呪いと64卦
「何かになろうは呪いである」という惹句の本があって、その本は私は読んだことはないのだけど、アポリアという概念と関わってくるのだろう。
そこについては、各自それぞれ、アポリアを調べてほしいのであるが、袋小路ということであり、人は、「何かなんですっ!」と言ったとたんに、その何かに吸い寄せられて、死んでゆく気がする。
多分、本当はその何か以外の何かなのである。だから、私は酒場では、安易な自分語りをすることをやめてしまった。多分、それは自分に語られてしまっているからであり、いつのまにか、言っている自分に縛られてしまうからだ。
まず、突破口としては、呪いとは遊びである。と思うことだろう。呪いをアポリアと思わないことである。たとえば、王子がカエルになるのを呪いとするか。メタモルフォーゼとするか。
ある意味で、人はカエルなのである。ひょっとしたら、今、これを読んでいるあなたは、読者ではなくてカエルかもしれない。そんなことは誰にも言えないのだ。下手をすると、カエルが王子様になる呪いをかけられた話かもしれない。
王子様だった人間が実はニートであり、ニートであることを極上の幸せとして生きている。しかし、ものすごい美女がその王子様を恋の罠で、絡め取ろうとする。王子様は苦しむ。完全に彼女のものとなった時、王子様は叫ぶ。俺はニートなんだあああ。本来は両方なのであろう。両方に開放しないといけない。
人は何かにならないと生きてゆけない。しかし、いつもその何かに辟易している。それは、人という概念にしても、その前に生物である。ということである。社会システムと、生物ということの二軸がうなりを挙げて、クルクル回っているのだ。本質はどこにもない。そのうなりに耳を傾けよ。色々なものが生まれる。
これをうまく差配しないといけない。これを弁証法テクニックで誤魔化そうとする人がいる。それこそ、呪いなのである。あの『政治屋』という奴らだ。奴らの偽善にはいつも注意をしないといけない。我々は鵺だ。キメラなのである。それが一番健康である。
弁証法というのは病である。たとえば、作家である。作家ではない。という二つの分かれにはならない。本来は、
1 作家である
2 作家であることの否定
3 作家ではない
4 作家ではないことの否定
この四つはみんな違うのだ。弁証法は、それを一緒にしてしまっている。2と3では全然違うのである。あるいは、たとえば、健康と病気。
1 健康である
2 健康であることの否定
3 健康ではない
4 健康ではないことの否定
5 病気である
6 病気であることの否定
7 病気ではない
8 病気ではないことの否定
この八つの段階が隠れている。いや、顕在と、潜在で、二つの状態を兼ね揃えている。つまり、8×8で、正確には、64の状態が待っている。つまり、1と2、1と3、1と4……と二軸のものを抱えているのだ。1と1さえある。健康である。健康である。もう、これは万々歳に健康である。多分このまま、寿命まで突っ切るだろう。(話はちょっとズレるが、易経は、64卦である。これは、陰と陽、64の組み合わせのことでないのか)
話を戻すと、作家である。作家でない。この二つの命題の対立の貧弱さっ!これをどう考えても、作家という概念の更新にはならない。たんに、一軸の概念を読まされているだけである。人間は、二軸の何かに巻き込まれることによって、先に進めるのだ。一軸になった途端に、病気になる。精神病がそれである。




