大晦日と狐の影と
大晦日は身内だけで、楽しく、心穏やかに過ごすもの。
戦乱絶えないジパングも、この日ばかりは平和に凪いでいた。
「ととさま、いつまでいられるの?」
「正月明けまでずっといるぞお」
「ほんと!? じゃあ、たこあげしよう!」
「あれあれ」
兵農分離を是としている播磨国では、かえって親に会えない子が多い。
国境警備に魔物の討伐。国内各地を飛び回る武士は、盆や正月でなければ家に帰ることもままならない。
その分、家族に会える喜びは一入で、城下町のそこかしこからは楽しげな声が上がっていた。
「おおおお……! よく似合っております。よく似合っておりますぞおぉぉ……!」
海に面した城下町、姫路の町を見下ろす城からも、歓喜の声が聞こえてくる。
「弥彦様、二人の薫様、暁様、昴様、毛糸様、守雅様、雛罌粟様……ハレの着物が、よくお似合いでございます!」
貴賓をもてなす白鳳の間。広々とした畳敷きの部屋では、和服を着た岩庭一家がずらりと並んでいた。
「くぅーっ!! 一時はお家断絶かと思われた岩庭家に、これほどの直系、親縁の方がいらっしゃったとは……! そして、揃って正月を迎えられるとは……! この佐平、感無量でございます!」
「うん、そうだな、佐平。私もそうだよ」
「おおおー……!」
古くから岩庭家に仕えていた老臣が、涙を滂沱のごとく流しながら弥彦を見上げる。
彼の感激、感動を受け止めて、弥彦は今までの苦労をねぎらうように大きくうなずいた。
それでますます泣き崩れる佐平を見て、弥彦、薫の兄妹は優しげに彼の肩をさすった。
大晦日に相応しい、温かな光景である。
――だが、弥彦の親類は、割と容赦がなかった。
「姉ちゃん、姉ちゃん。あのジジイ、目が逝っててこええよ」
「こらっ、ヒナゲシ!」
思ったことを素直に口にする幼女は、いつだって自分の気持ちに正直だ。
混沌龍に乗せられたことは『楽しかった』。
はるか異郷、祖父の生まれ故郷は『潮臭い』。
色鮮やかな振袖も、彼女にとっては『動きにくい』。
脳と口とが直結しているヒナゲシは、播磨国のお偉いさんに、この上なく無礼なことを言い放った。
しかし、感動に震える佐平は、その生意気な態度こそ嬉しいものだというように、小さなヒナゲシに手を伸ばす。
「おお、おお、雛罌粟様は先々代の奥方様に似ておりますな。この気丈そうな眉、清楚な鼻筋など、まさしくそのもので……」
「ぎゃーっ!? 放せ、ジジイー!」
ひょいと抱き上げられたヒナゲシが、じたばたと短い手足を振り回した。
その元気のよさに、老臣はしわだらけの顔をほころばせ、ほっほと笑い声を上げていた。
さて、昼間はどこもにぎやかな大晦日ではあるが、日が暮れるにつれて町は静かになっていく。
降り始めたぼた雪に吸い込まれるかのように、ざわめきは密やかに、歓声はいずこかへと遠ざかる。
それでも、いくつもの灯りの元には、確かに多くの人がいる。親しい者で寄り集まって、行く年来る年を想っている。
先ほどまで騒がしかった姫路の城も、今はすっかり落ち着いて、一家団欒で新年を迎えようと――。
「わははははははーっ!! 酒だーっ! もっと酒をもってこーい!!」
「がはははははーっ!!」
――例年通りなら、そうなるはずだった。
一年を通じてにぎやかな姫路の城も、この日ばかりは静まり返る。
城主とわずかな奉公人は、心静かにそばをすすって、新年の訪れをじっと待つ。
この数十年はそうだったのだが――何と今年は、その城主が音頭を取って、やいのやいのと盛大な宴を開いていた。
「ささ、佐山殿もお飲みになって」
「おっとっとっと……いやあ、なんかすみません」
「弓恵琉さん、もうすぐお蕎麦が出来上がりますからね」
「……ありがとうございます」
早くも新酒の樽をパカンと開けて、家族と国賓に酒を振る舞う老城主。
岩庭薫は、新年よりも家族が揃ったことこそめでたいというように、手ずから酒を注いで回った。
「毛糸さんも、守雅さんも、遠慮はなさらないでくださいね」
「あははっ! らいじょうぶですよ、叔母さま! 飲んでまふ。飲んでまふよ!」
「す、すみません。ケイトちゃん、かぱかぱ飲んではすぐ酔っぱらっちゃうんです」
「うふふ、いいのですよ」
ケイトはぐでんぐでんに酔っ払い、モルガに介抱されていた。
「うおお、美味え! マンモス美味え!!」
「……はふはふ、つるつる」
ヒナゲシは握りばしでそばをかき込み、海老天の味に驚愕の声を上げた。
その隣では、姿勢正しいユミエルが一心にそばをすすっている。
「飲め! ほらほら、もっと飲め!」
「おおう! 言われずとも!」
「俺ももうちょっと飲むかな」
酒樽のそばに陣取ったルートゥーは升を振り上げ、巨漢のアカツキは負けじと杯をあおっている。
