第五話-6
ハクスイは病院への道を、黒い霧を引き裂くように突っ切った。
途中、地面に突っ伏していたシュレエルを踏みつけたような気もしたが、ハクスイは意に介さない。立ち入り禁止のテープを蹴り破ったのも、構わない。そんなものはすぐに解決するのだから。そのとき、大気をつんざく唸り声が響く。
ハクスイが見上げると、病院に白銀の機方舟が突っ込んでゆくところだった。凄まじい衝撃が辺り一帯を遅い、地面は揺れて、病院の壁から粉塵が上がるも、ハクスイは一切止まらない。
「待ってろよ……ルノ!」
満タンまで機奨光の充填された黒い瞳は、希望に満ち溢れていた。
ヴィエはぼんやりと考えていた。暗い階段の踊り場で、世界に見捨てられたようにしゃがみ込みながら、これからのことをだ。子供の頃からそうだった。悲観的な考えに取り憑かれると、坂から転げ落ちるようにその気持ちはずっと止まらない。ひとりでいると、いつもそうだ。
学校を辞めてしまったら、ハクスイとも疎遠になるだろう。友達とも顔を合わせづらくなり、その後は一生孤独な人生を送るに決まっている。それで、今までのことを思い出して、あの頃は良かったと述懐しながら老後を暮らすのだ。その末路を思い、ヴィエは顔を手で覆って嘆く。
冥混沌とは、絶望。
先のない未来であり、夢を失った世界だ。悪魔のように諦観しきってしまえば楽になるのかだろうと思いつくと、美しかった彼女の肌は、霧を取り込み、徐々に黒ずんでゆく。自らが悪魔化を始めたと知りながらも、ヴィエはその甘い誘惑を振りほどけない。
このまま天ツ雲で恥を晒しながら腐るよりは、いっそ――
「……ああ……ハクスイ……」
膝の間に頭を埋めるヴィエの、その腕が引き上げられた。驚くヴィエの顔に光が差す。
「おうよ!」
「……え……?」
まさかハクスイ? と目を大きく広げたその直後だ。
「この、大バカ野郎っ!」
ヴィエのみぞおちに拳が打ち込まれた。一瞬息が止まる。手加減したのかどうかも怪しいくらいの威力だった。身体を折って咳き込みながら、ヴィエは涙目で尋ねる。
「な、なんなの……? なんでわたし、いきなり、殴られなきゃいけないの……?」
「学校を辞めるとか、そんなバカなこと言ってんじゃねえよ! お前は俺と一緒に彩光使になるんだろ! ひとりで諦めるなんて、父神さまが許しても俺が許さねえぜ!」
「え、え、は、ハクスイ……?」
「あったりまえだろ! こんなにカッコイイ伊達男が銀河に何人もいてたまるかよ!」
「誰」
ヴィエは目を皿のようにしてハクスイを見つめる。目が燃え、鼻筋が整って、輪郭が凛々しいハクスイがそこにいた。身長まで伸びているかのようだ。
「なあ、ヴィエよ!」
「は、はい?」
「こないだのお前はすげえ機奨光を放ってたんだぜ! それが今さら何もかも投げ出すだなんて、泣き言いってんじゃねえよ! どうしてそこで止めようとすんだよ、そこで! あとちょっとだろ! 今の俺たちはな、歯を食いしばって耐えるときなんだぜ!」
ハクスイの爽やかな笑顔に、底冷えするものを感じるヴィエ。まるでホラーだ。彼の顔の皮を突き破って、悪魔が現れるのではないだろうかと気を取られて集中できない。
「え、と……そ、そうね、それは一理ある意見だとは思うの」
「だろ? だったら今すぐやめるなんて言わねーでよ。もうちっと頑張ってみろよ! お前ならできるぜ、マイフレンズさぁ!」
「ま、まい……?」
もうだめだ。ヴィエは完全についていけてない。目が回る。髪が乱れる。
「お前の頑張りは、いつだって誰かが見てんだからよ! それでも辛くなって、頑張れなくなったときはな、へへ、俺がそばにいっからさ、なんも心配するこたぁねえんだよ」
「なにその笑い方……」
あっけに取られているヴィエはもはや、落ち込むことすら忘れていた。
「な、心配すんな! お前はぜってー彩光使になれっからさ! ちっちぇーときからずっとそばで見てた俺が言うんだから、決まってら! 迷っていても、頑張り続けろよ!」
「う、うん」
ハクスイの顔が近くて、彼の話はまったく耳に入っていなかった。するとハクスイは、ニッと笑う。
「じゃあヴィエ、まだここらへんは危険だからな、気ぃつけろよ! また学校で会おうな」
「……あっ、ハクスイ」
気がつけば、立ち去ろうとするハクスイを呼び止めていた。ハクスイは仰々しく振り返ってくる。彼の放つ機奨光の力か、その背後に花吹雪が見え隠れしていた。
「なんでい、ビューティフルフレンド!」
その恥ずかしい呼び名はともかく……
「……あ、あの、ど、どこにぃ、いきゅの?」
「決まってっだろ、マイフレンド。俺の助けを待ってるやつが、他にもいるんだよ」
ハクスイは親指を立てて、笑う。どこかから、シャキィィィンという耳心地良い音が鳴った。
「全力で応援しに行くだけさ」
それはまるで、小学生のときの彼がそのまま成長したような、ハクスイの真の姿だった。あまりにも強い彩光に照らされて、気づけばヴィエの中にある闇はすっかり失われていた。
