第一話-4
「……一体これは、どういうことなんだ? 事情がまったくわからないんだが……」
「ふふっ、決まっているじゃないか! 下界に行くんだよ!」
面食らってすぐには言葉を返せないハクスイは、「下界……?」とオウム返しにつぶやいた。そんな彼に、ルルノノは手に持っていた紙を突き出してきた。思わず、読み上げる。
「下界渡航免状……?」
「さっきね、フィノーノの中央庁に寄って、発行してもらってきたんだよ! ほら見て、学生一名って書いてあるでしょ?」
「……ああ、確かに、書いている」
「あたしは今の仕事に幸せを感じているからさ、彩光使の仕事を実際に見てもらうのが早いと思ったんだ! 人の笑顔を見れば、にーさんも幸せを感じてもらえると思ってね! ふふっ」
「なんと……」
生で彩光使の活躍が見れる。それは彩光使候補生にとっては、夢のような幸運に違いない。だが、だからこそハクスイは尻込みする。
「でも、それは、その、良いのか? 俺みたいな天使がほいほいと、気軽に地上に降りてったら、なんか、問題とか、起こらないのか?」
「エンジェル大丈夫! だって監督責任者のあたしがついているんだもん! こう見えても、あたしは一人前の彩光使なんだからね! ふふっ、心配いらないって!」
300万の機奨光を持つ美少女の笑顔に、まるでハクスイの暗闇のような憂慮も吹き飛んでしまうようだ。ハクスイは胸元を押さえる。火がほんの少しだけ疼くように揺らいだ気がした。
断ろうという気持ちと、行ってみたいという気持ちが衝突し、さらに音を立てて燃え上がった。
ハクスイはうつむいていた顔をゆっくりと上げ、ルルノノにうなずく。
「わ、わかった……なら、行こうか」
「うんっ、乗って乗って!」
ルルノノに手引きされてハッチの中に足を踏み入れる。前面が巨大スクリーンになっており、その前に備えつけられているのが操縦席だろう。後ろは座席と荷物置場のようだ。だがそれよりも目についたのは、簡素な室内のあちこちに貼られている、太文字で書かれた標語だ。
『為せばなる。為さねばならぬ、何事も』『人生は道』『限界に限界はない』『なぜベストを尽くさないのか』『ネバー・ギブ・アップ~人生を諦めない~』
ハクスイは憮然としながら顎に手を当てた。
「……この機方舟、お前のなんだな」
「お、よくわかったね! ふふふふっ、ルルノノ号さ!」
「名前はともかく……自家用機だなんて、すげーな」
ルルノノは操縦席に陣取り、機体のMの字型のハンドルを握る。音も立てずにハッチが閉まる。ハクスイはとりあえず、その後ろの座席におっかなびっくり腰を下ろした。
「よし、じゃあ、行くよー!」
「お、おう……うわっ」
空を飛んだことすらないハクスイは、突然の浮遊感につい叫び声を上げてしまう。
「ちゃんとシートベルト締めてねー!」
「そ、それはどこにあるんだ……こ、これか? よし、つけたぞ」
「さ、あとはお空の旅を満喫していよっ」
「おおうっ」
すると先ほどまで操縦席に座っていたルルノノが、気持ちよさそうに目を細めて伸びをして、責任者の座るべき席を離れた。ジャンプして、ハクスイの隣の座席に腰を下ろしてきたのだ。
「お前、運転は……」
「ああ、これはもう、ボタンひとつでピッピッピッの自動操縦だよ」
「そ、そうなのか」
「あはは、だって、あたしじゃ運転はおろか、着地も発進もできないもん」
「下ろしてくれ、頼むから俺を下ろしてくれ」
戦々恐々としたハクスイの言葉を冗談と捉えたのか、ルルノノはまたも「あはは」と能天気な笑い声をあげる。普通の天使なら気にならないような上下左右の細かな揺れも、己の翼で飛んだことが一度もないハクスイにとっては自分の身体を襲う大きな違和感であった。
「えっ、平気だよ、自動操縦は万全なんだから!」
「でも、天使が操っているわけじゃないんだろう! 自動だなんて、なにが起きるかわからないじゃないか! 怖いだろ!」