その隙間を縫うように、貴大はちょこちょこと小走りに駆けては、自分が飲む分を確保していた。
宴もたけなわ、白鳳の間は大いに盛り上がり、どんちゃん騒ぎはまだまだ終わりそうにない。
主催者からして、上機嫌に呑兵衛どもを煽っているのだ。朝まで続くか、それとも酔い潰れるのが先か。混沌とする白鳳の間のすみへと逃げて、カオルと叔父のスバルは羽目を外した者たちを見つめていた。
「あーあー、もう。あんなにはしゃいじゃって」
「ははは……兄さんは相変わらず豪気だね。すっかり順応している」
「ルートゥーちゃんに運ばれている間は、悲鳴を上げて青ざめていたのに……」
「それは私も同じだよ。父さんからジパングの話は聞いていたし、正月にジパングに行くという話も聞いていたのだけれど……いざその時が来ても、まるで実感がない。夢でも見ているような気持ちだ」
「ですねえ」
アカツキの弟、スバルは、兄と違って父親似だった。
とうの昔に三十路を迎えたというのに、未だ美男で通じる若々しさは、弥彦に通じるものがある。
ただ、大胆さ、豪胆さは兄に取られてしまったのか、スバルは少し弱々しいところがあった。
カオルと並んで茶をすすっているスバルの姿は、季節外れのカゲロウのようにも見えた。
「スバル。カオル。もう茶だけでいいのかい?」
「ええ、父さん。十分にいただきました」
「私も。っていうか、見ているだけで胸焼けしそう」
微笑みながら宴を見守っていた弥彦が、スバルとカオルに声をかけた。
彼らに合わせて湯呑を持った弥彦は、わいわいと騒ぐ家族と恩人たちに目を向けて、すぐにスバルたちに視線を合わせた。
「にぎやかなのはいいことだ。アカツキたちが王都に行ってからは、静かな日が多かったからね」
「ええ、そうでしたね」
「へえ……」
祖父や叔父のしみじみとした呟きに、カオルはそういえば、と思った。
喧しいアカツキとケイトが出て行けば、ジパニア村のロックヤード家は火が消えたようになるはずだ。
ヒナゲシはどこでも騒がしいが、夜は早々に眠ってしまうような子どもだ。きっと自分が考えた以上に、祖父たちは静かな夜を過ごしたのだとカオルは思った。
「まあ、今のうちに慣れておきなさい。明日は家臣がどっと押し寄せる。盛大な正月になること間違いなしだ」
「うわあ……ははは、それは覚悟をしなければなりませんね」
今以上に盛大だということは、今年の秋、弥彦が帰ってきた時よりも多くの人でにぎわうということだ。
押し寄せる人々、広間にずらりと並び、一斉に頭を下げる家臣たち。
そういったものを前にして目を回した経験のあるカオルは、スバル以上に言葉をなくし、ほんの少しだけ苦々しい表情を見せた。
「ん? どうした?」
「ちょっとトイレ」
「ああ。分かった」
話に一段落がついたところで、カオルはそっと立ち上がった。
問いかける祖父に短い言葉を返し、隣の叔父に軽く会釈をして、カオルは襖を開いて廊下に出た。
「ええっと、トイレは……」
壁にかけられた蝋燭が、ぼうっと光って板張りの廊下を淡く照らしている。
蝋燭の柔らかな光はふすまに描かれた古木や山河を微かに揺らし、まるで実物であるかのような錯覚をカオルに与えた。
「わ……」
人気が失せた大晦日。
背中に伝わる喧騒と、遠くの廊下を下男や下女が歩く音。
それらをどこか遠くの世界の出来事のように聞きながら、カオルは夢見心地に廊下を歩く。
「綺麗……」
薄暗い廊下を抜け、庭園に出たカオルは、思わず縁側に腰を下ろし、感嘆の吐息を漏らした。
月明かりに照らされた枯山水。三方を白壁に囲まれた日本庭園は、カオルを幻想的な世界へと引き込んでいった。
「ふ……」
言葉もなく、時おり、思い出したかのように息を吐き、カオルは呆けたように和風な光景に見入っていた。
壁が白く、砂が白く、降り積もった雪が白い。
どこまでも白い景色は、カオルの心さえ真っ白に染めていくようで、カオルの頭からは他の何もかもが消えていた。
(こんなところが、この世界にはあったんだなあ)
極東の島国、ジパング。
自分の生まれ故郷とは地続きでさえなく、しかし、血だけは繋がりのあるはるか異郷。
祖父の出身地。そして、想い人の生まれた場所。
様々な想いが入り混じって、カオルは日本庭園をいつまでも、いつまでも、飽きることなく見つめていた。
――と。
「このようなお庭は珍しいですか?」
「ふえっ!?」
一体、いつからそこにいたのだろうか。
カオルの隣には、目も眩まんばかりの美女が座っていた。
色とりどりの生地を重ねた着物。薄い金色の髪の毛と、ルビーのように紅い瞳。
ぴょんと尖った獣の耳と、何本ものぞくふさふさとした尻尾は、狐のそれと同じものだ。
