恋の花、咲きました?
大晦日の夜は明け、晴れて新年を迎えた播磨国。
「あけましておめでとうございます」の言葉が通りに響く。
城へと続く坂道を、紋付き袴の武士たちが連なるように登っていく。
そして、城で働く下男下女たちは、日が昇る前から宴の準備に奔走していた。
「鯛は焼けたかーっ!?」
「はいー! 色よう焼けましたー!」
「お節の盛りつけはーっ!」
「できております! いつでも運べますー!」
「じゃあ、お弓ちゃん。これ、菖蒲の間に持ってって!」
「……はい」
京で修業を積んだ料理人でもいるのか、はんなり言葉が混ざった怒号が轟く台所。
もち米を入れた蒸籠はもうもうと湯気を立ち昇らせて、姫路城の台所は白くけぶって見えるほどだ。
その中を多くの男女が行き交っている。つまみ食いに来たヒナゲシがちょこまかと駆け回っている。さり気なく下女に混ざって働いているのは、もしかしなくてもユミエルだ。
混乱の中では誰も気づく者はなく、ユミエルは当然のような顔をして、お膳や徳利を運んでいた。
「あれ? ユミィのやつ、どこに行ったんだ?」
台所が戦場と化した一方で、客間はいたって静かなものだった。
昼前にようやく起き出した貴大は、布団に潜り込んでいたルートゥーを部屋の外へと蹴り出して、しわのついた寝間着をのそのそと脱ぎ捨てていた。
寝ぼけながらも戻ってきたルートゥーをあやしながら、ジーパンとセーターというラフな格好に着替えた貴大は、さて、茶でも飲むかという段階でユミエルの姿がないことに気づいた。
「トイレか?」
中途半端に開けられた襖の向こうには、丁寧に畳まれた布団が二組。
ユミエルが片づけたであろう寝具からは、ほんの少しも温もりが感じられなかった。
――はて、こんな早くにユミエルはどこに消えたのだろうか?
怪訝そうな顔をした貴大は、高く昇った太陽を見て、自分が寝過ぎていたことにようやく気がついた。
「寝正月だな……平日なら殺されているところだ」
人の布団で二度寝を決め込んだルートゥーに苦笑しながら、貴大は緑茶を入れてゆっくりとすすった。
「タカヒロー……一人寝は切ないのだー……むにゃむにゃ」
「なんつー寝言だ」
雅やかな寝間着をこれでもかと着崩したルートゥーは、シルクのパンツを丸出しにして、すかー、すかーと能天気な寝息を立てていた。
それがどうにもおかしくて、貴大はちらりとのぞいていたルートゥーのお腹を、軽い調子でぽんと叩いた。
すっかり目が覚めた貴大は、どこへ行くともなく城の廊下を歩いていた。
朝飯を食べるには遅い時間だよなー、だとか、新年会は昼からだったかな、だとか、とりとめのないことを考えながら、貴大はぶらぶらと城内を散策する。
今回で二度目の訪問であったが、日本の――いや、ジパングの城は貴大にとっては馴染みのないものであり、ただ見て回るだけでも彼はそれなりに楽しめていた。
「ここの隠し扉とか、忍者屋敷みてーだな」
柱の一部分を外し、寄木細工のように残りの部分をスライドさせることにより、漆喰の壁が音もなく開いていく。
現れた小部屋の奥に鎮座する金の仏像を興味深く見つめた後、貴大は慣れた手つきで柱のパーツを戻していった。
「いかんいかん。泥棒っぽかったな、今の俺」
斥候職を極めた貴大は、意識せずとも罠や仕かけを見抜き、造作もなくこれを解除する。
迷宮では重宝する能力だが――使い方を変えれば、人様の金庫や宝物庫さえ暴くことができる。
我ながら手癖の悪いことだと笑いながら、貴大はまたふらふらと歩き始めた。
「ややっ。そこなお方は、もしや佐山殿ではありませぬか?」
「おお、本当だ。佐山殿。おうーい、佐山殿!」
