第一話-8
ルルノノ、ニニノノとともに天ツ雲に帰った頃には、もう日も暮れていた。
それぞれ機方舟を置いてくるというらしいので、ハクスイだけが先に学校に降ろされる。とりあえずシュレエルに挨拶をしてから、ハクスイはひとりがらんとした校内を歩く。
教室に寄って鞄を取ってくると、下駄箱を出てすぐのところで、ルルノノが校門に寄りかかりながら待っていてくれていた。
「にーさん、あの……もしよかったら、い、一緒に帰らないかな?」
夕日に照らされてか、ルルノノの頬はわずかに朱が差しているように見えた。
「あ、ああ? いいぞ」
ふたりは口数少なく、帰り道を辿る。ルルノノの家がどこにあるのかは知らなかったが、とりあえずは同じ方向に向かうようだ。
「……」
日の落ちた天ツ雲の並木道を、自動点灯の機奨光灯が照らしている。
大小の雲が連なった天ツ雲には、時々穴が開いてある場所もあり、そういったところは細い橋で繋がれている。飛べないハクスイにとっては、落ちた瞬間に下界へ真っ逆さまのデンジャラスゾーンだったりもする。
肩を並べて歩いていると、珍しく静かだったルルノノが、伏し目がちに尋ねてきた。
「きょ、きょうは楽しかった、かな? にーさん」
「ああ、まあ……楽しかったってより、なんだろうな、色々とびっくりしたよ」
「そ、そっか、まあそうだよね。でも、いろんなことを学びながら、天使は大きくなっていくんだよね……!」
いくらほぼ初対面とはいえ、さすがに鈍いハクスイでも気づく。ハクスイは立ち止まって、ルルノノに振り返る。
「なにか俺に言いたいことがあるんじゃないか?」
「えっ!」
ルルノノは胸を押さえながら後退りする。目をぎゅっと瞑って首を振る。
「す、鋭いよにーさん……さすが、さすがだよ……さすがのエンジェルだよ……」
「……まあ、俺だって馬鹿じゃないからな」
天ツ雲ではいたるところに花が咲いている。天使の放つ機奨光が勝手に養分となり、水も土もないのに、四季問わず様々な花を育ててしまうらしい。色とりどりに並んだチューリップを眺めながらハクスイが待っていると、ルルノノは突如叫び出す。
「う、ううう、勇気! 勇気ー! お願いゆうきー!」
「え? な、なんだ?」
「心の中の勇気さんに頼んだの! 力を貸して、って!」
「そ、そうか」
到底、論理的ではない答えが返ってきたが、ハクスイは納得する。とにかく、なにかをしようとしているのだろう。
「あ、あのさ、悩みと言ったらさ、人の悩み事を聞いて解決するのも、機奨光の良い増強に繋がるんだよ。外界で人間を助けてくる、みたいなものでさ……」
「へえー、お前が言うならそうなんだろうな」
「だ、だからさ……だから、だからなんだけどさっ」
ルルノノは焦ったような口調で、ハクスイの前に拳を胸元で握りながら迫ってくる。
「い、いっこ、やってみないかな、にーさん!」
「突然だな……まあ、それはいいんだが、誰の相談を受ければいいんだ? 誰か、知り合いで悩んでいるやつでもいるのか?」
「あ……あたし、とか」
「……ん?」
~~
ここはハクスイの部屋である。茶の置かれたテーブルを挟んで、ハクスイとルルノノが向かい合っていた。
「……それで、俺に?」
「……う、うん」
ぎこちなくうなずくルルノノは、なにやら思いつめたような表情で正座をしていた。
(そら、ほとんど初対面の俺に相談するくらいなんだから、相当切羽詰まってんだろうけどさ)
ハクスイの部屋は清潔に整えられているというよりも、単純に物が少なかった。趣味も興味もない男の、つまらない部屋だと開き直り気味に自覚している。
それはそうと、ハクスイは腕組みをしながら、慎重に尋ねる。
「あのさ、他にもっと、人材はいなかったのか?」
「い、いないよ」
「即答かよ」
ンなわけねえだろ、と思う。なにを買いかぶられているのかもわからない。
「いや、だってさ、俺だぞ? それよりもっと、彩光使の同僚とか、あるいは先生とか、あの妹さんとか、誰だって俺よりはマシじゃねえか?」
「だってこんなこと……にーさん以外には、その、恥ずかしくて、話せないから……」
縮こまって首を振りながら、ルルノノは今までに見たことがないほど、赤面していた。耳を通り越して、うなじの辺りまで真っ赤になっている。白い肌だけに、その紅色が大きく目立っていた。
「恥ずかしい、って……緊張しちまうじゃねえか、オイ」
ハクスイもまた、照れ隠しにそんなことをつぶやいてしまう。
なにを話されるのだろうかと待ち構えていると、ルルノノはようやく口を開いた。
「あ、あのね……お話してみてから、にーさんだって、決めてて……ほら、にーさんって、物怖じしないでしょ。初めて地上に行ったって、平然としてたし……多分、笑わないで聞いてくれるって、そう思うから……その、無茶な、お願いかも、しれないんだけど……」
「俺に、お願い、か」
少なくとも、下界に降りたときに平気そうだったというのは、彼女にはそう見えただけだ。自分はいっぱいいっぱいで、慌てる暇すらなかったのだ。
本当は今だって、ルルノノの『お願い』とやらが自分の手に余るであろうことはわかっているのだ。だがそれでも、職務とは言え、こんな自分に一生懸命尽くしてくれているルルノノの信頼を裏切りたくはないと思う。
ルルノノは、こんな自分の目を見て話してくれる初めての天使だから。
スカートをぎゅっと握って、恥ずかしさに耐えているような顔をしているルルノノに、ハクスイは「構わねえよ」とうなずいた。
「……ルノには、世話になりっぱなしだし、これからもそうだろうからな。俺にできることがあるなら、なんなりと言ってくれよ」
その紛れもない本心からの言葉に、俯いていたルルノノは嬉しそうに白い歯を見せた。
桃色に染まった頬を上げて、熱のこもった潤んだ視線でハクスイを見つめてくる。
「そう言ってくれると、すごい、嬉しい、あのさ」
ルルノノは手を合わせて、頭を下げた。
「お願い、にーさん! あたしを、どうか、ドMにしてくださいっ!」
「…………あ?」
学校での衝撃、再び。