「ちょ、ちょっとまってぇ、ハクスイぃ――」
ヴィエは手を伸ばし、彼の影を掴もうとする。しかしハクスイは、もう止まらず、振り返らない。あの頃のように、たやすく自分を置き去りにして――彼は駆けてゆく。
「ンだとォ! ルノが連れ去られたってのか!」
「え、ええ……というか、あなた……どなた、ですか……?」
ルルノノの病室は一変していた。というのも、外壁が粉々に砕けて室内に瓦礫が散乱し、外からは風がびゅうびゅうと吹きつけ、まるで廃墟のような様相を呈していたからだ。
「くっそ、追いかけるしかねーか……! ったく、手間のかかる眠れる森の美少女だぜ!」
「独り言の多い人ですね……」
代わりに、室内の冥混沌は相当薄まっていた。張本人がいなくなったことが要因だろう。多少復調した様子のニニノノは、頭の上にいくつもの疑問符を浮かべていた。
「なあ、ニニノノ! 一体誰が来て、あのお姫様をさらってっちまったんだ! まさか、大天使か? そうじゃなかったら暗い森の魔女だっつーのか!」
「なんで、わたしの名前を……しかも、どこかで見たことのあるような顔ですね……」
「バカ野郎。俺の名前は、ハクスイってんだ。忘れてんじゃねえ」
「え? いや、そんな、まさか……ご冗談が過ぎますよ」
と、まばたきを数回繰り返したところで、ニニノノはその大きな目を細めた。
「まさか……ご冗談で、いらっしゃらないんですか……?」
「たりめーだろ?」
その精悍な男臭い笑みには一切見覚えはなかったが、その顔のパーツのもろもろをパズルのように当てはめてゆくと……
「た、確かに、ハクスイさん……?」
「今さらかよ。ガハハハ、お前こそ冗談が過ぎるぜ! リトルガール!」
「が、がはは……? い、いやまあ、なにがあったか詳しくご説明願いたいところですが、聞くのも怖いのでそのままにしておきますけど……え、えと、な、なんの話でしたっけ……」
「おいおい、しっかりしてくれよプリティーガール。ルルノノの居場所だよ」
「……ああ、そ、そうでしたね……ねえねえは、その……ユメさん方が……」
「ユメがだって? その穴はこのせいだってのか! いったい全体どういうことだ!」
ハクスイは手を横に払ったり、拳を握ったり、忙しない様子で食いついてきた。そのリアクションの大きさに、なんだかニニノノは姉と話しているような気になってくる。
「……つい、先ほど、ユメさんが、機方舟ごと病室に乗り込んできて、ですね……荷物を受け取るみたいに、ねえねえを、持って行っちゃったんです」
ハクスイは頭に閃くものがあった。狭い病室にピキィィィンと電流めいた紫色の光が走り、ニニノノが「うわあ」と驚く。
「このままじゃ、天ツ雲にひでえ影響が出ちまうからって……ユメが、ルノをかくまおうとしているんだな! なんつー思いやりの心……友情なんだ! くそっ、涙が頬を伝いやがる……だが、感動してる場合じゃねえ! おい、心優しきリトルキャット!」
「……それ、わたしのこと、ですか? いや、あの、なんでもいいんですが……」
「ユメたちがどこに行ったかわかるか? 俺は今すぐ追いかけにいかなきゃいけねーんだ!」
「それは……」
ニニノノはこめかみを押さえながら、虫歯を我慢するような顔で考え込む。見るからに怪しいハクスイに、姉の居場所を伝えるべきかどうか、迷っているのかもしれない。
だが結局はニニノノも、機奨光溢れる男を信じてしまったのだ。
「ユメさんは、ねえねえを連れて……その、地上に行きました。あそこなら、フィノーノには被害も出ないだろう、って……」
「地上にだと?」
ハクスイは眉をひそめた。親友を救おうという一念だろうが、その考えはあまりに安易過ぎる。冥混沌が地上に溢れかえったら、彩光使のやってきたことは全て無駄になってしまう。
「バカ野朗どもが……見境なくなってんな!」
ハクスイは壁に開けられた穴へと走る。光が差し込み、逆光の中にいるハクスイに向かって、ニニノノが尋ねた。
「どうやって、追いかけるんですか……? 中央庁から、機方舟を借りてくるんですか?」
「機方舟? ンなのいらねえよ! へへ、地上なんて、すぐじゃねえかよ!」
ニニノノがきょとんとして見ている中、ハクスイは瓦礫から跳躍した。
「じゃあな! 行ってくるぜ!」
ハクスイの姿は、すぐに見えなくなる。
後ろから「え?」というニニノノの呆気に取られた声がしてもハクスイはまったく動じず、己の信ずる道を――最短ルートで、直下する。たったひとりの女の子を救うために。
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病院の屋上の手すりに寄りかかって外を眺めていたアマドは、その光を見た。かつての女神のように、虹色の輝きを帯びた機奨光が、まっすぐに地上に向かって落ちてゆく様を。
「頑張ってね、ハクスイ……」