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もっと強くなれたなら

 古くは『エンヴィ文書』にもその名が確認できるユニーク・モンスター、ソウル・マテリアル。


 莫大な量の魔素をその身に宿した奇怪な魔物は、古代より戦士たちが追い求めた存在だった。


 倒しただけで、大幅なレベルアップを遂げられる。それはレベルが身体能力ステータスを左右する世界において、金脈や財宝にも匹敵する輝く宝だ。


 ――いや、そうではない。倒せることができたなら、自身が宝となるのだ。


 組織の宝、国家の宝、優れた人材はどこに行っても重宝されて、時には英雄として祭り上げられる。


 立身出世を夢見る者たちにとって、あるいは純粋に強くなろうとする者にとって、ソウル・マテリアルは魅惑の果実だ。


 一口かじって、黄金色に輝こう。


 だが、その願いのほとんどが、あえなく露となり消えていったことを歴史書は記している。


 ソウル・マテリアルは珠玉の存在だ。誰の目にも見え、冒険者ならば、人生で何度も遭遇することになる。


 鼻先をかすめて飛んでいくことがある。ふらふらと目の前を浮遊していくこともある。それを見た誰もが思う。「あれなら、狩れる」と。


 しかし、狩れない。どこまでも無防備で、どこまでも無抵抗な魔物を、どうしても狩ることができない。


 鬼火をまとい、ふわり、ふわりと宙に浮かぶ青銅色の金属塊は、寸でのところで身をかわす。


 どれほど素早い攻撃を繰り出してもダメだ。周到に罠をしかけても、それらすべては無駄になる。


 本気を出したソウル・マテリアルは、瞬間移動のような動きで空中をスライドし、どこへともなく消えていく。それどころか、逃げ道を塞ぐと煙のように消え失せる。


 ここで躍起になって追いかけてはいけない。魔素が詰まった不思議な箱を追っていった者は、いつの間にか魔物に囲まれ、または渓谷に滑落し、その命を散らすこととなる。


 誘うように姿を現し、人の命を奪っては、またどこかに消えていく不気味な魔物。これを狩って英雄となった者は数いれど、常人には討伐し得ないこともまた事実だった。


『ソウル・マテリアルを追うようなものだ』とは、イースィンドに伝わることわざである。楽をするため、危険な近道を選ぼうとする者を戒める言葉は、ソウル・マテリアルの脅威が一般にも知られている証であった。






「待てっ!」


 さて、そのソウル・マテリアルを倒そうと、アルティは貴大を連れてモルガの森に来たわけだが、


「この、くそっ!」


 やる気があれば何事もなせる、とはいかなかったようで、赤毛の冒険者は目に見えて苦戦していた。


『&$#”%&’)=”$#?』


 無機質で奇怪な声を発して、ふわり、ふわりと宙を漂う金属塊。その中心にナイフを突き刺そうと、アルティは豹のような身のこなしで地面を蹴るが、


『%$%&($)』


「ああ、もう!」 


 ナイフの切っ先がソウル・マテリアルを捉えた! と、思った瞬間、魔物はするりとその場を逃れ、またぷかぷかと宙に浮かんだ。


「手こずってるなー……まあ、仕方ないとも言えるけど」


 さりげなくソウル・マテリアルの行く先に立ちはだかりながら、貴大はこりこりと鼻の頭をかいた。


 極限レベルの彼がうかつに手を出せば、これ以上ない脅威を感じた魔物は、一目散に逃げ出してしまうだろう。さりとて、傍観したままでいれば、ソウル・マテリアルは熱くなったアルティを窮地に追いやるはずだ。


 結果として、貴大はアルティを見守りながら、つかず離れずの位置で周囲を警戒していた。


 貴大がソウル・マテリアルを倒して、アルティがそのおこぼれに預かるという方法もあるが――それは当事者であるアルティが強く拒んでいた。


 魔物は自分で倒してこそ意味がある。レベルアップは自分でつかんでこそ価値がある。誇り高い冒険者でもあるアルティは、助太刀を頼みながらも、そこだけは決して譲らなかった。


