第五話-1
八年前、彼女もまた、そこにいた。
みんなは体育館に逃げていったのに、どうして自分ひとりだけ教室の中に隠れてしまったのか。暗がりで震えていた幼きルルノノの元に、一匹の悪魔が忍び寄る。
『ついでだから、あなたの命ももらって行こうかしら』
ルルノノの頭を悪魔が掴む。ルルノノは、しゃくりあげて泣いていた。ここで命が閉ざされるのだと思うと、怖くて怖くてたまらなかった。
『あのさ、べオラ。あんたの目的は私なんじゃないの? それなのに、こんな大掛かりなことをして、どういうつもりさ』
悪魔が頭から手を離した。ルルノノも見上げれば、教室の扉に寄りかかって、光り輝く翼を生やしたひとりの天使――否、女神が立っていた。
『決まっているデショウ。あなたの全てが憎いからよ、アマテラ』
悪魔が発散する強烈な冥混沌に、女神の姿までも暗く隠れてしまう。間近で冥混沌を吸い込んでしまったルルノノは、むせた。
『けほ、けほ……あまてら、さま……』
『今助けるから、待っていてね』
アマテラは優しく微笑むと、大悪魔を見据えた。
『あんたが女神への昇格試験に落ちたことをどれだけ恨んでいるのかは知らないけど、悪魔になるほどなの? くだらないさ、さっさと浄化してあげるから、かかってきなさい』
『嫌よ』
悪魔は口の端が裂けるような笑みを浮かべた。ルルノノは彼女に頭を掴まれて、無理矢理持ち上げられた。
『あ、うう……』
『抵抗したら、この子を殺すワ。天使ってのは不便ないきものよね。無視して私をやっつけたところで、この子が死んだらあなたは自責の念に苛まれて、機奨光を失ってしまうデショ?』
アマテラは手の中から光輝武装を失う。
『私はね、昔っからこうしたかったのヨ。やりたい放題やりたかったの。だから、ねえ、アマテラ……死にましょう?』
抵抗もせず、女神はあっさりと悪魔に従った。
『仕方ないね』
アマテラは肩を竦める。
『それが終わったらすぐ帰りなさいよ、べオラ。他の天ツ雲から女神も大天使も救援に来てくれているんだからさ』
まるで友達の寄り道を注意するような口調で言ったアマテラは、無防備にべオラに近づいてゆく。ルルノノは叫んだ。
『あまてらさまっ』
『ごめんね』
そのアマテラの笑顔が、目の奥に焼きつく。
『これは悪魔を天ツ雲に侵入させてしまった、私たち彩光使のせいなのさ。だから、私の命でカタがつくとは思えないけど、とりあえずはこんな怖い思い出はすぐに忘れて、好きな男の子でも見つけて、幸せになってちょうだいね』
手を離されて、ルルノノは床に尻餅をつく。
それと同時に、悪魔の爪の生えた腕がアマテラの腹部に突き刺さっていたのを、ルルノノは見た。悪魔の背に黒い羽根が形作られて、そこから波紋のような波動が吹き出された。机が吹っ飛び、窓ガラスが割れて、ルルノノは壁に強く体を打ちつけた。
『あまてら……さまっ……』
薄れゆく意識の中で、アマテラの体が光の粒へと変わってゆくのを――ルルノノは見た。
偉大なる女神『太陽のアマテラ』は、たったひとりの少女を守るために、こんな自分を守るために、命を失ったのだ。
「アマテラ、さま……あたし、また……」
病院のベッドに横になっていたルルノノは、窓から差し込んでくる太陽の光を見つめながら、ひどく辛そうにうめく。
「……もう、だめだよ……あたしは、アマテラさまみたいには、できないよ……」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ハーッハッハッハ、ハクスイくん、こないだは大層な手柄を上げたらしいね! 停学の遅れを取り戻そうと張り切って戦っていた僕としても、鼻が高いよ! ハーッハッハッハ!」
笑う少年の横を通り過ぎたヴィエが、帰り支度をしていたハクスイに尋ねる。
「……誰、なの?」
「いや、知らねえやつ」
「ひどい! ハクスイくん!」
