第四話-6
ハクスイがすっかりと日が落ちた校内にて、帰る準備を整えていたところだった。
視界が明滅する真っ赤な光に塗りつぶされたかと思うと、その直後に警報が鳴り響いた。
「え?」
唸りをあげながら、校舎自体が赤く光っているのだ。まるで火災警報のようだった。
「こりゃあ……学生を招集するときの、警報か……?」
ということは、つまり――
「地上に降りていた彩光使に……なんか、あったんだ」
ハクスイは歯を食いしばりながら、拳を握り締めた。
ハクスイは教室を飛び出した。どうしてだか、ルルノノが暗闇の中で落ち込んで震えているような、悪い予感がしていた。
「悪魔の野郎め……」
校庭には大型の機方舟がいつでも飛び立てるようにうなりをあげながら停泊していた。形状はルルノノやユメのそれと似ていたものの、大きさがその四倍以上もあった。華やかさが微塵もない無骨な黒鉄色の塗装は、どこか血生臭い現実を突きつけてくるようだった。
大型の機方舟は天使を何十人単位で運搬するものであり、大きく開いた扉の中に、事情を理解した学生たちは、次々と飛び移っていた。
「点数を稼ぐチャンスだ!」「出席日数もボーナスつけてもらえるってよ!」「将来の彩光使試験の面接で、有利になるみたいだしな!」「わたしも頑張らなきゃ!」
騒いでいる学生たちはまるでお祭り気分だ。文化祭に似た熱気の中、何人かの教使も声を張り上げており、ハクスイはそこにシュレエルの姿を見つけて駆け寄った。
「おお、ハクスイくんか。良かった、まだ学校に残ってたんだな」
「先生、これって、地上になんか……あったんですか」
「ああ……彩光使が多数の悪魔に襲われてな、冥混沌を払うラッパ隊などの手が足りなくなってしまったんだ。フィノーノ中の彩光使を総動員しても間に合わなくてな、それで、とりあえずはうちの学校から協力者を募っている。この船は直接戦闘の可能性がある地点へ飛び立つもので、三年生に率先して乗り込んでもらっているが」
「ルノは」
「ルルノノくんも、恐らくそこにいるだろう。あるいはもう少し奥にある、悪魔の中心地か」
「なら、俺も行きます」
「ハクスイくんにそう言ってもらえると助かる」
ハクスイは機方舟を取り囲んで物見している生徒たちの輪をかき分けて、ハッチへと向かう。その中に、顔色を悪くして立ちすくむ生徒がいた。ハクスイとともに伝説を作った二大天使のうちの片割れは、まるで初めて武術の授業に挑む一年生のような心細い顔をしていた。
「わたしは……わたしは……でも……」
まだ帰ってなかったのか、あるいは途中で警報を聞いて引き返してきたのか、それはヴィエだった。俯く彼女の肩を、ハクスイは軽く叩いた。
「無理すんなよ」
「えっ? あっ……は、ハクスイっ」
「悪魔は俺がぶっ倒す。だから、お前は待ってろ」
そう告げてハッチに乗り込もうとしたところで、後ろから制服のワイシャツの裾を掴まれる。
「……やだ」
振り返るとヴィエは、玩具を買ってもらうまで動かないと言い張る子供のような顔で、きつく目を瞑っていた。
「わたしだって、ハクスイと、いっしょに、戦うもの……!」
「お、おい、お前」
ヴィエは先に機方舟に乗船すると振り返ってきて、精一杯の強がりとともに、胸に手を当てながら言い放った。
「平気よ……悪魔との戦い方なら……な、な、習ったもの……!」
「ムキになっているだけだろ、そりゃあ」
つぶやきながら、ハクスイもまた機方舟乗り込む。しかしヴィエは頼りない口調ながらも、しっかりとハクスイの目を見て告げてきた。
「い、いいじゃない、ムキになったって……頑張るって、決めたんだから、頑張ったって……! 無理するな、なんて、言わないでよ……きゃっ」
そうヴィエが言った直後に、機方舟は上昇を始めた。ふわりとした浮遊感に態勢を崩したヴィエは、空いたままのハッチから落ちそうになったところを、ハクスイに抱かれて助けられる。
「……わかったよ。ただ、俺のそばを離れるんじゃねえぞ」
「う、うん……ありが、と、う……」
その甘いやり取りの直後だ。彼らが恋人同士なのだという噂を聞きつけていた学園の同乗者たちから、一気に歓声が上がっていた。
~~
「……もう、美月ちゃんのことなんか知らないよ!」
「……わたしだって、瞬くんと、最初から付き合わなきゃ良かった……」
