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愛だけでは、海を渡れない

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/03/15

 

 吐き気がした。


 中部国際空港の出発ロビー。


 電光掲示板に赤々と点滅する『搭乗手続き中』の文字が、死刑宣告のように私の網膜を焼いている。


 窓の外は三月半ばの、中途半端に暖かく霞んだ空。


 桜の蕾がどうだとか、春の足音がどうだとか、そんな能天気な季節の移ろいすべてを粉々に踏み躙りたかった。


 胃の奥が冷たく重い。


 指先は氷のように冷え切っているのに、手のひらには嫌な汗をかいていた。


 目の前には、見慣れた大きなシルバーのスーツケース。


 そして、そのハンドルを握る、世界で一番愛している人。


「……時間、だね」


 絞り出した自分の声は、ひどく滑稽に上ずっていた。


 笑おうとしたのに、顔の筋肉が痙攣して、不気味な歪み方をしているのが自分でもわかった。


 ルーカスは、何も言わなかった。


 ただ、スーツケースからゆっくりと手を離し、私を見た。


 その、深海のように美しい碧の瞳が、今はひどく充血して、水膜で揺れている。


 彼が、両腕を伸ばしてきた。


 私は縋り付くように、その広い胸に飛び込んだ。


 骨が軋むほどの力で抱きしめられる。


 少し硬い金糸のような彼の髪が頬に触れ、いつものムスクと、彼自身の清潔な体温の匂いが鼻腔を埋め尽くした。


 狂いそうだった。


 この匂いも、この腕の強さも、心臓の音も、明日からはもう、私の世界から完全に消滅するのだ。


「行かないで」と言えばいい。


「私も連れてって」と泣き喚けばいい。


 でも、そんなことはできない。


 してはいけない。


 私たちは、大人になりすぎた。


「……カズハ」


 私を抱きしめる彼の腕が、小刻みに、しかし明確に震えていた。


 肩口に、ボタボタと熱い雫が落ちてくる。


 スーツを完璧に着こなし、どんなトラブルにも冷徹に対処してきた氷のプロジェクトマネージャー。


 彼が今、公衆の面前で、子どものようにしゃくりあげて泣いている。


「僕たちは……」


 耳元で、掠れた声が震えた。


「僕たちはどうして、違う国に生まれてきてしまったんだろう」


 血を吐くような、痛切な響きだった。


 彼が発したその言葉は、鋭いナイフとなって私の心臓を真っ二つに切り裂いた。


 私も、声を上げて泣きたかった。


 違う国。違う言葉。違うパスポート。


 たったそれだけのことが、どうして私たちに『別れ』という暴力として降りかかるのか。


 愛しているという感情だけでは、世界は一ミリも動いてくれない。


 彼には彼の国での果たすべき圧倒的な責任とキャリアがあり、私にはこの国で這いつくばって築き上げてきた私の人生がある。


「……愛してるよ、カズハ。君なしで、どうやって生きていけばいいのかわからない」


 壊れそうな声で囁く彼を、私はただ、力一杯抱きしめ返すことしかできなかった。


「私も愛してる。ルーカス、あなただけを愛してる」


 喉の奥から血の味がした。


 愛しているのに、手放す。


 そんな残酷な選択をしたのは、他の誰でもない、私自身だった。


 彼はゆっくりと体を離し、ひどく赤くなった瞳で私を見つめ、そして、私の唇に深く、痛いほどのキスを落とした。


 それが最後だった。


 彼はスーツケースのハンドルを握り、振り返らずに搭乗ゲートへと歩き出した。


 振り返れば、決心が鈍るから。


 人ごみの中に彼の長身が紛れ、完全に視界から消えた瞬間。


 私はその場にへたり込み、人目も何もかも忘れて、声を上げて泣き崩れた。


