第四話-2
「ヴィエおねえちゃんも、ごはん食べていくんだよね?」
「あら、嬉しいの。それじゃ、わたしもお邪魔しようかしら」
ハクスイはドアノブに鍵を差し込むが、どうやら鍵は空いているようだ。ルルノノが先にやってきて、共同家屋の管理人さんからマスターキーを借りるかなにかして――彩光使の地位を利用して――忍び込んだのだろう。
とりあえず胸を撫で下ろしながら、ハクスイは部屋のドアを開く。
「ミズカ……お前がいくら無限の優しさを持っているからって、それをわざわざ敵にまで与える必要はどこにもないんだぞ……」
「誰が敵なの、誰が」
玄関に上がり、靴を脱いでハクスイは自分の部屋に向かう。ヴィエの「お邪魔しますの」が続く。
「あ、ちょっと待っててくれよ、ヴィエ」
振り返ると、靴を整えるミズカの背が見えた。可愛い過ぎる。砂浜で貝殻を拾う人魚姫のようだ。思わず求婚したい衝動を抑えながら、ハクスイは平静を装ってヴィエに告げる。
「今、部屋が散らかっててさ、五分だけ待っててくれねえか」
確認だけはさせてもらいたかったのだが、ヴィエは無残にもハクスイの横を通り過ぎた。
「別にそんなの、気にしないの。ハクスイの部屋なんて、目をつむってても歩けるのよ」
「お、おい」
手を伸ばすものの、勝手に開けるヴィエを止める暇もなかった。ゆっくりとドアが開く。
(やべえ――)
「ふーん」とつぶやくヴィエの後ろから覗き込むと、部屋は綺麗に整理整頓されているようだった。朝とは違い、掃除機までかけられ、フローリングの床は水拭きもされているような徹底ぶりである。犯行は、もちろんルルノノの仕業だろう。
「相変わらず綺麗なの。几帳面だものね、ハクスイ」
そう言って部屋に上がりこむヴィエに続きながら、ハクスイは感心する。
(すげえな、一瞬で綺麗にして帰っていきやがった……さすが、っつーか……なんでもできるんだな、あいつ……あとは、何食わぬ顔でここに戻ってくれば、なにも問題は……)
本棚をのぞき込んでいるヴィエを横目に、ハクスイは部屋を見回す。問題のブツの在処はというと……やっぱ、押し入れに隠したんかな、と思い、気軽な気持ちで押し入れを開けてみた。
ふすまを横に開くと、その直後、ルルノノと目が合った。
ルルノノが膝を抱えたまま押し入れに入っていて、SMグッズの山に埋もれながら、こちらに向かって青ざめた笑顔で手を振ってきていた。ハクスイの思考が一瞬止まる。
ルルノノの小さな口がぱくぱくと動く。
(ま・に・あ・わ・な・かっ・た)
ぴしゃり、と戸を閉める。ハクスイは拳を握って震えた。
(お前それ、部屋の掃除までやっているからじゃねえか……!)
押し入れに額をつけて奥歯を噛み締めていると、ヴィエが怪訝そうにやってくる。
「なにやっているの、ハクスイ、機奨光のお勉強、しないの?」
「ああ、そういう名目だったな……つっても、ルノがいないんじゃ大したことはできねえか」
立ってお見合いをしているところで、ミズカが「お茶をおもちいたしました~」と部屋にやってくる。そのお盆の上に乗っている湯気立つ緑茶を見て、ハクスイはこれだと思った。
(がぶ飲みさせて、ヴィエをトイレに行かせたところで、ルノを逃がしゃいいんだな……)
とりあえずはヴィエをこの部屋から追い出せばいいのだ。それならばと、考えを改める。
(って、待てよ……別にそんな面倒なことする必要ねえか?)