 そういった自分にはない気質を、貴大はかえって好ましく感じていたのだが……いかんせん、このままでは決着がつきそうにない。


 決定打に欠けるアルティと、貴大に企みを潰されているソウル・マテリアル。体力だけを無限に消費しそうな追いかけっこに、見ている貴大の方がそわそわとし始めた。


「アルティ! 急所以外の攻撃は、全部かわされるぞ!」


「急所!? 急所ったって、はあ、どこだよっ!」


「集中しろー! 真ん中ばっかり攻撃するな! そいつは体を組み替えてるだろ! 急所もずっと移動しているんだ!」


「だからっ、はっ、急所って、はあ、どこだっ!」


 嵐のような連撃を繰り出して、その全てがかわされる。そのようなやり取りを何度も繰り返したアルティは、体中から汗をふき出して、頭や首筋から蒸気を立ち昇らせていた。


 ――暑い。暑い。暑い暑い!


 防寒着である毛皮のジャケットなど、もう着てはいられなかった。じれったそうに上着を脱いだアルティは、汗でぐっしょりと湿ったそれを放り投げ、再び、ソウル・マテリアルに切りかかる。


 露わになった褐色の腕と腹に、若くしなやかな筋肉が見て取れる。逆に、肌にぴったりと貼りついたスウェット生地を押し上げる胸は、年ごろの女性らしく柔らかく膨らんでいた。


 控えめな女らしさと、戦士としての雰囲気が同居したアルティには、スポーティな魅力がある。彼女とソウル・マテリアルの戦いは、何かの演武のようにも見えた。


「集中するんだー! そうすりゃ、何となく分かってくる!」


「んな適当なっ! はあっ! はっ!」


 珠のような汗を散らし、息を荒げて舞い踊るアルティ。しかし、ソウル・マテリアルを倒すことに集中している貴大は、彼女に見とれることなく助言を送る。


 もちろん、アルティも、この時ばかりは貴大の気を引くことなど考えていなかった。戦士としての本領を発揮した少女は、赤毛を炎のように逆立てて、更に熱く、熱く、体を動かす。


(集中ったって、オレは、集中してるだろ!)


 ソウル・マテリアルへの苛立ちから、アルティは心の中で悪態をついた。


 集中。集中。集中すれば何となく分かる。集中できれば、敵の急所が見えてくる――。


 わけが分からなかった。自分はやれるだけのことはやっている。目をこらして、蠢く金属塊を見つめている。これ以上ないほど正確に、ナイフを魔物に向かって突き出している。


(でも、当たらねえっ! くそっ! くそっ!)


 まるで綿に向かってナイフを突き立てているようだった。


 手ごたえがあるようでない。突き刺さっているように見えて、その実、どこにも触れていない。


 揺らめくライト・パープルの光が、アルティの思考をぼやけさせる。徒労に終わる攻撃が、アルティの視界を狭めていく。


(急所……こいつの急所は、どこだ……)


 催眠術にでもかかったように、アルティは一心不乱にソウル・マテリアルを攻撃し続けた。


 彼女は、多くの先達と同じように、魔物の術中に陥っていた。このまま進み続ければ、彼女を待つのは魔物の巣か、奈落の底か。今はまだ貴大が行く先を調整できているが、それがいつまで持つかは、誰にも分からないことだった。


(集中……集中して、急所を見極める……)


 永遠に終わらないマーチのように、突き進み続けるアルティ。


『’%%’)””!』


 ソウル・マテリアルは彼女をからかうように空中でダンスを踊り、少しずつ、少しずつ、アルティを終焉に導いていく。


「どうしたもんかな……」


 貴大は口元に手をあてて、思案気な顔を見せるばかり。


 このままでは、いずれ『よくないこと』が起きる。それが分かっていながら、貴大は決して手を出さず、黙ってアルティを見守っていた。


(集中……)


 もはや無我夢中になって、魔物にナイフを振るうばかりのアルティ。


 体力を消費するばかりに見えた彼女に――ふと、変化が生じ始めた。


(……ん? 何だ、あれ……)