 行き場のない絶望と、私が下した決断の重さが、津波のように押し寄せてきていた。


 ――どうして私たちは、一緒にいられないのか。


 その答えは、半年前に遡る。




 ◇◆◇




 私、小山内和葉(おさないかずは)が、ルーカス・シュナイダーと出会ったのは昨年の初夏。


 彼がドイツ本社から一年間の期限付きで、技術提携のプロジェクトマネージャーとして日本へ出向してきた時のことだ。


 最初の数ヶ月、彼はまさに『冷徹な仕事の機械』だった。


 日本の忖度や根回しを一切無視し、論理と効率だけでチームを回す。


 反発する者も多かったが、彼の圧倒的な有能さと、誰よりも泥臭く現場に出る姿勢に、少しずつ周囲も彼を認め始めていた。


 プロジェクトの進行サポートとして、毎日彼の隣にいた私も例外ではなかった。


 彼の厳しさの裏にある、不器用なほどの誠実さに気づいてしまった。


 そして彼もまた、はっきりと意見をぶつける私に対してだけ、少しずつ素顔を見せるようになった。


 私たちが恋に落ちるのは、ある意味で必然だったのかもしれない。


 彼と過ごす時間は、熱病のようだった。


 冬には私のマンションで半同棲を始め、言葉の壁を越えるために夜通し辞書を引き合いながら語り明かした。


 彼は信じられないほど優しく、私を愛してくれた。


 ベッドの中で私を抱きしめる彼の腕の中だけが、世界の全てだと思えるほどに。


 しかし、年が明け、三月に入ったある夜。


 破滅へのカウントダウンは、彼の口から告げられた。


「予定通り、三月末でプロジェクトは完了。四月の第一週にドイツに戻るように、と辞令が出た」


 暗い寝室。


 時計の秒針の音だけが、不気味に響いていた。


 わかっていた。


 最初からわかっていたことだ。


 それでも、私の心臓は嫌な音を立てて冷え切った。


「……そう、なんだね」


 私が平静を装って答えると、彼は私の顎を持ち上げ、暗闇の中で強い視線を絡ませてきた。


「カズハ。私と一緒に、ドイツに来てくれないか」


 プロポーズだった。


「結婚しよう。そして、私と一緒に生きてほしい。君なしの人生なんて、もう考えられないんだ」


 愛する人からの、何よりも欲しい言葉。


 テンプレ通りの恋愛小説なら、ここで涙を流して「はい」と答え、ハッピーエンドを迎えるのだろう。


 だが、現実は違った。


 歓喜よりも先に、圧倒的な『恐怖』と『絶望』が私の首を絞め上げたのだ。


「……ドイツに、行く?」


 私の声は、ひどく冷たかったと思う。


「そうだよ。君なら、向こうでもきっと……」


「ドイツ語も話せない私が?」


 私が遮るように言うと、彼はハッとして言葉を止めた。


「ルーカス。私は三十歳よ。この会社で、血反吐を吐きながら八年間キャリアを積んできた。やっとマネージャーへの昇進が見えてきたところなの」


 言葉が、止まらなかった。


 自分でも驚くほど、冷酷な言葉が口から溢れ出た。


「それを全部捨てて、言葉も通じない、文化も違う国に飛び込めと? そこで私は何になるの? 『ルーカス・シュナイダーの妻』という、あなたの付属物になるしかないじゃない……!」


 彼が息を呑むのがわかった。


「……そんなふうには思っていない。私はただ、君と一緒にいたいだけだ。君の人生を奪うつもりなんて……」


「結果的に奪うことになる……!!」


 私は思わず叫んでいた。


 彼を傷つけているとわかっているのに、止められなかった。


「あっちに行けば、私は一人じゃスーパーで買い物もまともにできないかもしれない……。仕事だって、ドイツ語がネイティブレベルじゃない外国人に、今までみたいな裁量のある仕事ができるわけがない! 私は、あなたに養われるだけの、無力なお荷物になるしかなくなる!」


