第五話-2
病院の近くまでやってくると、ニュースでやっていた通り、辺りは黒い霧が立ち込めていた。
「どうなってんだ……これ、冥混沌だろ?」
見物人たちを押しのけて前に進む。天使にとっては、心を蝕む猛毒だ。機奨光と対消滅を繰り返しているからか、周囲で黒い気泡のようなものが弾けていた。
そこには『立ち入り禁止』の札が置かれており、彩光使が周囲の通行を封鎖していた。人垣をかき分けて、ようやくロープが張ってあるところまでやってくると、ハクスイはそこに知り合いを見つけて声をかけた。
「シュレエル先生?」
「ん? ああ……ハクスイくんか……」
振り返ってきたシュレエルの顔は、眉が下がって、まるで老人のように老け込んでいて、ハクスイは仰け反った。別人かと見紛うほどに、生気のない顔をしていたのだ。
「もう俺はだめだ……だめなんだよ……」
「ど、どうしたんすか、それ……」
シュレエルは完全に冥混沌に取りつかれて、性格が変貌していた。落ち込んだシュレエルが、ハクスイの肩を掴む。ハクスイは生き血を吸われるのではないかと、一瞬身構えた。シュレエルはだらだらと涙を流しながら訴えてくる。
「うちの生徒から悪魔が出るなんて知れたら、教使委員会に叱られる……彩光使にもなれず、教員としても不十分で、俺の人生は一体なんなんだ……教えてくれよ、ハクスイくん……」
「自分のことばっかりかよ、アンタっ」
ハクスイはシュレエルの襟を掴んで押し戻した。「ああ、生徒からも暴力を受けるのかぁ~……」などと言いながら、シュレエルは地面にしゃがみ込んだ。シャツの乱れを正しているところで、先ほどのシュレエルの嘆きを反芻して、聞き返す。
「悪魔……? 悪魔って一体、なんのことっすか……?」
シュレエルはぬぼーっと無精ひげの生えた口を開く。
「冥混沌に犯された天使は、最終的に,悪魔に変わる……ああ、もう、だめだ……みんな悪魔になっちまうんだ……俺も、お前も、みんなも、女子高生も……」
「それって……なにバカなことを言っているんすか、畜生」
役に立たないシュレエルを放り出すと、教使は不気味な「ヒヒヒヒ」という笑い声を漏らす。冥混沌のせいだとは言え,縁起の悪い男である。
ハクスイは封鎖の内側に無理矢理押し入る。病院の入り口の扉からは、黒い霧がもくもくと溢れてきている。ここが冥混沌の発生現場であることは間違いないようだ。妙な胸騒ぎとともに、学校帰りのヴィエの顔を思い出す。彼女もルルノノの見舞いに来ると言っていた。
「……シュレエル先生が来てたってことは……ヴィエもまだ、この中に、いるのか……」
ハクスイは制服の袖で口元を押さえながら、病院に足を踏み入れた。
中には真っ黒な霧が充満していて、まるで火災現場のような光景だった。院内にも動けなくなった人たちが、まだまだいるようだった。下手に救助をすると被害者が増えるから放置されているのかもしれない。しかしやはりというか、他の天使に比べて、元々機奨光の残っていないハクスイへの冥混沌の影響は、微細なようだった。
「くっそ、今だけは、俺の低燃費に感謝するしかねえな……」
視界が暗く見辛いが、それでも通い慣れた場所だけあって、ハクスイは手探りでも迷わずに進んでゆけた。
奥へと進んでゆくその途中だ、ハクスイは階段の踊り場でヴィエが膝を組んで座り込んでいるのを見つけた。彼女はまるで雪山で遭難したようにうずくまっていたのだ。
「ヴィエ、無事、か」
その言葉に、ヴィエは辛そうにゆっくりと顔を上げた。
「うぅん……ハクスイ……もう、だめなの……」
「よし、いつものお前だな」
元々の機奨光が少ないのはヴィエも同じだが、彼女は普段から暗いため、症状の重さがよくわからなかった。ただ、ハクスイのように何ともないというわけにはいかないのだろう。
「ハクスイ……やっぱり、わたし、悪魔って怖いの……」
「あ、ああ、そうだな。お前は蹴散らしてたけどな」
「でも、るーちゃんが……大変なことに……地上に降りたら、あんなのとも戦わなきゃいけないなんて……わたしには、無理なの……」
いつのまにか、ヴィエは泣いていた。彼女は雪のように、ただ静かに涙を流していた。
「るーちゃんは……もう、戻らないって」
「そんなバカなことがあるかよ。勝手に決めつけるなよ」
「でも、でも……わたし、あんな姿を見ちゃったら……わたし、もう、頑張れないの……」
「ヴィエ、今は疲れているだけだ。腹いっぱい食べてたっぷり寝たら、治るからよ」
「無理だもの……わたしには、彩光使になんてなれないだもの……いいの、わたし、もう、学校辞めるの……もう、辞めるしことかできないの……」
機奨光を失ってしまったヴィエは、うわ言のように繰り返す。まるで自分にはそれしかないと思い込んでいるようだ。
ハクスイは彼女の腕を掴んで、無理矢理立たせようとする。
「お、おい、お前、バカな考えはよせよ」
「退学届、出すんだから……ずっと、もう、引きこもって、誰とも顔を合わせないで、毛布をかぶって生きるんだから……わたしのことは、放っておいて……」