 ソウル・マテリアルの体に、濃い紫の点がにじんでいる。


 絶え間なく組み替わる金属塊の中にあり、常に表面を移動し続ける紫の欠片。


 それはぼやけた視界の中にあって、一際鮮明に見えるようだった。


(……あそこ。あれ、何だ……? 脆そうに見える……)


 息も絶え絶えといった実情とは裏腹に、アルティの思考は雲のように穏やかだった。


 半ば夢心地のように、紫の点を目で追うアルティ。次第にスローモーションに見え始めるソウル・マテリアルの動き。


 アルティはぼんやりとしたまま、指で押すような気持ちで、ソウル・マテリアルの点をナイフで突いた――。


『ぎぃぃぃぃぃやぁぁぁあああああああっ!!!!』


「っ!?」


 モルガの森に、身の毛もよだつような叫び声が響き渡った。


 先ほどまで発せられていた無機質な声とは正反対の、どこまでも肉感的な絶叫。


 それを発しているのは、金属塊の表面に人の顔を作りだして、裂けんばかりに口を広げているソウル・マテリアル!


「……あ」


 アルティは、魔物の眉間に突き立ったナイフを、自分が持っていることにようやく気がついた。


 彼女は、ナイフから腕へ、腕から腕の付け根へ、ゆっくりと視線を巡らせていき――。


「は、ははは……」


 腰が抜けたのか、それとも、疲労が限界に達したのか。とすんと軽い音を立ててしりもちをつき、ソウル・マテリアルに突き立ったナイフを緩慢な動きで引き抜いた。


『ぎええぇぇぇ……!』


 紫色の体液をアルティの脇にぼたぼたと落とし、少しずつ蒸発していくソウル・マテリアル。


 魔素の貯蔵庫にも例えられる魔物からは、二つ名に恥じないだけの魔素が噴き出し、アルティの体へ吸い込まれていく。


「はー……あー、つ、疲れた……」


 大量の魔素をシャワーのように浴びながら、汗だくのアルティはそのまま後ろへ倒れ込んだ。


 体は燃えるように熱く、腕はだるくて、鈍く痛んだ。達成感はまだ湧いてこない。伝説の魔物を倒したという実感も、全くと言っていいほどなかった。


 ただ、このまま寝てしまいたいほどの疲労感が……なのに、大声を上げたくなるような爽快感だけが、アルティの胸に満ちていた。


「やった、ぞー……!」


 無事だった左手を上げて、か細く雄たけびを上げるアルティ。


 彼女を見つめながら、貴大は満足げに何度かうなずく。


「でも、ギリギリだったな」


 直後、青い顔をして貴大は呟いた。


 彼の後ろには――魔物とアルティの進行先には、深い、深い、谷底が口を開けて待っていた。






「「かんぱーい!」」


 モルガの森から出てしばらく。宿場町に到着した貴大たちは、酒場に飛び込んで、高らかにジョッキを打ち合わせた。


「んぐっ、んぐっ、んぐっ……あああー、うめー!」


 あっという間にビールを飲み干したアルティは、ウェイトレスにおかわりを注文して、つまみの炒り豆を口に放り込んだ。


「あー……倒せたなー、ソウル・マテリアル」


「ああ、そうだな。おめでとう」


 だらしなく相好を崩したアルティは、テーブルにもたれかかりながら、反芻するようにまたにへらっと笑った。


 そんな愛くるしい少女に称賛の言葉を送りながら、貴大は樽ジョッキをぐいとあおり、自身も満足げに微笑んだ。


 ソウル・マテリアル討伐、見事に成功――!


 それはまだ二人しか知らないことだったが、確かに成し遂げられた偉業であり、レベルアップという形でこの世に残った事実だった。


「でも、思ったよりレベルが上がらなかったな。148から、151とか……オレはもっと、パーッと上がるもんかと思ってたのに」 


「まあ、そんなにうまい話はないってことだ。胡散臭い図鑑にゃ倒しただけでレベル200突破! とか書かれているけどさ。あれって、元からレベル200の英雄がソウル・マテリアルを倒したって話が、面白おかしく曲げられただけだと思うぞ」