しばらく進んだところで、貴大は横手から声をかけられた。
視線を向けると、そこには八人の男たちがいて、彼らは揃いの紋付き袴でめかし込んでいた。
「えっと、確か……播磨八将さん?」
「そうです、そうです」
「覚えていただけていたとは、光栄でございますな!」
上は五十、六十の老人。下は二十歳そこそこの若者と、年齢だけがバラバラな男たち。
播磨国で将を務める八人の武士たちは、親しげな笑みを顔に浮かべて貴大へと近づいていく。
「あけましておめでとうございます、佐山殿」
「岩庭家だけではなく、佐山殿まで揃うとは、めでとうございますなあ!」
「は、はあ」
偉丈夫であるか、さもなくば達人か仙人か、という風貌の男たちは、やたらフレンドリーな態度で貴大を囲んでいく。
その男臭さ、威圧感が苦手な貴大は、蛇に睨まれた蛙のように首をすくめて、曖昧な返事をするばかり。
「めでたいついでに、佐山殿とカオル様が結ばれれば、望外の喜びでありますなあ……」
「おや、大藤殿もそうお考えで? 奇遇ですなあ……」
「ねえ、お似合いですよねえ。佐山殿とカオル様……ふふふ」
(ひいい……!?)
播磨八将は円陣を組んで、ゆったりと体を左右に揺らしながら貴大に微笑みかけた。
気づく間もなく籠の鳥となった貴大は、ますます怯えて顔を青ざめさせていた。
――と、そこに。
「あら、皆さま。お揃いで」
「むうっ!?」
播磨八将が、思わず唸るほどの美姫が現れた。
椿油で整えられて、結われた黒髪が美しい。白い着物には赤い帯が巻かれ、裾に散らされた金銀紋様が美しい。薄く紅を塗られた唇は、見る者の心をハッとさせ、美姫へと視線を釘づけにした。
「え……? もしかして、カオル、か?」
「そうだよ、貴大」
立ち尽くす貴大に流し目を送り、妖しく微笑んでみせた美姫の正体は、貴大もよく知る少女だった。
カオル・ロックヤード。岩庭家の直系の姫でありながら、つい先日まで庶民として暮らしていた少女。
素性が判明してからも変わりなく過ごしていたカオルが、どうしたことかお姫様と化している。
その変わり身に、貴大と播磨八将は目を見開いて驚いていた。
「くすっ。どうしたんですか? そんなにぽかんと口を開いて」
「あっ! ああ、いやあ、その」
「カオル様、よく似合って……おりますぞ」
「ありがとうございます」
百戦錬磨の老将さえも、事態を呑み込めずに言葉を詰まらせている。
そうなってもおかしくないほどの変化が、カオルの身に起きていた。
「それでは、私は新年会の準備がありますので……また、後ほど」
「は、はい! また後ほど!」
最後の最後まで、播磨八将は動揺したままだった。
「それじゃ、貴大。また後でね」
「あ、ああ」
たおやかに手を振られた貴大も、カオルから目を離せずにいた。
カカシのように立ち尽くす男たちに見送られ、美姫に変じたカオルは、上品な足つきで遠ざかっていく。
背中に集まる視線を感じながら、カオルは楚々と微笑み、廊下の角をするりと曲がった。
そして――。
「何と他愛のない。ふふふ……」
妖艶な微笑を浮かべ、袖で口元を隠し、くすくすと笑いだした。
その表情、その仕草は、昨晩、カオルが出会った狐耳の美女と同じもの――いや、奇妙なことに、寸分違わぬものだった。
「妖術を使うまでもない。男など、ほんの少しの色香に惑わされる。可愛いものよ、容易いことよ」
瞳を紅く光らせて、カオルは大人びた表情を見せていた。
何がそんなにおかしいのか、度々足を止めてはくすくすと笑い、赤い舌をちろりとのぞかせていた。
そんな彼女を下男下女たちが見惚れては、仕事の手を止めていた。その様子を横目で見ながら、カオルは満足そうにまた笑う。
