第二話-1
「お・き・て」
耳に小鳥のさえずりのような声が注がれて、ハクスイはくすぐったそうに身じろぎをした。
機方舟に乗っているような感覚は、揺さぶられてるからだとわかった。さらに腰の辺りに、ちょうど人ひとり分ぐらいだろうか、妙な重量感がある。ハクスイは湯船から出るように、ゆっくりと目覚める。部屋には朝日が差し込んでいた。涙目をこすってから腕を伸ばす。
「……ん……ミズカ、か……なんだ、きょうは、やけに早いな……」
と、目を開けて、ハクスイは思考回路を停止する。
「おはよっ、えへへ、にーさんっ」
鼻と鼻が接触してしまいそうなほどの目の前に、ルルノノのひまわりのような笑顔があった。
「……」
どうやらルルノノはハクスイの上に女の子座りでまたがっているようだ。スカートから覗く素足の白さが、明光に反射してまぶしかった。念のために確認をすると、確かにここは物の少ないハクスイの部屋であった。もちろん、昨晩ルルノノと別れて帰ってからの記憶もしっかりと残っていた。
「え、えへ、起こしに、来たよっ」
照れたように微笑むルルノノは、制服姿だった。そうしてなぜか頭の上で手を丸めた猫のようなポーズを取って、体をくねらせていた。
なにも言わないハクスイにじっと見つめられて、ルルノノは徐々にほっぺたを赤く染めてゆく。自分がなにかおかしいことをしている自覚があるのかもしれない。金色の髪がふわりと広がり、逆光に溶けて、琥珀のようにきらめていた。
「あ、あのね……ほ、ほら、にーさん、し、幸せ……かな?」
まるで言い訳するように、ルルノノは上目遣いで問いかけてくる。
「こ、こういうの、良いって、その、トモダチに聞いてね……聞いたからには、ほら、やらざるをえないから。ね、ど、どうかな、ちょ、ちょっとは機奨光レベル、上昇したような感触があるかなっ?」
ハクスイは目を閉じて、かぶりを振りながら、うめく。
「……なんてことだ……」
「な、なにさその反応っ」
態度一変、顔を真っ赤にしたルルノノがハクスイの首根っこを掴む。
「無断侵入者がいる……彩光使を呼ばなければ……」
「彩光使ならここにいるって! ていうか冷静すぎるよにーさん! 他になにかないの!」
「重い」
「お、重くないよ! 重いわけがないと言わざるをえないよ! むしろ最近はエンジェル軽くなったほうなんだからね!」
ルルノノはスカートの裾を翻しながら、ハクスイの上で駄々っ子のように手を振り回す。
「だ、大体おかしいよ! 女の子が寝起きにベッドの上にいたら、もっと桃色の反応をするべきだと言わざるをえないよ! それが真っ当な天使のリアクションだって聞いたんだから!」
「俺にダメ出しされてもな……」
仰向けのまま、ハクスイはバンザイをした。
それからふと思いついて、ハクスイは前髪をかきあげながらルルノノに尋ねる。
「なあ、ルノ。今のお前は、彩光使としてのルノか? それともただの女子か?」
「え? あ、ど、どうかな。ついつい来ちゃったのは、彩光使としての使命感からだけど、まだ学校も始まってないし……」
「なるほど」
ハクスイは身を起こす。ルルノノとの顔の距離は、息がかかるほどに近い。ハクスイはフローリングの床を指さしながらルルノノに言いつける。
「なら、どけ」
「うっ……」
ハクスイの瞳に冷たい光が宿ったのを見て、顔を赤らめながらもルルノノは素直にそれに従った。その姿を見て、ハクスイは右手を彼女に差し出す。
「ルノ、お手」
「なんで!?」
聞き返しながらも、ルルノノは小さな手のひらを乗せてきた。右手で髪をいじり回しながら、「うーうー」とうなっている。相当恥ずかしいのだろう。
(いや、それは俺もだけどな……)
SM契約を結んだのが、昨日のことだ。
それからハクスイとルルノノは、いくつかの取り決めを定めていた。
ルルノノはハクスイが彩光使になれるよう、全面的に協力する。同時に、ふたりきりのときにはハクスイもまた、ルルノノがドMになれるよう尽力する、ということだ。
『こ、これは、にーさんが彩光使になるために、そ、そう! 自信をつけさせるためっていう目的もあるんだからね! そこを勘違いしちゃだめだからね!』
と、ルルノノは言っていた。完全に建前である。
「ほれ、おかわり」
「う、ううううう……」
今度は反対側の手を差し伸べてくるルルノノに、ハクスイは神妙な顔で首を傾げる。ルルノノの所作は愛らしいものの、しっくりこない。
「なんかちげえな、これ……」
「え、SとかMとか、あんまり関係ないよねっ……」
ルルノノがハクスイに犬扱いされることに対しては、あまり抵抗がなさそうであった。互いのこそばゆいシチュエーションにこそ、恥ずかしがっているきらいもある。
「そうか……基本的には、ルノが嫌なことをしないといけないんだな」
「な、なんだろ……? す、スカートめくり、とか……?」
「高校生にもなってやることかよ」
こわごわとこちらを見つめながらおしりを押さえるルルノノを冷ややかに眺めるハクスイ。その視線が壁にかかった時計を撫でる。もうそろそろ時間に余裕がなくなってくる頃だ。
「……とりあえず、次は学校から帰ってきてからだな。色々試してみるしかねえだろ。俺もルルノノも納得できるような、そんな感じのをさ」
「う、うん……」
ハクスイが立ち上がって伸びをすると、その裾をルルノノが小さく引っ張ってくる。
「あ、あの、にーさん……なんか、ごめんね、こんな、面倒かけちゃって……」
「ああ? お前がそれを言うのかよ」
「えっ?」
ハクスイは頭をかきながら、ルルノノから視線を外す。
「お前だって、すまねえな。こんな0ポジの男に付き合わせちまってよ。そっちにはなんにもメリットがねえのにさ。鬱陶しいだろ」
「そっ、そんなことないよ!」
両手を握り固めて真剣に否定してくるルルノノの頭に、ハクスイはポン、と手を置いた。
「サンキューな。だから、そういうことはもう、言いっこなしにしようぜ。俺は“やってみる”って決めたんだからさ」
「あっ」
ルルノノは慌てて頭を押さえる。それからしばらくハクスイを見つめていたかと思うと、顔を綻ばせた。目を線のように細めて、彼女は笑う。
「うんっ、ありがと、にーさん!」
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ルルノノを部屋の外に出して着替えを済ませたところで、ハクスイは朝に弱いミズカを起こす。あの騒ぎでも目を覚まさなかったのだから、大物だ。
玄関に待たせておいたルルノノとともに家から出ると、隣の部屋からちょうどヴィエが出てきたのが見えた。思わずハクスイは間の悪さを呪う。
(……いや、別に、悪いことはなんにもしてねえんだけどさ……)
ハクスイたちが住んでいるのは、中央庁から与えられた共同住宅だ。自分の部屋のノブに鍵を差し込もうとするヴィエが振り返ってきて、朝から不幸せそうな顔で挨拶をしてくる。
「あら、ハクスイ……おはようなの」
「あ、ああ……」
ひきつった顔で返事をするハクスイの後ろから、美少女の笑顔でルルノノが現れた。ヴィエはぽろっと鍵を手のひらからこぼす。
「……あら、まあ」
ヴィエの切れ長の目が細められた。ハクスイはなぜだか不穏な気配を感じてしまう。錯覚なのだろうが、まるでカラスに睨まれているような……
「いや……これはな、ヴィエ……」