 それは、国際恋愛の綺麗事の裏に潜む、最も醜悪で、最もリアルな現実だった。


『愛があればどこへでも行ける』なんて、嘘だ。


 子供じみた御伽噺だ。


 愛があるからこそ、対等でいたいのだ。


 愛しているからこそ、彼の足手まといになりたくなかったし、何より、何もできなくなっていく自分を彼に見られたくなかった。


 彼の前では、有能で、自立した『小山内和葉』でありたかった。


「カズハ……」


 彼は傷ついた顔で、伸ばしかけた手を宙で止めた。


「私は、君をそんなふうに扱わない。絶対に……」


「わかってる。ルーカスが優しいのはわかってる。でも、社会は違う。現実は違うのよ」


 私はベッドから起き上がり、彼に背を向けた。


 涙がとめどなく溢れていた。


「……ごめんなさい。私は、あなたと一緒にドイツには行けない」


 それが、私の出した答えだった。


 彼を誰よりも愛していた。


 でも、彼のために『私自身』を殺すことはできなかった。


 その夜から、私たちの間には決定的な亀裂が入った。


 彼が日本を発つまでの最後の一ヶ月は、まるで地獄だった。


 同じベッドで眠っていても、お互いに触れることはなくなった。


 触れてしまえば、決心が揺らぐからだ。


 彼は何度も説得しようとしてくれたが、その度に私は拒絶し、互いに傷つけ合った。


「君の仕事に対する誇りは理解する。だが、私たちの関係はそれ以下のものだったのか?」


 ある夜、彼が感情を抑えきれずにそう言った。


「違う! そういうことじゃないの!」


「ではどういうことだ! 国が違うから? 言葉が違うから? そんなものは、二人で乗り越えられるだろう!」


「乗り越えられないから言ってるのよ! あなたは優秀だからわからない。何もできない無能として扱われる恐怖が……!」


 私たちは泣きながら怒鳴り合い、そして絶望的な徒労感に包まれて沈黙する。


 その繰り返しだった。


 愛は確実にそこにあるのに、環境と国籍という壁が、私たちを少しずつ狂わせていった。


 そして、あの日。


 彼が荷物をまとめ、私のマンションを出て行く朝。


 玄関で靴を履く彼の背中は、出会った頃よりもずっと小さく見えた。


「……短い間だったけど、ありがとう。君と過ごした日々は、私の人生で最も美しい時間だった」


 振り向いた彼の顔は、疲れ果てていた。


「私も……ありがとう、ルーカス」


 お互いに、それ以上言葉を紡ぐことはできなかった。


 そのまま彼はタクシーに乗り込み、私は彼を空港まで見送った。


 それが、冒頭のシーンだ。


 空港での、あの痛切な別れ。


『僕たちはどうして、違う国に生まれてきてしまったんだろう』


 彼のあの言葉は、国籍の壁だけでなく、私という人間の『弱さ』に対する、絶望の言葉でもあったのだ。




 ◇◆◇




 彼がドイツへ帰国してから、半年が過ぎた。


 季節は秋を迎えようとしていた。


 私の生活は、彼に出会う前の、ただひたすらに仕事に没頭する日々に完全に戻っていた。


 念願だったマネージャー職への昇進も果たし、部下も増えた。


 傍から見れば、順風満帆なキャリアウーマンだろう。


 だが、私の心の中は、すっぽりと大きな穴が空いたままだった。


 家に帰れば、彼が立っていたキッチンの景色が蘇る。


 ソファに座れば、彼が淹れてくれたホットワインの香りを思い出す。


 テレビから流れる外国のニュースで金髪の男性を見るだけで、心臓が痛む。


 連絡は、一切取っていなかった。


 未練を断ち切るために、彼の連絡先もSNSも、すべて見ないようにしていた。


 これでよかったのだと、自分に言い聞かせ続けた。


 私はキャリアを守った。


 アイデンティティを守った。


 誰の付属物でもない、私自身の人生を歩んでいる。


 ――なのに、どうしてこんなにも、息が苦しいのだろう。



 ◇◆◇



 十月の終わり。


 会社で大きなプロジェクトの打ち上げがあった夜。


 少し飲みすぎてしまった私は、ふらつく足取りで誰もいないマンションの部屋に帰ってきた。


 暗い部屋の電気をつける。


 シンと静まり返った無機質な空間。


 ドサリとソファに倒れ込み、天井を見上げた。


「……ルーカス」


 半年間、ずっと口にすることを禁じていた名前が、不意に唇からこぼれ落ちた。


 途端に、ダムが決壊したように涙が溢れてきた。


 痛い。


 胸の奥が、息ができないほどに痛い。


 キャリア? アイデンティティ?