「だ、大丈夫だってば、にーさんは心配性だなあ……そんないっぱいいっぱいにならないでも」
初めて聞いたハクスイの怒鳴り声に、ルルノノはたらりと汗を流しながら、両手を振る。それからあさっての方向を指さした。
「あ、ほら、にーさん、見てみて!」
「な、なんだよ、標語のひとつを読み上げても、俺には何の効果もないぞ……って」
ルルノノが差したのは、機方舟の壁面に張りつけられた透過モニター――ようするに右の窓であった。睨むように視線を移動させたハクスイが、息を呑む。
そこには雄大な天ツ雲が浮かんでいたのだ。下界の人々には見ることができない、雲の上に浮かぶ国である。世界の十七箇所に点在するうちのひとつ、極東にある天ツ雲・フィノーノの姿であった。
この瞬間だけは恐怖心も忘れたように、ハクスイは呆然と偉大なる雲の国を眺めていた。
「すげえな……下から見ると、やっぱり、そこらの雲と見分けがつかねえんだな……」
「ふふっ、果たしてそうかな! 目を凝らしてごらんよ!」
「ん? ……あ、機奨光か」
ハクスイは雲から発せられる威光に気づいた。そう意識すると、雲全体が光り輝いているのが見て取れた。あまりにも大きな天ツ雲が光を放つ様は、まるで第二の太陽のようであった。
「すげえ……」
「人間がお日様とかお月様の光を浴びると気持ち良いとか、幸せだとか、そういう気分になるのはね! ふふっ、天ツ雲が空に浮かぶために放出している機奨光を、たっぷり浴びているからなんだよ!」
「へー……すげえな……」
ハクスイが堂々と浮かぶ天ツ雲の姿に見入っていると、いつしか、重苦しさや心細さはなくなっていた。あるいはそれは天ツ雲のように機奨光を絶え間なく発するひとりの美少女が、ハクスイのそばでとても楽しそうに笑っていたからなのかもしれない。
「ほらほら、にーさん、見えてきた見えてきた!」
ルルノノこそが初めて機方舟に乗ったかのように明るくはしゃいでいる中、ハクスイは彼女が示す先を眺めて、感慨深い気持ちに浸る。
「あれが、地上なのか……」
小さい頃から名前だけは知っていた世界だ。彩光使にでもならなければ、一生行くことはないと思っていた光景が、人間の住む世界が、ハクスイの眼前にはいっぱいに広がっていた。
~~
夕暮れに染まる地上に、機方舟は降り立ってゆく。ハッチが開くとともに、ルルノノは勢い良く立ち上がり、ハクスイの手を引いてきた。
「さ、いこういこう、にーさん! お楽しみの時間だよ!」
だが、ハクスイはすぐには動かない。気になることがあるような顔で、手を広げた。
「俺は、この格好で大丈夫なのか? いや、その、普段通りの学生服だろ? 人間に見つかったり、しないのか?」
「あはは、大丈夫だよ! これから先はどうなるかわからないけど、今の人間の神霊力じゃ、あたしたちは見えないよ! せいぜいラッパの音が聞こえてくる気がするなー、程度だよ!」
「そ、そうか? それならいいんだが」
ルルノノは荷物置場にあった小さなトランクを持つと、ハッチから飛び降りていった。ハクスイもその後に続くと、コンクリート作りの巨大な建物とそれに差しかかる西日が目に入った。
「ん……ここは、学校、か?」
「そうだねー。中学校かなー?」
大きな建物の裏手に降りたようだ。緑のフェンスに囲まれていることから、校舎裏の空き地なのかもしれない。ルルノノとともに、ハクスイも辺りを見回す。
「下界っつったって、天ツ雲とあんまり変わらねえんだな……」
「そりゃあそうだよー、天ツ雲の文化は、人間さんの世界から輸入されているんだからね」
指を立ててしたり顔で語ると、ルルノノは「さてと」と一旦トランクを置き、手首に身につけていた光の輪を、自分の頭の上に浮かべた。
「この光導輪は、市販のものと違う、彩光使の特別製でね。困っている人を見つけ出して、そのネガティブなオーラを感知することができるんだよ。大体の場所は、機方舟にインプットしていたけれど、もしかしたらどこかに行っちゃったかもしれないからね、現地に着いてからはこれで探すんだ。えと、困っている人はどこかなあ」