「そういうのは早く言って欲しかったぜ……」


「俺もこの世界でレベル上げをしたわけじゃないからな。もしかしたらと思ったんだ」


「ん? この世界?」


「あー、いやいや。言葉のあやだ」


「ふーん……?」


 不思議そうな顔をしながらも、アルティは運ばれてきた二杯目のビールをぐっと飲み、パッと表情を明るくした。


「まあ、いいや。やっぱり、『ソウル・マテリアルを追っちゃダメ』だな。冒険者たる者、地道にレベル上げをしなくちゃな!」


「そうだな。俺がいなかったら、今ごろ、お前は谷底に真っ逆さまだ。レベル上げに関しては、あんまり楽な道は選ぶなってことか」


「うっ……き、気をつける」


 極限の集中状態、いわゆる無我の境地になれば、ソウル・マテリアルの弱点が見えてくる。


 しかし、未熟な者は、そこに至る前に魔物の策にはまって命を落としてしまう。


 そのことを知っていた貴大がサポートに回っていたため、今回は事なきを得たが――最悪の事態を想定すれば、二度とできることではなかった。


「まあ、言ってくれればいつでも手伝うからさ。助けがいるなら、また声をかけてくれ」


「あっ……ああ」


 珍しく真面目な顔を見せた貴大に、アルティは不意をつかれたように、どきりと胸を高鳴らせた。


「ん? どうかしたか?」


「い、いや? 何でも?」


 動揺を隠すように、アルティはぐいぐいとビールを飲み、運ばれてきた串焼き肉を詰め込むように頬張っていく。 


 怪訝そうな貴大の視線。それもしょうがないことだと分かっていながら、アルティは自分の行動を御することができずにいた。


「あー、うまかった! じゃ、じゃあな。オレは疲れたから、もう部屋に戻って寝るよ!」


「ああ。そうか」


「お、お先っ!」


 夕食をビールで飲み下し、何やらほのかに赤い顔をしたアルティは、ぎこちない動作で酒場の階段を上がっていった。


 目当ての魔物を倒したとはいえ、もう日が暮れている。夜に馬車を走らせるのは危険であったし、深夜に王都に着いたところで、門は朝まで開かない。


 そこで、貴大たちは最寄りの宿場町に泊まっていくことにした。お祝いだとばかりに町で一番いい宿を選び、その一階で夕食をとっていたわけだ。


 なので、アルティの寝るという言葉も、彼女が階上へ行ったことも、それほどおかしなことではないのだが――。


「……やけに早いな?」


 日が暮れたとはいえ、まだ夜になったばかりだ。酒盛り好きな冒険者にとって、18時、19時など「夜はまだ始まったばかりだぜ!」にもならない。彼らは22時、23時、下手をすると日付が変わるまで踊り、騒ぎ、酒を飲む。


 貴大が知るアルティも、多分に漏れず、そういった冒険者であるはずだった。最近は羽目を外さないようになった、とは風の噂で聞いていたが、それでもこんな時間に部屋に引き上げるのは、やはり考えられないことだった。


「あのアルティがビール二杯でもう寝ますとか……相当疲れてたんだろうな、きっと」


 常とは異なる行動をしたアルティ。貴大はしばしの間、彼女が去っていった方を見ていたが……そのうち、自分で解釈をして、うんうんと訳知り顔でうなずきながら、食べかけていた夕食に手をつけた。






 かつて栄えたロマリオ帝国は、交通の便を重要視し、街道を整備し、いくつもの宿場町を作ったという。


 旅人や軍人、商人たちが何不自由なく行き交えるように、道に石を敷き、立派な宿を用意したようだ。


 そのロマリオ帝国の文化の影響を少なからず受けたイースィンドでも、街道沿いの宿場町はよく整えられている。


 飲食店がある。宿屋がある。公衆浴場がある。娼館がある。旅先のストレスを少しでも和らげようと、宿場町には様々な施設があった。


「へー、これ、確かロマリオ建築ってやつだな」


 食事の後、貴大が訪れていた浴場もそのうちの一つだ。

 

 裕福な者たちが、それなりの金を支払って利用する個人浴場。他の者の目を気にせず、喧騒にも悩まされず、ゆっくりと風呂に浸かることができる小さな浴場は、高い料金の割りには一定の人気があった。