 そんなもの、彼を失った痛みを誤魔化すための、ただの言い訳に過ぎなかった。


 本当はわかっていた。


 言葉の壁も、キャリアの喪失も、確かに怖い。


 でも、何よりも怖かったのは『変わっていく自分』を受け入れることだった。


 小山内和葉という、仕事しか取り柄のない人間の価値観が、彼によって根底から覆されてしまうのが恐ろしかったのだ。


 彼がいれば、仕事が最優先ではなくなる。


 彼のために生きたいと思ってしまう自分が、怖かった。


 だから、私は彼を拒絶し、自分を守るために彼を切り捨てた。


「最低だ……私……」


 声を上げて泣いた。


 彼を傷つけ、愛する人を手放してまで手に入れた『今の生活』に、果たしてどれほどの価値があるというのか。


 彼が泣きながら放った「違う国に生まれてきてしまったんだろう」という言葉が、呪いのように耳にこびりついて離れない。


 違う。


 生まれた国が違うから別れたんじゃない。


 私が、飛び込む勇気を持てなかったからだ。


 泣きじゃくりながら、私は無意識にスマートフォンを手に取っていた。


 連絡先一覧から、ずっと見ないようにしていた彼の名前を探す。


『Lucas Schneider』


 指が震えた。


 今更、何を言うつもりなのか。


 彼にもう新しい恋人がいたら?


 私を軽蔑していたら?


 それでも、止められなかった。


 日本の時刻は、深夜二時。


 ドイツとの時差は七時間。あちらはまだ、夜の七時頃のはずだ。


 発信ボタンを、押した。


 コール音が鳴る。


 一回、二回、三回。


 出ない。


 やっぱりダメか、と諦めかけたその時。


「……カズハ?」


 電話の向こうから、信じられないほど愛しくて、半年間一日たりとも忘れたことのなかった声が聞こえた。


 少しだけ掠れた、あの落ち着いた低い声。


 その響きを聞いた瞬間、私の喉から醜い嗚咽が漏れた。


「……ごめんなさい」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆いながら、私は喘ぐように言った。


「ごめんなさい、私……バカだった……」


 受話器の向こうで、彼が息を呑む気配がした。


「カズハ。泣いているのか? どうした? 何があった?」


 焦ったような彼の声が、私をさらに泣かせた。


 半年も音信不通で、あんなにも彼を傷つけて突き放した最低な女なのに。


 彼はどうして、今でもそんなに優しい声を出せるのだろう。


「怖かったの……」


 私は、アルコールと涙の勢いに任せて、今までずっと心の奥底に隠し通してきた醜い本音を吐き出し始めた。


「仕事がなくなるのが、怖かった……。あなたに依存して、何もできない自分になるのが、本当に怖かったの」


「カズハ……」


「でも、あなたがいない人生は、もっと怖かった……!」


 叫んでいた。


 喉がちぎれるくらい、痛切な声だったと思う。


「昇進しても、部下ができても、ちっとも嬉しくない! 家に帰っても誰もいなくて、あなたが淹れてくれたコーヒーの匂いもなくて……。私、自分の人生を守ったつもりで、一番大切なものを捨ててた!」


 鼻水も涙も止まらなかった。


 キャリアウーマンとしてのプライドなんて、もうどうでもよかった。


「言葉が通じなくても、仕事がなくても……私、あなたに会いたい。もう一度、会いたいよ……」


 静寂が落ちた。


 電話越しに、彼の少し荒くなった呼吸の音だけが聞こえる。


 身勝手すぎる。


 今更になって都合よく「やっぱり会いたい」だなんて、彼が受け入れてくれるはずがない。


『もう遅い』と、冷たい声で突き放される覚悟をした。


「……君は、本当にずるいな」


 やがて聞こえてきたのは、怒りでも冷ややかな拒絶でもなかった。


 ひどく優しい、泣き笑いのような声だった。


「半年だぞ。私がどれだけ、君からの連絡を待っていたと思っているんだ」


「ルーカス……」


「ドイツに戻ってからの私は、まるで機械だった。君を忘れるために、狂ったように仕事だけを詰め込んだ。だが、どんなに成果を上げても、どんなに周りから評価されても、私の心はずっと死んだままだったんだ」


