それに俺は、魅了とかを防ぐアクセサリをつけてるからな。そうでなきゃ、とっくの昔にイヴェッタさんの【チャーム】で骨抜きにされてる」
「へー。あれって、そういうことだったのね。私はてっきり……」
「てっきり?」
「う、ううん、何でもない!」
てっきり、ユミィちゃんやルートゥーちゃんみたいな、小さな子が好きなのかと思ってた。
てっきり、男として枯れているのかと思ってた。
そういった言葉をごくりと呑み込んで、カオルは笑いながら両手を振った。
「じゃあさ、貴大ってどういう子が好みなの? どういう子なら彼女にしたい、とかさ」
「んー……? 好みかあ」
誤魔化すためにカオルが放った言葉を、意外にも貴大はまともに受け止めた。
腕を組み、体を反らせて考え込む貴大。彼は月を見上げながら少しずつ語り出す。
「まともな子だな。ほら、俺の周りには変わり者しかいないだろ? 平々凡々とした女の子がいい。恋人ってか、嫁にするならカオルみたいな子がいいな」
「えっ……」
思わぬ言葉に、胸を高鳴らせるカオル。
彼女は貴大の心をもっと知ろうと、ついつい身を乗り出して――。
「カオル! カオル! 助けてたもれ! ヒナゲシが妾をいぢめるのじゃ!」
懐に飛び込んできた少女に押し倒されて、カオルは廊下にひっくり返った。
「どうなってるんだ? なあなあ、尻尾の生え際ってどうなってるんだ?」
「ひいっ!? ち、痴漢が来おった……!」
余分な力を封じられ、10歳そこそこの少女の姿になった玉藻前は、同じような背丈のヒナゲシに尻をなで回されて悲鳴を上げた。
「そもそもどっから生えてんだ、それ? 腰か? ケツの穴か?」
「助けてたも! 妾を守ってたもれ!」
巣穴に潜り込む子狐のように、カオルの胸に顔を埋める玉藻前。
それと、しつこく彼女の体をまさぐるヒナゲシに押し潰されて、カオルはうっと声を上げた。
「こら、姉ちゃんを踏んじゃダメだろ」
「お、おお……? 体が浮かんでいる……」
「はいはい、よかったな」
呆気にとられていた貴大が、我に返ってひょいとヒナゲシを持ち上げた。
「あー、ビックリした」
「ふぃー。助かったのじゃ」
「はいはい、よかったね」
ひっくり返っていたカオルも、玉藻前を抱いて起き上がった。
「うう、強引なやつは嫌いなのじゃ」
「そうツレナイことを言うなって」
貴大とカオルのひざの上から、それぞれ言葉を投げかける少女たち。
一方は牽制し、もう片方は親しげに笑う二人に、貴大とカオルはぷっと吹き出した。
「案外、うまくやっていけそうだな」
「だね」
少女たちが乱入し、愛や恋を語らうような雰囲気ではなくなった。
熱に浮かされたような気持ちも、胸の高鳴りもどこかへ消え失せた。
(お嫁さんにするなら、私みたいな子かぁ。ふーん……ふふふ)
しかし、不思議とカオルの心はぽかぽかと温かく、ちょっとした幸せに彼女は満たされていた。
カオルさん、ちょっとちょろくないですか……。
とはいえ、普通の感性の持ち主ならば、好きな人の言葉に一喜一憂するものです。むしろ、いきなり子どもを作ろうとするエルフさんやドラゴンさんがおかしいんや……。
カオルさんには幸せな家庭を築いてもらいたいところですね。
さてさて、次章はサブキャラ(ほぼ)総出演のサイドストーリーF!
お楽しみに!




