第三話-4
「んー! んー! んー!」
口を塞がれたルルノノは、首を振りながら大きな金色の瞳でなにかを訴えてくる。
「いい子にしてたか? ほら、おかえりなさいはどうした?」
「ん~! んん~! んんんん~~~!」
「何言ってっか全然わかんねえぞ。しゃあねえな、ほれ」
ハクスイが唾液で濡れたさるぐつわを外すと、ルルノノは大きく深呼吸を繰り返した後に、きっ、と非難がましい目つきを向けてくる。
「に、にーさぁん……」
はぁ、はぁ、と息が切れている。紅潮した頬がゆっくりと動いていた。手足はまだ縛られたままのルルノノが、身動ぎを繰り返す。
「これ、なんか、心細いよぉ……」
「かなり長いこと放ったらかしにしてたからな。でも、俺が帰ってきて押し入れを開けたとき、嬉しかっただろ?」
「そ、そんなこと……あるわけ……」
「でもお前、口ではンなこと言ってっけど、機奨光が放出されてるぞ」
「えっ、う、うそっ」
ルルノノは振り返れない。だが事実、ルルノノの背中からはうっすらと白い翼が生えていた。
「ルノ、とりあえず俺はお前の素直な反応を見ているんだからよ、そうやって嘘ついたりとかは勘弁してもらいたいんだがな……」
「う、うそじゃないつもりだったんだけど、お、おかしいな……が、がんばるよっ……」
「それにほら、天ツ雲にも売っているんだな。ちゃんと見えるか?」
ハクスイは紙袋の中身を、ドサドサとテーブルの上にぶちまける。銀色の手錠、黒革の目隠し、短い打鞭、拘束用の赤い革、等々、等々、一体なにに使うのかもわからないようなグッズまで含めて、十点近い品がテーブルに踊り、あるいは跳ね、あらわとなった。
「う、うわっ……す、すごいね、にーさん……本格的、だね……」
まさかにーさんがここまでやるとは……とルルノノはつぶやく。
「ああ。お前が持ってきてくれた本も参考になったよ」
高度な調教には道具が必要だということも知り、まずは形からというわけで、こうして街まで買い物に行ってきたところだ。
「まずは、やれるとこから、やってこうと思ってな」
「ありがとう、にーさん……やっぱりあたし、にーさんに頼んで、良かったよ……うう……」
「お前が俺を一人前の彩光使にしてくれるっつったように、俺もお前を一人前のドMにしてみせるように、頑張るさ。じゃあまずは手始めに……」
道具を選び出すハクスイに、ルルノノは身動ぎしながら、同年代の男子に訴える。
「で、でも、その前にちょっと……あ、あの……」
「ん?」
「そ、その……」
なかなか言い出そうとしないルルノノに、ハクスイが促すと、彼女は顔を真っ赤にしながらつぶやいた。
「……お、お手洗いに、行かせてほしいかな、なんて……」
「あー」
その恥ずかしそうな言葉を聞いて、ハクスイは暗い目でじっとルルノノを見つめた。
「行かせないって言ったら、どうする?」
「……えっ」
ルルノノがこの世の終わりのような顔をする。彼女の瞳の輝きが徐々に失われてゆく。ルルノノは何度も首を振り、その唇を震わせていた。急速にその機奨光が萎んでいく様を眺めながら、ハクスイはようやく告げた。
「まあ、構わねえか。おとなしく、いい子で待ってたんだからな」
「……う、うん、あたし、いい子で待ってたよっ、ありがとっ!」
ぱぁっと再び機奨光が輝くのが見えた。従順にうなずくルルノノの手足の縄を解きながら、ハクスイはつぶやく。
「ミズカにだけは、見つからないようにしねえとな……これ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
まだ小さかったヴィエは、暗闇で震えていた。
そこは寒くて暗い体育館で、周りにはクラスメイトたちが同じように身を寄せ合っているのだが、なぜだか隙間風は止まず、身体の震えが止まることもなかった。気を紛らわせるために歌でも歌えば少しは変わるのだろうが、騒いだら“彼ら”にバレてしまうのだと思うと、恐怖心に縛られたように、誰一人として身動ぎすることもできなかった。小さな子供たちがガタガタ震えながら物音ひとつ立てず身を寄せ合っている姿は、異常な光景だった。
突如として、体育館の扉が開け放たれた。
ヴィエは悲鳴を我慢するために、手のひらを強く噛んだ。それがあまりに痛くて、目の端から涙が一粒零れる。月明かりもない完全な闇夜だったというのに、その姿を見ることはたやすかった。黒よりも暗い深淵の闇の粒子が、その身体を包んでいたのだから。
「そこに、イルのかぁ?」
冥混沌をまとった獣――悪魔であった。
ヴィエは手を噛みながら、何度も心の中で祈った。こっちに来ないで、こっちに来ないで、と。しかし悪魔は無情にも、カカトの高い靴を鳴らしながら、コツ、コツと、迫ってくる。
「美味しそうな、子供たちばかりだな。誰から喰おうか」
生まれて初めて見るおぞましい悪魔の姿に、ヴィエは叫び声を上げてしまいそうになる。彩光使の助けは、まだ来ないのに、悪魔は着実に歩を進めてくる。
ついに、先頭に座っていた少女が、掴まれた。少女は泣き叫び、悪魔は笑っていた。ヴィエはどうすることもできずに、呆然とする。少女の悲鳴が自分のそれと重なる。まるで生きている心地がしなかった。少女のパニックが伝播し、クラスメイトたちが一斉に恐怖を溢れさせた。阿鼻叫喚の様相を呈す体育館には、悪魔の笑い声が響いた。
「イイぞ、この恐怖、冥混沌、たまらない。絶望に染まった天使は、とても綺麗だ」
そこに、ひとりの少年が立ち上がった。
「待ちやがれぇ!」
暗黒に包まれた体育館に、機奨光が閃いた瞬間、悪魔が目を抑えて仰け反った。
「何、この輝き……彩光使……?」
ヴィエは泣くことも忘れたように、彼を見つめていた。いつしか悲鳴は止んでいて、全てのクラスメイトたちは彼の背中から生えた真っ白な翼に目を奪われているようだった。
「悪魔ごとき、俺の学友には指一本触れさせねえぜ!」
少年の雄叫びとともに、体育館は信じられないほどの光が、七色の光が生み出された。
そんな夢を見ていた。窓のカーテンの隙間から差し込む朝日で目を覚ましたヴィエは、ベッドの上に身を起こしながら、髪を撫でてつぶやく。
「……でも、よく考えたらあれ……本当にハクスイだったのかしら」
今の姿とは掛け離れすぎているし、どちらかと言えば、まだルルノノのほうが近いような気がした。
「小学生にしては、なんか、物言いも、妙に大人びていたし……」
隣の部屋を隔てる壁を見つめて、ヴィエは頬に手を当てながら、首を傾げた。
「……忘れているのは、わたしのほうだったり……しないわよね……」