「石造りの風呂場に、細かい彫刻……マッチョマンの像は余計だけど、まあ、上等上等」


 安価な魔導石ではなく、ランプの淡いオレンジの光に照らされて、灰色の浴場は宮殿の一室のようにも見えた。


 貴大の家のリビングほどの広さ。その半分は四角くくり抜かれたように凹み、そこにはたっぷりのお湯が張られている。部屋のすみには香炉が置かれ、湯船にはご丁寧にバラの花びらが浮かんでいた。


 温泉でも湧いているのか、お湯は贅沢にもとめどなく流れ、湯気を立ち昇らせては、筋骨隆々とした英雄像をけぶらせていた。


「値が張っただろうに。アルティには感謝だな」


 備え付けの桶でかけ湯をして、貴大はゆっくりと湯船に体を沈めた。


「はふぅ~……」


 鼻をくすぐる甘い匂いと、体を包む温かなお湯。異なる二つの快感に、貴大はうっとりと目を細め、天井を見上げて大きく息を吐いた。


「まったく、アルティ様々だな」


 湯船のお湯をすくってばしゃばしゃと顔を洗った貴大は、えびす顔で先ほどの出来事を思い出す。


『風呂を借りたからさ。お前も浸かってこいよ』


 夕食を終え、部屋に入った貴大が、公衆浴場に行くためにタオルや着替えなどを用意していた時、アルティが訪ねてきてそう言った。


 彼女に勧められた貴大は、嬉々として宿に併設してある個人浴場に来て、こうして今、湯船で鼻歌を歌っていた。


「やっぱり、風呂はいいなぁ~」


 日本人だからか、はたまた本人の嗜好なのか、広々とした湯船、たっぷりとしたお湯に浸かった貴大は、この上ない心地良さを感じていた。


 一人だから、というのもよかった。同じ大浴場でも、混雑した公衆浴場ではなく、誰もいない個人浴場で、思うがままに手足を伸ばせる開放感!


 このままお湯に溶けていってしまいそうな快楽に、貴大は口元まで湯船に沈めて、だらしなく四肢を弛緩させていた。


 ――と、その時。


「ん?」


 ひたひたと洗い場から足音が聞こえた。


 誰かが間違えて入ってきたのだろうか。それとも、管理人が気を利かせて、冷えた果実水でも持ってきたのだろうか。


「誰ですか~?」


 まだとろけたままで、貴大は振り返りもせずに間の抜けた声を上げた。


 ……返事はない。個人浴場に入ってきた何者かは、黙って洗い場に立ち尽くしている。


「えっと……何か用?」


 不思議に思った貴大が、ようやく体を起こして、侵入者の方を向いた時――。


 バシャン!


「おわっ!?」


 何者かが湯船の中に飛び込んできた!


 まき散らされた飛沫しぶきに、思わず貴大が両目を手で覆うと――彼の体に、柔らかい何かが触れた。


「えっ? ええっ!?」


 慌てて貴大が顔を拭うと、彼の視界に、チョコレート色がいっぱいに広がった。


 体に密着してくる、硬いようで、むっちりとした『何か』。ランプの灯りに照らされて、蠱惑的に輝く褐色の『何か』。オレンジ色の浴場の中にあって、唯一、燃えるように赤い『何か』。


 ここにあるはずもない、いや、いるはずもないそれは、貴大の体を這い上がるように動き、彼の背筋をゾクゾクと官能的に震わせた。


「アル、ティ?」


 湿度の高い部屋の中にあって、なぜか貴大の口からは掠れたような声が出た。


「タカヒロ……」


 反対に、侵入者の――アルティの口からは、甘い、甘い、吐息が漏れた。


「おま、何やってんだよ……俺、裸なんだぞ……?」


「知ってる……」


 そう言うアルティも、一糸まとわぬ裸体であった。


 余計な贅肉は一切なく、そのくせ、両胸だけは控えめながらも膨らんでいる、少女の体。濡れたうなじや、見え隠れする桃のような尻に、貴大は鼓動が高まっていくのをはっきりと感じていた。