狐獣人のお姫様だろうか? ――でも、そんな人がどうして私の隣に? カオルは大いに戸惑っていた。
「あ、あれ? ええ?」
目元に紅を塗った妖しの美女は、慌てふためくカオルの様子に、袖で口元を押さえてくすくすと笑った。
「播磨の姫様は親しみやすい方ですね。貴方の大叔母、薫様とは大違い」
「え、っと? 大叔母さんの知り合い、ですか?」
「ええ。薫様のことも、弥彦様のことも――よく存じておりますとも」
楚々と微笑むたおやかな女性は、カオルの目を真っ直ぐに見つめていた。
瞳の中へと吸い込まれそうな魅力は、カオルの知らないものだった。綺麗なだけではない。上品なだけではない。背筋をぞくりと震わせる妖しげな美貌は、カオルにはほんの少しもないものだった。
(綺麗な人だなあ……これぐらい綺麗だったら、私もモテてたのかな……)
「いえいえ。カオル様もお美しゅうございますよ」
「えっ!?」
ぽうっと美女に見惚れていたカオルは、思わぬ言葉に飛び上がらんほどに驚いた。
「わ、私、声に出していました!?」
「いいえ。でも、あれほど熱の籠った視線を受ければ、心は読まずとも分かりますとも」
「あ、あうぅ……」
カオルは恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
見ず知らずの人に魅了され、我を忘れるほど見つめるなんて、生まれて初めての出来事だ。
自分はさぞかし間抜けな顔をしていただろうなと考えて、カオルはますます顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにうつむいた。
「でも、貴女みたな綺麗な人を見たのは、生まれて初めてだったので……ついつい、見ちゃいました! ごめんなさい……」
「いいのですよ。私もカオル様のことを見ていましたから」
「ええ?」
今度は怪訝そうな顔をして、カオルは狐耳の美女を目を合わせる。
ころころと変わるカオルの表情が面白いのか、それとも別の何かがあるのか、美女はまたくすくすと笑いながら、そっとカオルの手を取った。
「弥彦様の孫。岩庭の直系のお姫様。見目も悪くなく、磨けば光る美しさがあります」
「え、いや、そんな」
「申し分ありません。申し分ありませんとも」
思ってもなかった賛美の言葉に、照れて頬を染めるカオル。
「……つっ!」
彼女は手の甲に走った痛みに顔をしかめ、美女につかまれた手を振り解こうとする。
「えっ!?」
しかし、動かない。
万力で固定されたかのように、カオルの右手はぴくりとも動かず、美女の左手も動かない。
月が雲に隠れ、辺りに闇が訪れる。それでも、狐耳の美女はぼうっと光り、彼女の美しさは陰ることがない。
「だ、れ……かぁ……!?」
異常な事態に、カオルは大声を上げようとする。
大声を上げて、祖父を、大叔母を、そして、貴大を呼ぼうとする。
「か……ぁ……」
最早、声さえ出せなかった。
紅い瞳に魅入られたカオルは、全身を硬直させて、ただ、美女が近づいてくるのを見ているしかなかった。
「申し分ありません。ふふふ……これなら……うふふ」
眼球と眼球とで接吻をするかのように、ゆっくりと顔を近づける美女。
カオルの視界いっぱいに、この世のものとは思えない美貌が広がっていき、
そして――。
「ほんほほんほほーん」
カオルが縁側に座ってしばらく。
同じように尿意を催した貴大が、厠へ続く廊下を歩いていた。
「ああ、飲んだ、飲んだ……」
それほど酒に強くない貴大は、すっかり酔いが体に回って、ふらつきながら廊下を進む。
「ああー、風が気持ちいいー……ん?」
やがて庭園に面する廊下に出た時、貴大はカオルが縁側に座っていることに気がついた。
「あれ? カオル、何してんだ?」
赤いメッシュの入った黒い髪。
振袖姿ではあるが、特徴的なその髪の毛は、貴大がよく知る少女のものだった。
「ちょっと、ね。お庭が綺麗だったから、見ていたの」
「へー。まあ、確かに立派な庭だよな」
振り返ったカオルが、柔らかく微笑んで、また庭園に目を向ける。
彼女の視線を追うように、貴大も雪化粧の日本庭園を見つめていたが、
「んじゃ、俺、行くわ。トイレ、トイレ……」
「うん、行ってらっしゃい」
ひゅうと吹いた寒風に、途端に尿意を思い出し、貴大は廊下の先へと歩いて行った。
その後ろ姿に手を振りながら、カオルは楚々と微笑んだままで――。
「うふふ……」
彼女の瞳が、一瞬、紅く染まっていた。
同時に、カオルの顔に妖艶な微笑が浮かぶ。
しかし、それを見た者は誰もおらず、誰も彼女の異変には気がつけなかった。
まさかのヒロイン乗っ取り!
カオルとキツネの力が合わさって無敵に見える(棒)
カオル編後半もお楽しみに!