公園の前の道を、少年と少女が喧嘩をしながらそれぞれの方向へ別れてゆく様を、ルルノノは膝をついてとても悔しそうな顔で見つめていた。
「だめだよ……そんなこと言っちゃ……」
彼女の周りには、倒れている天使や、機奨光がなくなりかけて動けなくなっている天使たちが、カラスに荒らされて散らばった生ゴミのように散乱していた。その中には「ふぁ~……」と目を回すユメの姿もあり、もはや意識が残っているのはルルノノだけであった。
ルルノノの300万ポジの機奨光は見る影もなく、大技どころか、機奨翼の発現すら怪しかった。そんな彼女がまともに戦えるわけもなく、光の薄くなったハルバードを地面に突き刺し、それでようやく身を起こしているような状態であった。彩光使の外套はあちこちが破け、フォークスピアで刺された痕からは、血のような赤い機奨光が流れ出ていた。
悪魔たちは笑いながらルルノノを罵倒し、飛び回る。
「それ見たことか! それ見たことか!」「チビのくせにいきがりおって!」「いつもは威張っている天使が俺たちの前にひざまずいている! キモチイイ!」「さすが大悪魔さま! 面倒事を引き受けてくださる!」「大悪魔さまバンザイー!」
たくさんの悪魔に混じって、大悪魔が、ルルノノの元に歩み寄ってゆく。
猫の耳と尻尾を持つ少女は、何も知らない無垢な子供に現実を教え込むような下卑た笑みとともに、ルルノノの顎を掴んで、無理矢理に顔を自分の方に向けさせた。
「だってあなた、ドMなんでしょう? ホラ、楽しみましょう」
「やだよ、こんなの……」
黒猫はルルノノの心の中を抉る。
「こんなの、にーさんと違って、ゼンゼン、楽しくないもん……!」
「あら、あなた、好きな人にされていたからって悦んでいたの? とんだヘンタイだワ。ひどいわね。あなたの本性を知ったら、周りの天使はなんて言うのかしら」
ルルノノは力なく首を振る。大悪魔には手も足も出なかった。
「気づけなかったじゃ、済まされないデショウ? 何度でも見せてあげるワ、あなたの……」
勝利を確信しておきながら、大悪魔は何らかの目的のために、ルルノノを執拗に追い詰め、弄ぶのだ。ルルノノは目を閉じ、耳を塞いで、叫ぶ。
「やだ……ぁ……!」
『きょうも一緒に帰ろうよ、にーさん!』
ルルノノはハクスイに抱きつき、腕を絡ませた。
『ああ、今準備するからひっつくなよ』
『えーへーへー』
ふたりはお似合いのカップルだと周囲にも認められ、そうして憧れられていた。恋人としての喜びを手に入れることは、“愛のキューピット”の名を持つ天使としては、彩光使になることよりもずっとずっと幸せなことであるように思えた。
『それよりもルノ、彩光使の仕事に行かなくていいのか?』
『そんなのもういいよ! あたしはにーさんといるほうが大切なんだもん!』
ルルノノは満面の笑みをハクスイに向ける。
皆にさよならの手を振って教室を出ようとしたとき、ヴィエと目が合った。ヴィエもまた、ふたりを祝福するように真っ白な笑顔をしていて。
『じゃあね、ハクスイ、るーちゃん』
「――違う!」
凍りつくような冥混沌の冷気を、ルルノノの叫びが打ち砕く。ルルノノは片膝をついたまま、灼けた目で大悪魔を睨む。
「あたしは、そんなこと言ったりしない! だって、恋愛なんて、結局は自分のためでしかないんだもの!」
「あら、まだ起き上がろうとしているだなんて、タフな子だワぁ」
ルルノノは土を掴む。その手のひらに、短いハルバードが現れる。
「あたしは恋なんて、しないよ……だってそんなの、自分と相手だけが楽しくなっちゃっても、仕方ないんだもん……! あたしの力は、みんなのためにあるんだ! あたしは人間と、天使を守るんだよ!」
「利他的な子ねえ……その強情さは、どこから来たのカシラ」
ルルノノが横薙ぎで繰り出したハルバードは伸びて、大悪魔の脇腹に突き刺さる。だが悪魔は顔色ひとつ変えていなかった。
「そんなっ!」
「あと一押しってところかしらね」
大悪魔はそう言って笑うと、ルルノノの光の戦斧を手繰り寄せる。手を離す暇もなく、あっという間にルルノノは大悪魔の前に引き摺り出された。
「どうしてそんなに自分を排してしまったの? ねえ、アナタ……教えてよ、ウフフフ」
歯を食いしばるルルノノの心の奥に、大悪魔は入り込む。