第8-3話 最初の取引(続・後半)
《灰の月亭》を出ると、外はもう夕暮れになっていた。
ベルノの空は通常より暗い。大陸の縁の外に張り出した構造上、直射日光が入る時間が少ない。夕暮れは朱色でなく、薄い灰紫に染まる。
美しいとは言えないが、独特だ。
「歩きながら話す」とミナが言った。
「ああ」
俺たちは路地を歩き始めた。
「カシムが話した残響回収者——聞いたことあるか?」
「ない。ただ名前を聞いたとき、手首が熱くなった」
「刻印が反応したってこと?」
「分からない。でも気になる」
「私は一度だけ聞いたことがある」とミナは言った。「父が——残響に関する研究をしていた。処刑される前、私に言った言葉の中に出てきた」
「何と言っていた」
ミナが少し黙った。
路地の石畳を踏む音が、二人分、続く。
「『残響回収者がいる。彼らは死者の記憶を盗む。それが何のためかを突き止めたら、この世界の嘘が全部分かる』——そう言った。七歳の私には意味が分からなかった」
「今は?」
「少しだけ分かる。でもまだ足りない」
「ドヴァ・ヴォーンという名前を知っていると言ったな」
「…知っている」
「お父さんの研究仲間か?」
ミナが立ち止まった。
俺も止まった。彼女の横顔を見た。
夕暮れの灰紫の光の中で、金色の瞳が、少しだけ揺れていた。
「……もう一つ、あなたに話しておく」と彼女は言った。「私が断片アーカイブに行きたい本当の理由。カシムには言っていない理由」
「聞く」
「ドヴァ・ヴォーンは」
一呼吸。
「私の父よ」
俺は何も言わなかった。
「ドヴァ・ヴォーン・ヴァルカ。ヴァルカ家の当主で、旧文明研究者で、国家反逆者として処刑された——私の父」
「だからヴァルカ家が没落した」
「そう。父の名前は一族から削除された。私は父の存在を公には認めることができない。でも私は調べた。処刑の理由が本当に国家反逆かどうかを」
「違ったのか」
「国家反逆の証拠は一つも出てこなかった。父は研究者だった。白環教に不都合な研究をしていた——それだけだ。断片アーカイブに辿り着こうとしていた」
「辿り着く前に殺された」
「そう」
俺は空を見た。灰紫の空。
「だからアーカイブを開けたい」
「父が何を研究していたのか。なぜ殺されたのか。それを知りたい。その記録がアーカイブに入っているはずだから」
「……お父さんの死の記憶を俺に読ませるのか」
「読んでもらう必要がある。あなたが唯一できる人間だから」
俺はミナを見た。
「嫌だと言ったら?」
「——別の方法を探す」
「冷たいな」
「嘘をついてもしょうがないでしょ」
俺は苦笑いした。
「分かった」と俺は言った。
「分かった、って何が?」
「行く。ヴァルテアの霧縁の丘に。お前のお父さんの残響を読む。そのために白環教の施設に潜入する。全部込みで、やる」
ミナが俺を見た。
「……なんで」
「なんでって」
「利益がないでしょう。あなたに」
「知識が手に入る」
「それだけ?」
俺は少し考えた。
「お前が七歳のときに聞いた父親の最後の言葉が——『この世界の嘘が全部分かる』だったんだろ。それを知りたい気持ちは、俺も同じだ。俺自身が何者か分からないなら、世界が何者か分かれば手がかりになるかもしれない」
「それは利益じゃなくて好奇心ね」
「なんか文句があるか」
ミナが、少しだけ、笑った。
笑ったのは初めてだった。
口の端が、ほんの数ミリ上がっただけ。でも確かに笑った。
「ない」と彼女は言った。「——ありがとう」
「礼を言うなら後にしてくれ。まだ一個も成し遂げていない」
「後でも言いたくなるか分からないから、今言った」
俺はその言葉の意味を飲み込んだ。
後で感謝を伝える機会がなくなると思っている——あるいは、後では照れてしまうと思っている。
どちらか分からないが、どちらでもいい。
「行くぞ」と俺は言った。「今夜の宿を探さないといけない。野宿は疲れた」
「ベルノで宿を取るのは少しリスクがある。名前を出さなければいいけど」
「偽名を使う」
「あなた、偽名の素養がある?」
「今から考える。お前は?」
「私は」とミナは少し考えて言った。「ミナ・ヴォーン」
「お父さんの名前を使うのか」
「消された名前を、ここで使う。それだけのことよ」
俺は頷いた。
「俺はレイン・グレイにする」
「なんで?」
「灰色の名前が気に入った」
「…センスが分からない人ね」とミナは言ったが、否定はしなかった。
灰紫の空の下、俺たちはベルノの奥へ歩いていった。
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