そう言い、ハクスイを拒んだヴィエは、再び踊り場に体育座りをして、俯いた。ハクスイは彼女の前で頭をガジガジとかく。この場でヴィエを説得したところで、根本を絶たなければまた同じことを言い出すだろう。舌打ちをしてから、ハクスイは身を翻した。
「ヴィエ、あとでまた来るからな! 変な考え起こしてんじゃねえぞ!」
ハクスイは肩をいからせて、薄暗い廊下を走る。一体なにがどうなっているのかわからなかったが、原因はひとりの少女にあるものだと、ハクスイは決めつけていた。
学校でヴィエに教えてもらっていた部屋の前に来ると、扉の隙間から黒い霧が漏れ出していた。この中に、ルルノノがいるのだ。ハクスイは深呼吸をして、扉に手をかけた。指先から背筋へと緊張が走る。ハクスイは躊躇せず、一気に開け放った。
中から吹きつけてきた強烈な冥混沌の風に、髪が揺れた。ベッドの上に、身を起こした少女がいた。真っ白な病衣を着て、青白い肌をした、生気の抜けたルルノノが、いた。きらきらとした機奨光の代わりに、ドス黒い煙を肌から放出している。彼女はまるで、悪魔そのもののようだった。
「……ルノ……」
部屋の中に歩み入ると、ベッド脇の椅子にニニノノが腰掛けていることに気づいた。
「あ……ハクスイさん……」
「ニニノノか……お前は、無事、なのか?」
「……どう、でしょうか……一歩も動けそうには、ない、ですが……」
ため息をつくように喋るニニノノは、目の下に痛々しいほどの隈が浮き出ていた。ずっとそばで看病していたのかもしれない。一番に冥混沌を浴びていたのは、間違いなく彼女だろう。
「そうか……ニニノノ、よく、頑張ってたな。どうだ、ルノ」
ハクスイはベッドに近づくが、ルルノノはこちらを一瞥もしない。しばらく待っても返事はなかった。ハクスイはかぶりを振る。
「……ずっとこの調子か?」
「はい……」
ニニノノに尋ねると、彼女もまた悲しそうにうなずいた。
「……しゃあねえな、ルノ、おい、頑張れよ」
ハクスイはルルノノを励ます。彼女の背に軽く手を当てて、その顔をのぞき込んだ。
「なあ、ルノ。お前はこんなところじゃ、終わらないだろ。人々を救うんだろ。お前がそんなんじゃ、みんな困るだろ。だから、ほら、励ますからさ……前みたいに元気になれよ」
ニニノノも何度も試したのだろう。やはりルルノノからの反応はなかった。ハクスイはそれでもめげずに、しばらくの間、ルルノノに語り続けた。
「ハクスイさん……せっかく来ていただいたのに、ねえねえがこんなで、すみません」
「ニニノノが謝るようなことじゃねえよ、なあ、ルノ」
まるで彫像のようだ。ルルノノはなにも言わないでずっと俯いている。一体なにを考えているのか知りたくなり、ハクスイはその頬に手を当てた。
「……ハクスイさん……?」
ハクスイはルルノノの顔を持ち上げて、その目をのぞき込んだ。息がかかるほどの至近距離に顔を近づけて、囁くように尋ねる。
「……ルノ、どうしたんだよ」
ルルノノの目がほんの少しだけ動いた。彼女はハクスイから視線を逸らして、蚊の鳴くような声を漏らした。
「……もう、なにも、する気が、なくなっちゃったんだよ……」
「ねえねえ」
ニニノノが息を呑んだ。ハクスイはなおも顔を突き合わせたまま、ルルノノに語りかける。
「なんだか知らねえが、お前の身体、大変なことになっているみたいだ。病院の周りも困ったことになっちまっているからよ、元気出したほうが良いと思うぞ」
「……簡単に、言わないでよ」
ルルノノは下唇を噛んで、明確な拒絶の意思を示す。
「頑張ろうって、思っても……もう、頑張れないんだよ……身体に、力が入らないんだ……」
「機奨光があればなんでもできるんだろ。お前は、機奨光の女王だったじゃねえか」
「……そんなの……あたしには、元々、なんにも、なかったんだよ……」
「おい、ルノ……」
ルルノノはぽろぽろと涙を零す。
「あたしの異常な機奨光だって、もともと、借り物だったんだ……アマテラさまがあたしに残してくれた、最後の力だったのに……それさえも、なくなっちゃって……」
「お前、なに言ってんだよ……」
「頑張ったって、頑張ったって、そんなの、なんにもならないんだ……みんなに迷惑をかけちゃうし、嫌なことばっかり浮かんでくるし……にーさんに、合わせる顔なんて、もう、あたしには……」
口先だけの慰めの言葉も出てこない中、ルルノノの背中からより多くの冥混沌が放出され、それはすぐに翼のような形を取った。翼手のような、骨と皮だけの不吉な悪魔の翼だった。
「にーさんの顔を見るだけでも、つらいよ……もう、来ないで……あたしが、悪いんだ……あたしが、望んじゃったから……彩光使になって、みんなを守りたいなんて、思ったから、あたしが……」
ルルノノが呪詛のような謝罪を繰り返すたびに、彼女の黒い翼は濃くなっていった。
「ルノ……お前……」
悪魔によっぽどひどいことをされたのだろうか。背筋が冷える。
「コラコラ」
そのとき、部屋の扉が開いて、冥混沌だらけの病院に似合わない軽々しい声が響いた。
「うちの患者を泣かせているんじゃないよ、まったく、少年は罪作りなんだからね」
白衣を着た彼女は、軽く手を上げて、ウィンクを送ってきた。
「アマド先生」