 彼の声も、微かに震えていた。


「君が私を拒絶した理由なんて、痛いほどわかっていた。君は誰よりも誇り高く、仕事に情熱を持っていたから。だから、私は君の決断を尊重するしかなかった。……でも、君が泣きながらそんな本音をぶつけてくれるなら」


 大きく息を吸い込む音が聞こえた。


「私が、君を諦める理由なんてどこにもない」


 胸の奥の重たい氷が、一気に溶け出していく感覚があった。


「カズハ。君がすべてを捨ててこちらへ来る恐怖は、私が一生かけて拭い去る。だから……」


「違うの」


 私は、彼の言葉を遮った。


「え?」


「私、すべてを捨てる気はないの」


 涙を手の甲で乱暴に拭いながら、私はソファから身を起こした。


 心臓が、今までで一番強く、熱く拍動している。


「私はあなたを愛してる。でも、あなたの『付属物』にはならない」


 電話の向こうで、彼が戸惑う気配が伝わってきた。


「私は、私のキャリアを自分の手で切り開いて、あなたと同じ国に立つ。あなたの隣に、対等なパートナーとして胸を張って立つために、私はそっちへ行く」


 それは、ただの強がりでも、酔っ払いの戯言でもなかった。


 私の中で、長年培ってきた『仕事への執着』が、彼への『愛』と完全に融合した瞬間だった。


「だから……待っててくれる? 必ず、あなたのところへ行くから」


 沈黙の後。


 受話器の向こうから、彼が低く、しかし心底嬉しそうに笑う声が聞こえた。


「ああ。わかった」


 その声には、私が愛した、あの冷徹で有能なプロジェクトマネージャーの響きが微かに混じっていた。


「私の誇り高い恋人が、最高の形でドイツに降り立てるように、私も準備をしておこう」


「……うん」


「愛しているよ、カズハ。心から」


「私も。……私もだよ、ルーカス」


 電話を切った後、私は久しぶりに、深く、安心した眠りについた。


 ◇


 翌日から、私の長くて過酷な戦いが始まった。


 目標はただ一つ。


『自社からドイツ本社(ルーカスのいる提携先)への、技術・営業ブリッジを目的とした【出向制度】を新設し、その第一号枠を実力で勝ち取ること』だ。


 これまで、我が社から海外の提携先へ長期間出向した前例はなかった。


 ましてや、それが女性社員となれば、社内の保守的な層からの反発は火を見るより明らかだ。


 だからこそ、誰も文句を言えない圧倒的な『実績』と『語学力』が必要だった。


 私は死に物狂いでドイツ語とビジネス英語の勉強を始めた。


 通勤電車の中、昼休み、帰宅後の深夜。


 睡眠時間を削り、狂ったように単語帳とポッドキャストにかじりついた。


 休日は語学学校に詰め込みで通い、ネイティブとの会話レッスンをひたすらこなした。


 三十歳を過ぎてからのゼロからの語学学習は、想像を絶する苦痛だった。


 何度やっても覚えられない名詞の性別や複雑な文法に、深夜のデスクで一人、悔し涙を流したことは数え切れない。


 彼には、毎週末だけビデオ通話で連絡を取った。


「目の下にひどいクマができているよ。あまり無理をしないで」


 画面越しの彼が、心配そうに眉を下げる。


「大丈夫。私、今すごく生きてるって感じがするから」


「君が有能なのは知っているが、一人で抱え込みすぎるのは悪い癖だ。ドイツ語のネイティブな言い回しや、本社側の受け入れ態勢の整備は、私がこっちで完璧に根回ししておく」