ハクスイはとりあえず機奨光の教科書を本棚から取り出したところで、気づく。対面に足を畳みながら座るヴィエを見て、いいことを思いついたのだ。
「そういや、前やった二人組の機奨光の本あったよな」
「え? あ、うん、あったの」
「お前、あれ家から取ってこいよ。ふたりで続きやろうぜ。全然進んでねえんだからさ」
我ながら良い考えだと思った。ところがヴィエはハクスイの予想に反し、遠慮がちに鞄をテーブルの上に乗せてきた。
「じ、実は、今も、持っているんだけど……」
「なんで持ってんだよ、畜生」
「え? な、なんで? やるんじゃないの?」
「ああ、そうすっか……畜生……用意の良いやつだなオラ」
「な、なんでそんなに態度悪いの? い、嫌なの? そ、そんなに嫌なの?」
長期戦を覚悟したハクスイは、戸惑うヴィエの横に座り直す。彼女の長い銀髪から、幼い頃からいつもそばにいた女の子の懐かしいような良い香りが漂ってくる。薄くて大きな問題集を机の上に広げて、ハクスイとヴィエはまたも恋人同士を演じることとなった。
「えっと、じゃあ、こないだの続きね……きょうのは……ええと……今度は“彼氏の家にやってきて、ひたすらイチャイチャする”、だって……」
「なんか、そこはかとなく、きょうのシチュエーションに合っている気がするが……」
「べ、勉強するのは大抵おうちでしょ。なにもおかしいとこはないのよ。彼氏の部屋はとても自然なデートスポットなのよ」
「いや、よく知らんけどさ……」
押し入れに気を取られながらも、ハクスイはヴィエの手元の本を覗き込む。
「あ、これは台本があるんだな、ありがたい」
「『台詞を自分流にアレンジしましょう。役に成り切らなければ、役には立ちません』……だって。巧いんだか、へたなんだかわからないの……」
「交互に読むだけで良いんだろ? すげー楽な課題だな。とっとと終わらせちまおうぜ」
「わたしにはテストよりよっぽど難しいけれど……えと、また、わたしから、なのね……」
こほん、と軽く咳をして、ヴィエは棒読みでつぶやく。
「こ、ここがあなたのお部屋なのねー……綺麗に片付いているのー……」
「そうか? まあ、普通だよ。それよりさ、ヴィエ。ここであなたは彼女役の肩を抱いてください……って、ああ、これは台詞じゃねえか。よっ」
ヴィエの細い肩に手を回した瞬間、彼女は突然狼狽してその蒼い目で睨んできた。
「きゃっ! な、なにするの、ハクスイっ!」
「なに、って、肩に手を回しただけだろ」
「別に、そんなのしなくていいれしょ! ふ、フリでいいの、台詞だけれっ、十分らのよ!」
「そうか? でもこういうのは真面目にやっといたほうがいいと思うんだけどな」
「い、いいの! らってとっても危険らもの!」
「危険……? よくわからんが、続きはお前からだぞ」
ヴィエは呼吸を整えてから、急激にトーンの落ちた声色で続ける。
「……ふう……えっと、だ、だめよー、ハクスイー、まだ明るいのよー……」
「良いだろ、ヴィエ、俺の部屋に来たってことは、やることはひとつだろ。“ここであなたは彼女を押し倒して、胸の上に手を当ててください。できれば服の中に手を入れましょう”……これ、ホントに市販の参考書なのか……?」
どうする? とハクスイが目を向けると、嵐を起こすような勢いで手を横に振られた。
「だめだめだめだめだめだめだめなの」
「そりゃそうだよな。そこまでやると、芝居の域を越えちまうし」
ヴィエは顔を隠すように参考書を取って、蚊の鳴くような声でつぶやく。
「…………や、やぁん、いけないのー、ハクスイー……そんなの、らめなのー……やー……」
「いや、それじゃ、次の台詞読めねえだろ。おい――」
ハクスイがヴィエの肩に手を置いて、教科書を取り上げたそのときだ。眼前に突然現れた顔に動揺したのか、「や、やぁぁ」とヴィエがハクスイの袖を引っ張り、彼を巻き込みながらひっくり返る。
それはちょうど、彼女の胸に手を当てて押し倒したような形のわけであって。
つい前に、ルルノノとこんなことをしていたような気もしたわけで。
「お、おい……だ、大丈夫、か?」
「………………………………………………っ」
そのヴィエの表情は、今までハクスイすら見たことがないほどに美しかった。柔らかそうな頬を紅色に染め、星々のきらめく瞳を潤ませたさまや、銀色の髪が広がって真っ白な氷原のように輝くさまは、まるで女神の一柱のようであった。
しばらくふたりは見つめ合っていた。先に我に帰ったのはハクスイのほうで、身体をどけてからヴィエに手を差し伸べる。
「わ、わりいな、大丈夫か? 髪踏んじまったりしてねえよな、怪我とかないか? 起きれっか? 手、貸すぞ」
「…………だいりょうぶ、らいりょうふ……」
「いや、舌回ってねえけどよ」
ヴィエはハクスイの手を借りずにひとりで身を起こし、髪を撫でながら立ち上がった。それから心配になるようなよろめく足取りで、部屋を出ようとする。
「……ちょっと、お花摘みに、行ってくるの……」
「お、おう、手洗いか……って、お前、その戸はちげえぞ――」
起き上がって怒鳴りながら制止したときには、もう遅かった。ガラッ、と開いた押し入れの中から、ひとりの少女が転がり落ちてくる。
「わ、わわわ、きゃあああ!」
山のようなSMグッズとともに、雪崩を起こしながらである。
ヴィエは少しの間呆然としていた。様々な疑問が頭の中を渦巻いているのだろう。ズドーンと勢いよく落ちたルルノノを見下ろし、その後、ひとつの道具を取り上げて、とりあえずという感じで、ヴィエは細い細い薄い声でつぶやいた。
「……え……なに、これ……?」
小さなボールに革紐がくくりつけられている器具だ。頭を押さえながら「いててて……」と起き上がったルルノノが、余計なことに質問の解答を提示する。
「あ、あはは……そ、それは、えと、ギャグボールって言ってね、口に咥えるものなんだよ。なにも喋れなくなるし、口を閉じることもできないから、だらだらと赤ちゃんみたいに唾液も垂れるし、とっても恥ずかしいと言わざるをえないんだよ、あはは……」
「……説明してるんじゃねえ……」
ハクスイは顔に手を当てて、そううめくより他なかった。