「あれか?」
ハクスイが指差す先、校舎裏の奥まった日陰に、男子と女子が立っていた。トランクを抱えて駆け寄ってゆくルルノノに、ハクスイも続く。
フィノーノ高校の制服に似た、白いワイシャツと、水色のスカート、あるいは黒のスラックスだ。男子生徒の方は黒髪を短く刈り込んでいて、童顔な少年だった。少女もまた黒髪をストレートに長く伸ばしていて、大人しげな風貌に、顔を真っ赤に染めて俯いていた。
「あ、そうだね! 生徒さんっぽいね! きゃー、初々しいねー!」
「なにが初々しいんだ? 緊迫した雰囲気だぞ?」
「ふふっ、まあまあ、話を聞いていればわかると思うよっ」
疑問の目を向けるハクスイに対して、ルルノノはなぜだかとても嬉しそうだ。
「困っているのは、どうやら、女の子の方みたいだねー」
「あの黒いもやもやが、そうなのか?」
なにやら気まずそうに固まったまま動かない中学生の少女の身体からは、黒い粒子が立ち上っていた。まるで薄い霧に包まれているように、姿がぼやけてしまっている。
「そうだね、あれこそが、機奨光と対極をなす存在の力、冥混沌だよ!」
「落ち込んだときに、発生するんだな」
「うん。天使にとっては猛毒だし、これに包まれると、とにかく暗いことばっかりしか考えられなくなるんだよ! それが発生する理由の半分は、人間さん自身に原因があるんだけど……」
「もう半分は、悪魔の仕業なんだな」
「そうだね! にーさんってば物知り! 天才! エンジェル!」
「小学生でも知ってっからな……」
ルルノノに賛辞の視線を向けられて、ハクスイは頭をかく。むしろバカにされている気分だ。
「この子たちの場合は、どっちに原因があるのかわからないけどさ、でもどっちでも、困っているならあたしたちが冥混沌を祓わなきゃね!」
そう言うと、ルルノノは持っていたトランクケースを地面に置き、蓋を開く。中には、小さな黄金のラッパが収まっていた。
「人間さんに機奨光をプレゼントするときには、機奨光放出の増幅装置である特別なラッパを使うんだよ」
金ピカのラッパを持って、ルルノノは真っ白な翼を背中から生やした。ピカピカに光る、機奨光の発現だ。それは昼に見かけたばかりのクラスメイトのものよりずっとキレイで、厳かであった。光導輪に、翼、小さなラッパ、そして真っ白な衣装といい、これでどこからどう見ても、下界で信奉されている天使の姿である。
「じゃあ行くよ――」
ルルノノはそう言ってから、ラッパのマウスピースに桃色の唇を近づけた。
音が飛び出す。
ルルノノが吹いているのは、学校の音楽の授業でも習う、応援歌の代表的な一曲だ。『恋人たちへの愛餐歌』は小学生でも知っているし、何人もの歌手もカバーしている人気曲だ。しかしルルノノの鳴らす音は、今までに聞いたどの歌とも違っていた。
(これが本当の、応援歌なのか……これに比べたら今までの応援歌なんて、ただの音の集まり、だな……)
ルルノノがラッパを鳴らすごとに、少女の辺りを覆う冥混沌が晴れてゆく。
すぐに少女がまとっていた冥混沌はなくなり、すると今度は、少女の背中に天使のように小さな白い翼が生えてきたのだ。彼女を包む機奨光が、聖なる形を取っているのであった。
まるでルルノノに息吹を与えられた土塊のように、少女は動き出す。
「あ、あの!」
「……は、はい!」
少年もまた、緊張に身を固くしているようだった。
「じ、実は、ね、あの、わたし、その、前から、あの、瞬くんのことが、その」
「は、はい」
少女の翼が、ふわっと広がったその瞬間、顔を真っ赤にして、少女は叫んだ。
「好きだったのーーー!」
応援歌をBGMに、白い羽が舞う。
羽は少女の身体を離れた途端、霊光に変わり、まるで輝く蝶のように辺りを彩った。
(……あ、そういうことか)
そこでようやくハクスイは得心した。自分は人間の中学生の告白シーンに居合わせたのだと。