「みんな貴女に惹かれていますよ。どうです、気分がいいでしょう?」
やがて、人気のない廊下に立ったカオルは、中空に向かって話しかける。
そこには誰もいないはずなのだが――不思議と、カオルの耳に響く言葉があった。
(恥ずかしいよ……私の体、返してよー……)
恨めし気なその声は、カオルと同じ声色だった。
他の者には聞こえない声。脳内に直接語りかけてくる声に、カオルは――いや、カオルの体を乗っ取った者は、ゆるゆると首を振って答えた。
(嫌です。ふふ、目的を果たしていないのに体を返すなんて。それでは、何のためにとりついたのか分からないではありませんか)
(勝手な理屈だよ、それ……)
頭の中で語らいあうのは、狐耳の美女と、普段着姿のカオルだ。
お高くとまった美女――大妖『玉藻前』をじとりと見つめ、カオルは更に取りすがる。
(復讐だなんて、自分の体でやってよー……私を巻き込まないでー……)
(弥彦の孫、貴女の体を使うから面白いのですよ。ふふ、内側から侵食し、人や家を蝕む愉悦ときたら……一度味わえば、貴女もきっと病みつきになりますよ)
(嫌だよー……そんなの、悪趣味だってー……)
(嫌だ嫌だと言ったところで、貴女に抗う術はありません。ふふふ、さあ、いっしょに男たちをたぶらかしましょう。この身に溺れさせ、操り人形にするのです)
(そんな悪女みたいなこと、私の体じゃ無理だってー……)
抗議することも疲れたのか、カオルは力ない声を出して玉藻前を止めようとする。
しかし、狐の大妖は自信たっぷりに微笑んで、自分を卑下するカオルを励ました。
(貴女は姫としての素養を備えていますよ。大丈夫、きっとうまくいきます。心配することはありませんよ)
(うまくいっちゃダメでしょ……それに、さっきのタカヒロの顔、見たでしょ? 呆れてたよ……)
(あれは見惚れていた、というのです。貴女と私の美貌に、あの男も夢中でしたよ)
(そうかなあ?)
(そうですよ)
(そうかなあ……)
自信なく呟くカオルとは裏腹に、彼女の体は鷹揚に構え、微笑んでいた。
「見たか、桂。カオル様の、あの艶やかな姿を」
「おお、おお、見たとも。何という美しさ……若りし頃の薫様の生き写しよ」
「くっ……主君の筋にあたる姫に見惚れるとは、何たる不忠。この右近、一生の不覚でございます」
「いや、仕方がないことだ。磨けば光る方だと思うてはいたが、まさかこれほどとは。この私も不意を衝かれたぞ」
さて、カオルと玉藻前が問答をしていた頃。
廊下に残った播磨八将は、まだ蕩けた顔をして、我らが姫について話し合っていた。
「これはどういうことでしょうか?」
「岩庭の姫としての自覚が出たということか?」
「いや、そうなるまでの道筋が分かりません。それに、そういったこととはまた違う理由があるように思えます」
「では、何だというのか」
「少女から女になったかのようなあのご様子……もしや、カオル様は……」
「カオル様は……?」
「恋の花を、咲かせたのかと……!」
「「「おおお……!」」」
どよめく播磨八将は、うかがうようにさり気なく廊下の角を見た。
そこにはカオルの想い人であろう男が、呆けたように突っ立っている。
彼もまた、あの艶姿に魅了されたのだな。播磨八将はそのように予想を立てたのだが――。
「あいつ……カオル……」
肝心要、玉藻前に狙われた男は――。
「変なキノコでも食ったのか……?」
カオルは気が触れたのかと、愛や恋とはほど遠いことを考えていた。
カオルは磨けば光る少女!
なのに、なぜ、こんなに不安な気持ちになるのだろう……。
次回、カオル編最終話! お楽しみに。




