第8-1話 最初の取引(前半)
翌朝、ミナが計画を説明した。
「行き先はベルノ。灰街とも呼ばれるスラム都市。白環教の管轄外で、商人連合が仕切っている」
「違法の街か」
「そうとも言う。でも私の目的地にある鍵の情報を持っている人間がいるとしたら、そこしかない」
「情報屋を探すのか」
「カシム・バールという男を探す」と彼女は言った。「好きじゃないけど、信用できないわけでもない。絶妙に不快な商人」
「随分な言いようだな」
「事実だから」
俺たちは廃都市を発った。
渡橋船で二時間。
ベルノが見えてきたとき、俺は思わず船の手すりを掴んだ。
浮遊大陸の「底部」に、文字通りへばりつくように街が作られていた。
普通の街は大陸の「上」に作る。でもベルノは違う。大陸の端から、縁の外側に向かって建物が張り出している。下を見れば霧底だ。
「なんで底に作った」
「税逃れ。縁の外は法律の適用外——当初の法律では。今は抜け穴を塞がれているが、すでに街ができているから取り壊せない」
「法律の盲点をそのまま都市にしたのか」
「ベルノはそういう街」
俺は眼下に広がる灰色の街並みを見た。
建物はどれも煤けていて、増改築を繰り返した結果、ぐにゃぐにゃした形になっている。洗濯物が何層にも渡って張られていて、それが旗のようにはためいている。
薄暗い。日光があまり当たらない構造なのだ、地理的に。
でも——生きている。
その薄暗い迷宮の中を、大勢の人間が動いている。声がする。笑い声も怒鳴り声も物売りの声も。
「嫌いじゃないな」と俺は言った。
「あなた変なところで前向きだね」とミナが言った。
「死者の声ばかり聞いているから、生きた人間の声は贅沢に聞こえる」
ミナは何も言わなかった。
少しだけ、表情が変わった——気がした。
読めなかった。彼女の表情は、俺には難しい。
---
ベルノの路地は入り組んでいた。
ミナについて歩きながら、俺はあちこちの残響を——意識しないように意識した。
拾いすぎると頭がうるさくなる。でも完全に閉じることも、まだ俺にはできない。
「訓練が要るな」と俺は呟いた。
「何が」
「能力の制御。今は垂れ流し状態で、残響が勝手に流れ込んでくる」
「どのくらい入ってきてる?」
「この路地を歩いた全員の記憶が少しずつ。足の痛みとか、買った物の重さとか」
「それはしんどいね」
「かなり」
「でも情報量は多い」
「そう。この路地の第三曲がり角に、隠し通路がある。三年前に子供が掘った。今は使われていない」
ミナが俺を見た。「役立つじゃない」
「ただし今の残響の中に、カシム・バールという人間の情報はない」
「だろうね。あの人間の情報は簡単に残らない。用心深いから」
「用心深い商人か」
「生きている商人はだいたいそう。下手に情報残すと殺されるから」
俺たちは路地を抜けた。
広場に出た。
広場の中心に、石でできた小さな祠がある。中に——棒みたいなものが立っている。
「祈炉か」と俺は言った。
「分かる?」
「記憶で知っている。でもこんなに小さいのは——小型か。家庭用?」
「ベルノは祈炉をどこからか密輸している。公式には認められていないから、公開できない。でも使わないとインフラが死ぬ」
「だから路地の隅に隠している」
「そういうこと」
俺は祠を通り過ぎた。
通り過ぎながら、祠から微かに——熱を感じた。
残響とは違う熱。
エネルギーの流れ、みたいな。
「この祈炉、どこかに向けてエネルギーを送っている」
「何?」
「分からない。でも溜め込んでいるわけじゃなく、流れている。どこかに」
ミナが眉を寄せた。「そういう情報、大事よ。覚えておいて」
「覚えておく」
「いつもそんなこと分かるの?」
「いや。たまたまかもしれない。能力の解像度がまだ低い」
「じゃあ訓練しないといけないね」
「どうやって」
「残響をたくさん読めばいいんじゃない?死体を探せばいい」
「物騒な訓練計画だな」
「ベルノには死体が多い」とミナは事もなげに言った。「抗争で死んだ組の人間、白環教に消された情報屋、借金で首を括った商人——数に困らない」
俺は彼女の横顔を見た。
感情の色が読めない。
だが——彼女が「慣れている」のは確かだ。
こういう現実に。こういう死に。
慣れることは、麻痺することじゃない。
彼女は麻痺しているわけじゃない。
ただ、感情を「使わない場所」に置く訓練をしている。
そういう人間の佇まいがある。
「カシムはどこにいる」と俺は聞いた。
「《灰の月亭》というところ。ベルノで一番古い酒場」
「そこへ行けばいるのか」
「たいていいる。あの人間は酒が好きだから」
「で、カシムに何を頼む」
「情報を買う」
「金はあるのか」
「少し。でも金だけじゃ足りない。カシムは金より面白い情報が好き」
「で、俺が提供するのは」
ミナが俺を見た。
「残響読解者が生きている——それだけで十分でしょ」
俺は少し考えた。
「俺が珍しい存在ということは、狙われる可能性もある」
「もちろん」
「それを承知で情報屋に会いに行く」
「リスクを取らないとリターンはない」
「……まあそうだな」
俺は溜息をついた。
「お前、たまに経営者みたいなことを言うな」
「没落貴族は生き残るために何でも学ぶ」
「没落した理由は?」
少し間があった。
「父が反逆者だから」と彼女は言った。「それだけ」
「それだけ、ではないだろうが」
「今は話したくない」
「分かった」
俺はそれ以上聞かなかった。
記憶から吸収した知識の中に「聞いていい時と、聞かない方がいい時の違い」がある。
今は後者だ。
それくらいは、俺自身の判断でも分かる。
---
《灰の月亭》は、広場から路地を三本入ったところにあった。
石造りの古い建物で、入口の上に欠けた半月の彫刻が掲げられている。夕方でもないのに中は薄暗く、すえた酒と煙草の匂いが漂ってくる。
扉を開けると、カウンターに一人の男がいた。
四十代くらい。がっしりした体格。にこにこと愛想のいい顔。ただし笑顔が目に届いていない。
「やあミナ嬢、久しぶり」とその男——カシムは言った。「今日は何を売りに来た?」
「買いに来た」
「珍しい。何を?」
「情報を」
カシムの視線が俺に移った。
一瞬。
本当に一瞬だけ、その笑顔の下で何かが動いた——気がした。
「初めて見る顔だね。名前は?」
「レイン」と俺は言った。
「レイン」
カシムは繰り返した。
ゆっくりと。
まるで懐かしむように。
俺は眉を上げた。「……知っているのか」
「いいや」と彼は笑った。「初めて聞く名前だ」
嘘だ。
俺には分からないが——でも嘘だという「感触」があった。
何かが、この男とすれ違っている。
「とりあえず座れよ。酒でも飲みながら話しよう」とカシムは言った。「《読者》が生きているとなれば、聞くことが山ほどある」
「《読者》というのを知っているのか」とミナが言った。
「まあね」とカシムは言って、杯を三つ出した。
その手の動きが——自然だった。
まるで、ずっと前からこの状況を「知っていた」みたいに。
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