 彼はそう言って、文字通り私を全面的にバックアップしてくれた。


 離れていても、私たちは一つのプロジェクトに向かって共に走る、最強のチームだった。


 彼と仕事の話をし、送られてきたドイツ語の資料について議論を交わしている時間が、たまらなく愛おしかった。


 私は一人じゃない。


 彼が、私の背中を守ってくれている。


 そう思うだけで、どんな無茶なスケジュールも、先の見えない不安も乗り越えられた。


 季節が巡り、彼と別れてから一年という月日が流れても、私の中の炎は少しも消えることはなかった。


 通常業務で前年比150%という圧倒的な営業成績を叩き出しながら、私は水面下で役員たちへの根回しを続けた。


 そして、彼とのあの電話から一年半後。


 ついに、役員会議での最終プレゼンの日がやってきた。


 長机の向こうに並ぶのは、白髪交じりの保守的な役員たち。


「……小山内くん。君の提出した『グローバルブリッジ人材出向制度』の案は読んだ。確かに、先方との連携強化は急務だ」


 専務が、重々しい口調で口を開く。


「だが、第一号として君自身が行くというのは、いかがなものか。君はまだ若い女性だ。現地の厳しいビジネス環境で、単身でやっていける保証はどこにある?」


 案の定、『女性だから』『前例がないから』という理由で難色を示してきた。


 一年前の私なら、ここで言葉に詰まり、悔しさに唇を噛むしかなかっただろう。


 だが、今の私は違う。


「専務。ビジネスにおいて重要なのは、性別でも前例でもありません」


 私は背筋を伸ばし、かつてルーカスが私に見せた、あの冷徹なまでの自信を纏って役員たちを見据えた。


「確実な『ファクト』と『論理』です」


 私は手元の資料をスクリーンに映し出した。


「過去一年半、私が担当した欧州向け部品の売上推移と、先方との交渉プロセスにおいて言語や文化の壁がもたらしたタイムロスの試算データです。私が現地に入り、ダイレクトに調整を行うことで、年間で約二ヶ月のリードタイム短縮と、数億円規模のコスト削減が見込めます」


 役員たちが、データを見て少しだけ眉を動かした。


「さらに、私はこの一年半で、ビジネスレベルのドイツ語能力試験に合格しています。先方のプロジェクトマネージャーであるシュナイダー氏からも、私の出向受け入れに際しての強い推薦状を取り付けております」


