エピローグ「福音」
「あれっ、お前いつ帰ってきたの?」
洗面所で歯を磨く少年の足元に、小さな黒猫がうずくまっていた。彼女は少年が幼い頃から家にいたはずだが、一向に大きくならない不思議な猫だった。
少年は身支度を整えて、玄関に向かう。鞄を担いでドアを開けると、外にひとりの少女が立っているのが見えた。その瞬間、心臓の鼓動が跳ね上がった。
「あっ」
向かいの家に住む少女は、ぺこりと頭を下げてくる。ついこないだ恋人となり、そしてついこないだ別れた幼馴染だった。一週間ぶりぐらいに会う彼女は、なんだかとても懐かしかった。
「瞬くん……あの」
彼女は視線を左右に動かしてから、俯き、長くて艶やかな黒髪を指で撫で、なんどもためらうような動きを見せてから、おずおずと言い出してきた。
「また、一緒に、学校に……って、思って……あの、迷惑じゃなかったら……」
「めっ、迷惑なわけないよ!」
そう怒鳴ってから、自分でも驚いた。どうしてこんなに大きな声が出たのだろうと思った。痛いくらいに胸が高鳴り、少年は彼女の不安げに揺れる瞳を見つめながら、言葉を紡ぐ。
「ぼくの方こそ、ごめん。美月ちゃんを、たくさん、傷つけちゃって……でも、ぼくさ」
少年は拳を握り固める。今、言わなければならないと思った。今なら言えると思った。
「もう一回、美月ちゃんが、良かったら、ぼくと、付き合ってほしいんだ」
少女が抱えていた鞄を道路に落とす。それから彼女は口元を手で覆った。どうしてだろうか、少年は勇気が身体に宿って巡るのを感じた。神様や、あるいはそれに類する誰かが、背中を押してくれているような、そんな不思議な気配がした。
「今度こそ、絶対に、美月ちゃんを大切にするから、もっとぼくも、頑張るから……!」
少女の綺麗な瞳に、大粒の涙が浮かんでくる。間もなく少女は少年に駆け寄ってきて、ふたりは朝早くから互いの家の前で抱き合うこととなる。彼女の小さくて愛らしい頭を撫でながら、少年は斜め上辺りの空から、なにか懐かしい響きが聞こえてくるような気がした。
それは例えるなら、校舎裏で少女から告白されたときにも耳にしたような……清らかで優しい、ラッパの音のように思えた。