などとわめいている少年を横目に、ヴィエがハクスイの机の前の立つ。あの日機奨光の覚醒を遂げて明るくなったものの、直後に受けたベオラの精神攻撃により機奨光を消失し、なんだかわからないうちに元通りになってしまったヴィエである。
「ねえ、ハクスイ。ハクスイも、るーちゃんのお見舞い行くの? あの子のクラスのみんなや、先生たちは行くみたいだけど」
「ああ、もちろん行くよ。一旦家に帰ってからでもいいだろ?」
「じゃあ、みんな病院で集合するみたいだから、先に部屋番号だけ教えておくの」
「おう」
ヴィエに手を振ってから、ハクスイは鞄を背負って帰路につく。
先日の学生招集騒動は、三桁に及ぶ勇徳大隊の彩光使が重軽傷を負った事件となった。首謀者である大悪魔ベオラは、八年前の悪魔の大襲来を手引きしていた悪魔として指名手配されていたものであったことを、ハクスイは天ツ雲フィノーノに戻った後に知った。
因縁の悪魔の再来に天ツ雲は大悪魔掃討部隊を組織し、地上を探索させるも、身を隠すことが容易な黒猫を捕まえることは至難であり、成果は思うように上がっていないようだ。
無傷に近いハクスイは簡単な検査を受けただけで解放され、あれから三日が経った。しかし、ルルノノの体調は思わしくないのだと、聞いている。
(早くよくなってくれたらいいんだけどな)
そんなことを思いながら、家に帰る。玄関で靴を脱いでいると、テレビのニュースの音が聞こえた。怪訝に思いながらリビングに行くと、先に帰っていたミズカがソファに寝そべっていた。料理本雑誌から顔を上げて、ミズカは小さく手を振ってくる。
「おかえり、おにいちゃん」
「ん、早いな、ミズカ」
「学校は半日で終わっちゃっているんだよね、危ないから、ってさ」
「そうか……普通に授業やっているのは、うちの学校くらいなもんか……」
ミズカは弟というよりは、むしろ姉じみた顔でハクスイに念を押す。
「あんまり危ないことをしちゃだめだよ、おにいちゃんは、自分に手加減しないんだからね」
「はは、心配してくれるのは嬉しいけどな。ミズカが待ってんなら、絶対に帰ってくるって」
そう笑い、自室に向かおうとしたところで、ミズカに呼び止められる。
「あっ、おにいちゃん」
「んー?」
戸から顔だけ出して覗くと、ミズカが暗い顔をして、テレビを指差していた。
「こ、これって……おにいちゃんの通っている病院、だよね」
「今、彩光使の人たちがたくさん入院しているとこだな。満員御礼でセール中とかか?」
そんな冗談を言っている場合ではなかった。
テレビには総合病院が映っていたのだが、その様子がおかしい。アナウンサーが映っている映像の至る所に、黒いモヤのようなものがかかっていた。それは数日前に見た悪しき波動のようで……
『おびただしいほどの冥混沌が発生しております!』
「はぁ?」
冥混沌など、天ツ雲でこそ見ることがないものだ。ハクスイは思わずテレビにかじりつく。
『住民には避難勧告が出されており……あっ』
アナウンサーが喋っているところに風が吹きつけ、彼女は黒い霧に包まれる。カメラが斜めに傾いて、映像が乱れた。さらにその直後に、アナウンサーの表情はまるで超過労働の最中のように、暗く沈んだものになってしまっていたのだった。
『……でも別に逃げても、どうなるってわけじゃないですしね……いっそ死にたい……』
「ンだこれ……」
「なんだか……大変なことに、なっているね……」
目を剥くハクスイの後ろで、八年前の事件を思い出したのか、ミズカが心細そうな顔をしている。ハクスイは鞄をリビングに放り出すと、制服姿を着替えもせずに回れ右をした。
「ミズカ、俺は病院に行ってくるからよ、でも危険だから家から出るんじゃねえぞ!」
「う、うん、わかった……おにいちゃんも、気をつけてね」
いつもならありえないことだったが、ミズカの心遣いに返事もせずに、ハクスイは玄関を出て、駆け出した。とにかく、じっとしていられなかったのだ。