「な、何で……?」


 貴大は、それだけ言うので精一杯だった。


 もしもアルティがタオルを体に巻いていたなら、「今朝みたいに、何かのお願いか?」とからかう余裕もあっただろう。


 しかし、今のアルティの肢体を隠すものは何もない。貴大の体に触れて見えない部分は、伝わる感触が雄弁に彼女の肉体を物語っていた。


「オレ、さ」


「うん……」


 アルティは瞳をうるませて、とつとつと何かを話し始める。


 決意を秘めたような、何かに酔っているような、謎めいた雰囲気に、貴大は初心な少年のように素直にうなずいた。


「オレ、お前が好きなのかもしれない……」


「え……?」


「最近、ずっとお前のことを考えてる。ううん、もっと前から……憤怒の悪鬼から助けられた時から、お前のことが気になってた」


 突然の告白に、貴大は意外のような――でも、やっぱりかと、素直に納得できる不思議な気持ちになった。


 凶悪なユニーク・モンスターから救われた後。アルティはずっと、貴大のことをつけ回していた。そのくせ、声をかけると顔を真っ赤にして、八つ当たりのような態度を見せた。


 最近では、そういったことも収まっていたが……変わらず向けられる視線に、貴大はもしかしてと思っていた。


 そのおぼろげな予想が、確かな形となったのだ。戸惑いとはまた違った心境が、貴大の中にあった。


「でも、オレは冒険者だから……市場の娘みたいに、色恋だとか、恋愛だとか、そういうのとは違うって、ずっとずっと思い込もうとしてた」


 鼻先が触れそうな距離で、アルティは告白を続けていく。


 このまま進んだ先に、何があるのか。貴大は分かっていながら、彼女を引き離すことができない。


 サキュバスに魅入られたように、貴大はじっとアルティだけを見つめていた。


「だけど、これって、やっぱり恋なんだ。お前が好きって気持ちなんだ。今日、モルガの森でお前の戦いを見た時、そう思った。戦ってなくても、お前がそばにいるって意識しただけで、頭ん中がボーってしてた」


 今の二人の姿は、恋人の秘密の逢瀬にも見える。


 今にも口づけを交わしそうな二人は、しかし、彫像のように動かない。 


 どぼどぼと、湯船にお湯が流れ込む音だけが聞こえる――。


「なあ、お願いがあるんだ。オレとペアになってくれ」


「ペア、に?」


「ああ。冒険者としての相棒ペアに。唯一無二の親友ペアに。そして……人生の伴侶ペアに」


 決定的な言葉だった。


 YESかNOかで、二人の人生を大きく左右する、革命的な言葉。


 曖昧な言葉でお茶を濁すことなど、許されない。どこまでも真摯であることが求められる告白プロポーズに、貴大の体はぶるりと震えた。


「なあ、聞かせてくれよ、タカヒロ……お前はオレのこと、どう思ってるんだ……?」


「俺、は。俺は……」


 活発で、乱暴で、そのくせ、妙なとこで乙女な少女。誰よりも冒険者であることに誇りを持ち、先を、未来を見すえる少女。


 アルティという女の子を、佐山貴大はどう思っているのか。


 幻想的なランプの光の下、貴大はうわごとのように、自分の気持ちを口に出そうとして――。


「……ん? ちょっと待て、アルティ」


「な、何だよ!?」


 甘い雰囲気に呑まれかけていた貴大は、唐突に正気に返って、密着していたアルティを引きはがした。


 チョコレート色の二つのふくらみと、その頂点にあるさくらんぼ。それと、健康的なアルティの腹とおへそが見えたが、貴大はピクリとも反応せずに、まったく違う方向を向いていた。