 私は、ルーカスがこの日のために書き上げてくれた、完璧な推薦状のコピーを机に並べた。


「私には、実績も、語学力も、先方とのパイプもあります。私が適任でないという合理的な理由があるなら、ファクトに基づいた反証をお願いいたします」


 会議室は、水を打ったように静まり返った。


 誰も反論できなかった。


 私が積み上げてきた一年半の執念と努力の結晶が、彼らの古い価値観を完全にねじ伏せた瞬間だった。


 長い沈黙の後、社長が小さく息を吐き、そして、ゆっくりと頷いた。


「……わかった。そこまで言うなら、結果で証明してみせなさい。四月一日付で、ドイツ本社への二年間の出向を命じる」


「はい。必ず、結果を出します」


 深く頭を下げた私の目から、安堵と歓喜の涙がこぼれ落ちそうになった。


 勝ったのだ。


 私は、愛する人を手放すことなく、自分自身の誇りとキャリアも守り抜く切符を、自分の力で手に入れたのだ。


 会議室を出てすぐ、トイレの個室に駆け込み、震える手で彼にメッセージを送った。


『決まったよ。私、そっちに行く』


 十秒も経たずに、彼から電話がかかってきた。


『本当か!?』


 仕事中のはずの彼が、周囲の目も気にせず、電話口で大きな声を上げているのがわかった。


「うん。四月からの赴任になる。……ルーカス、私、やったよ」


『ああ……! ああ、君なら絶対にやり遂げると信じていた! 君は世界で一番素晴らしい女性だ!』


 彼が電話の向こうで、感極まって言葉を詰まらせているのがわかった。


『愛している。早く、一秒でも早く君を抱きしめたい』


「私も。……春に、会いに行くね」


 その日から、就労ビザの申請や引き継ぎ、引っ越しの準備で、私は文字通り目の回るような忙しさだった。


 けれど、疲労感は全くなかった。


 手続きの書類に並ぶドイツ語の文字が、私を彼の元へ導く確かな道標のように輝いて見えた。


『愛があればどこへでも行ける』なんて、やっぱり嘘だ。


 愛だけじゃ、パスポートもビザも手に入らない。


 圧倒的な努力と、現実をねじ伏せるだけの実力があって初めて、私たちは国境という壁を越えることができるのだ。




 ◇◆◇




 そして、現在。


 あの日、彼を見送って泣き崩れてから、ちょうど丸二年が経った、三月半ば。


 私は、見慣れたシルバーのスーツケースのハンドルをしっかりと握りしめていた。


 場所は、日本の空港ではない。


 十二時間の過酷なフライトを終え、フランクフルト国際空港の到着ロビーへと続く自動ドアの前に立っていた。


 まだ肌寒い空気が、私のコートの襟元をすり抜けていく。


 一歩踏み出すごとに、足が震えた。


 自動ドアが、ゆっくりと開く。


 大勢の人ごみの中を、私の目は無意識に探していた。


 そして。


「……カズハ!」


 周囲の人々よりも頭一つ抜けた長身。


 少しだけラフな私服姿の彼が、そこにあった。


 手には、不器用な彼らしくない、少し不格好な春の花束が握られていた。


「ルーカス……!」


 私はスーツケースから手を離し、全速力で彼に向かって駆け出した。


 彼もまた花束を放り出し、私を受け止めるために両腕を大きく広げた。


 衝撃と共に、彼の広い胸に飛び込む。


 骨が軋むほどの強い力で抱きしめられた。


「カズハ……カズハ……!」


 私の髪に顔を埋め、彼が何度も私の名前を呼ぶ。


「会いたかった……! ずっと、ずっと会いたかった!」


 私は彼の背中に腕を回し、人目も憚らずに声を上げて泣いた。


 彼も泣いていた。


 肩口に落ちる熱い涙が、私たちが乗り越えてきた途方もない時間の重さを物語っていた。


「よく来たね。私の、誇り高く勇敢な人」


 彼がゆっくりと体を離し、真っ赤な目で私を見つめ、ひどく優しく微笑んだ。


「ようこそ、ドイツへ」


 その声を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、完全にほどけていくのを感じた。


 あの日、彼は絶望の中で泣きながら言った。


『僕たちはどうして、違う国に生まれてきてしまったんだろう』と。


 その答えを、私は今ならはっきりと口にできる。


「違う国に生まれたのはね、ルーカス」


 私が涙で濡れた顔を上げて彼に微笑みかけると、彼は不思議そうに目を瞬いた。


「こうやって、壁を乗り越えて、あなたともう一度巡り会うためだったんだよ」


 彼が、ハッと息を呑んだ。


 そして、信じられないほど愛おしいものを見るような目で私を見つめると、今度は優しく、宝物に触れるようなキスを落とした。


「……ああ。君の言う通りだ」


 彼が、私の額に自分の額を擦り合わせた。


「違う国に生まれた僕たちは、今日、同じ国で対等に生きていくことを選んだ」


 窓の外では、ドイツの少し遅い春の陽射しが、空港のガラス越しに私たちを優しく照らしていた。


 私たちの物語は、ここからまた新しく始まる。


 もう、何が来ても怖くない。


 私たちは、パスポートの色や、言語の壁や、自分自身の弱さすらもねじ伏せて、ここへ辿り着いたのだから。


 愛しているという感情だけでは、現実は変えられない。


 だけど、愛しているという感情がなければ、現実と戦う強さは手に入らなかった。


「さあ、帰ろうか。今日から始まる、私たちの新しい家へ」


 彼が私の手を強く握り、私のスーツケースのハンドルを引いた。


「うん。帰ろう」


 繋いだ手から伝わる温もりは、これから始まる新しい国での日々を共に歩んでいくための、確かな熱を持っていた。


 愛だけでは、海を渡れない。


 私は、私の力で海を渡ったんだ。


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