第一話-9「はじめての下界、はじめての出会い」
じっとりと汗ばんでしまうような長く辛い沈黙の後だ。まるでせきを切ったような勢いで、ルルノノが手をわたわたと動かしながらまくし立てた。
「べ、別に、そういう変な意味じゃなくて! ほら、あたしってやっぱり落ち込んじゃうわけで、今のところはたまたま上手くいって、彩光使のみんなの前で機奨光がなくなったことはないけど、でもいつ悪魔に責められてまた暗くなっちゃうかわからないから、その前にどうにかして弱点を克服したいと思っているわけで、でも悪口に対して強くなったり心を鍛えるのってどうすればいいのかなって悩んでたときに、下界でSとかMとかそういう話を聞いてああこれだってガッツポーズして、だってほらドMにもしなれたらどんな嫌なことを言われても気持ちイイって感じるようになるらしいから、それってほらすっごいエンジェルハッピーで一石二鳥でしょ! ね! ね! ねっ!」
「あ、ああ、と、とりあえず座れ、な?」
テーブルを乗り越えてこちらの顔をのぞき込んでいたルルノノに、ハクスイは落ち着くよう諭す。身を引いてくれたルルノノの表情を伺いながら、ハクスイは頭をかく。
「ンでも、ドMって、お前な……」
「あ、もしかして、にーさんってば、それがどんなものか知らなかったり、する……?」
「マゾヒストの略だろ? 知っているけど……それって、アレだろ、痛いことされると喜んだり、人格を否定されると興奮するっていう……変態、だろ?」
「ち、違うよぉっ!」
ルルノノは顔を真っ赤にしながら、強くテーブルを叩いた。湯のみがふたつ跳ねる。
「下界ではそうかもしれないけど、あたしにとっては悪魔の攻撃に対する完璧な防御法だよ! だって傷つくこともなくて、その上楽しいんだから、ほら、無敵なんだよ!」
「いや、まあ、理屈じゃそうなのかもしんねーけどさ……」
「だって、にーさんも、見た、でしょう……?」
ルルノノはそこで急に語意を弱めて、膝の上に手を戻した。
「あたしが、悪魔の囁きをまともに受けて……それで、行動不能になっちゃった場面を……あんなの、あのままじゃいけないと言わざるをえないよ……」
「まあ、そうだな……」
きょうはハクスイがいたからいいものを、あれがたったひとりの状況だったら、今頃ルルノノは大変な目に合っていただろう。最悪、殺されてしまうことすらあり得るのだ。シュレエルではないが、そんなことが起こったら天ツ雲フィノーノの損失に違いない。
ルルノノのことを考えれば――それが彼女のためになるのなら、諸手を上げて協力するべきだ。
(だから、って……ドM? そんな解決策か……? まあ他に心を強くする手段でどんなのがあるかと聞かれたら、すぐには出てこねえけどさ……)
「だ、だから、にーさん、お願いっ、あたしを、立派なドMに……」
「つか、一番の疑問はだな……」
ハクスイは茶をすすって、仏頂面になる。
「……なんでさ、お前、俺ならルノを立派なドMにできるだろうって、思いこんでんだよ」
「えっ、だって」
ルルノノにしてみれば、それは意外でもなんでもないことのようだった。
「にーさんだよ! できるに決まっているって! むしろにーさんにできなきゃ、天ツ雲で誰ひとりとしてできないよ!」
「なんでだ!?」
「一目見たときに、ピンとしたんだもん! あ、この人は心の底から、ドSだ、って! ほら、目を、目を見ればわかるよ! 誰だってわからざるをえないよ!」
「お前、そんな風に俺を見ていたのかよ……」
さすがに心外だ。できるわけがない、と思う。
「いや、つーかな、ルノ……」
「……」
ルルノノはじーっとこちらを見つめている。きらきらとした瞳がハクスイを捉えて放さない。どこかから「おねがいっ、にーさんっ……」などと、小さなささやきのような声が漏れてきた。エフェクトを発生させるような機奨光の効果だろうが、それはさすがに反則だと思った。
「あ、あのな、お前……」
大体、ドSとドMの関係というのは、そういうことではないか。
健全な男子高校生が美少女のそんなお願いを断るのが、どれほど難しいことか。ハクスイは健全ではなかったが、れっきとした男子高校生なのだ。
「ど、どうしても……嫌……?」
ルルノノの瞳にじわっと涙が浮かんでくる。ふたりの周囲の空間が滲み、まるでそこは海の底のように光が屈折して、綺麗な乱反射を描いた。
ハクスイは思わず顔に手を当てた。振り絞るようにしてつぶやく。
「……一日、時間をくれ」
「だ、だめだよ!」
「なんでだ!?」
「だ、だってそんなの、あたし、きょう寝れなくなっちゃうもん!」
「俺だって寝れねーよ!」
真っ赤な顔を突き合わせて怒鳴る。それからハクスイは大きなため息をついた。
「いや、つーか、まあ……くそう……」
言いたいことは空に浮かぶ雲の数ほどにあったが、ルルノノが固く信じている以上、ハクスイにはどうしようもなかった。ハクスイは諦めたように首を振る。
「……他にいねえっつーなら、まあ、やるよ、やってやるよ。ルノの助けになるなら、な!」
もう半ばヤケだった。
「に、にーさぁ~ん……」
はぐれた飼い主を見つけた子犬のような潤んだ瞳でこちらを見つめてくるルルノノに、ハクスイは小さく溜め息をつく。もういい。決めたならもう、あとは徹底的にやるしかない。
「まずは試してみっか、ルノ。とりあえず、俺なりのやり方で虐めりゃいいんだろ……」
「わぁい、エンジェル嬉しい!」
虐められると聞いて満面の笑みで手を叩いているこの時点で、ルルノノはもう一人前のドMなのではないかとハクスイは思ったが、それはともかくとして続ける。
「それをどう受け止めるかは、お前次第だよ。嫌だったら、辞めりゃいいしな。気に入ったんだったら、俺に続けさせりゃいい。選ぶのはルノ、お前ってことにするからな」
「うん、それでいいよ! 全然いいよ! ありがとうにーさん!」
「あとは……そうだな、よくわかんねえから、上手にだとか、そういうのは期待すんなよ」
「あ、で、でも! い、一応にーさんは一生悪口禁止だから、そういう心に刺さるのはナシでね! あたし泣いちゃうんだから!」
「なんだと」
「い、痛いのとかは、ちょっとは平気だけど、でもなるべく勘弁してほしいな……も、もちろん、これは、あの、言うまでもないかもしれないけど、え、え、えっちなのは、絶対にだめなんだから! あたしまだ清楚純真な乙女なんだからね! あ、あとは、まだまだ他にも――」
「……注文の多いドMなこって……」