「人が、人がせっかく勇気を出したのに!」


「いや、それは今は置いといてだな……あの像、この位置にあったか?」


「ああ!? 今は像なんて、どうでも……んん?」


 貴大とアルティが見つめる先。湯船の中心近くに、裸の英雄像が立っていた。


 惜しげもなく鍛え上げられた肉体を見せつけている石像は、ポーズを決めたまま、黙ってその場に立ち尽くしている。


 元からこの位置にあったと言われれば、納得できないこともないが――貴大とアルティは、激しい違和感を覚えていた。


「え? この像、あそこにあったやつだよな?」


「だと思うんだけど……は? アルティ、お前、動かした?」


「してねえしてねえ! そんな余裕とか、なかったし!」


「だよなあ」


 眉間にぎゅっとしわを寄せて、石像を見つめる貴大。


 その後ろでアルティは、貴大に告白したことなどすっかり忘れたように、目を丸く見開いていた。


「魔導仕掛けの石像なのか……?」


 そういった代物が、ないことはない。好事家たちが蒐集する珍品の中に、動く石像というものがあるのは、一般にも知られたことである。


 もしかすると、これもそういった類のものなのだろうか。そう考えた貴大は、仕組みを確かめようと、灰色の石像に手を触れて――。


「……ん? なんだ、これ。ゴムタイヤみたいな手触りだな。それに、毛まで生えてる。うわ、しかもこれ、かなりの剛毛……だ……ぞ」


 そこまで言ったところで、貴大は異常に気がついた。


 石像がこちらを見つめている。それどころか、目から血の涙を流している!


 すわ怪奇現象かと思われたそれは、呪いや魔術で片付けるには、いやに生々しかった。まるで本物の人間が、涙を流しているようで――。


「って、おやっ、おやっ!! 親父ぃぃぃいいいいっ!?」


「はあっ!? うわっ! マジだ! キリングだああああっ!?」


 仰天して飛び退いた二人の前で、ゆっくりと石像が動き始めた。


 灰色の絵の具は、お湯と蒸気で流れ落ちてゆき、固く縮こまっていた体は、膨張するように大きく広がっていた。


「なななな、なにしてんだよ、親父ぃいいい!!」


「ひいい……! キリングが出たぁ……!」


 アルティが叫んだのは、父を呼ぶ声。貴大が指差し叫んだのも、アルティの父の名前。


 キリング。ギルドマスター、キリング。皆殺しのキリング。魔物殺戮者キリング。 


 敵対する者には恐怖をもって叫ばれる大男は、両目から血の涙を流しながら、貴大の両肩に手を乗せた。


「ひっ!?」


「アルティはな……」


 子ネズミのように、ビクンと体を硬直させる貴大。しかし、キリングは彼の体を話さずに、食いしばった歯の隙間から絞り出すような声を出した。


「アルティはな、オレの大事な娘なんだ……大事な、大事な、一人娘なんだ……ずっと大事に思ってきたんだ……なあ、分かるか、この気持ちが?」


「分からん分からん! そんなの分からーん!?」


 ホールドを外そうと、貴大がジタバタと体を動かし始める。


 だが、外れない。キリングの両手は緩まない。父の両手は、外れない。


「分かるか……この気持ち、おめえに分かるか! なあ、分かるか!」


「分かんねーっつってんだろ! は、離せ!」


「分かるか! 分かるか! このネズミ野郎があぁぁあああああああ!!」


「どわあああああああああっ!!」


「タ、タカヒローッ!?」


 この夜、宿場町の近辺から、あらゆる動物、あらゆる魔物が逃げ出した。


 それどころか、恐るべき怒号を耳にした人間たちも、我先にと宿場町を飛び出していった。


 彼らの本能は、こう告げた。ここにいたら、死ぬ! と。


 生命の気配が失せた宿場町では、多くの者の予想通りに大怪獣が荒れ狂っていた。


 の者の名は、父。娘を持つ父親。娘に惜しみない愛情を注いだ父親。


 そして、いつかは娘を嫁に出さなければならない、非業の父親――。


 どうやら、アルティが貴大と結ばれるには、まずこの獅子身中の虫をどうにかする必要があるようだった。


「分かるかああぁぁぁぁああああああ!!」


「ぐはあああああっ!?」


「タカヒローッ!! 今、今、助けるからなーっ!!」


 父と娘と、娘の想い人。


 三人の夜は、騒々しく更けていった……。



これにてアルティ編はひとまずの終了。


この先、二人がどうなるかは……各ヒロイン編が終わった後、三部のラストエピソードにご期待ください!

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