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断鉄の福音

作者: 邑沢 迅
掲載日:2026/02/26

■プロローグ


 万物の神エリュシオンが、混沌の海に一滴の光を落として創り上げた加護の地――エリュシア。

 この美しい場所には、物語の頁をめくるように正確な、そして残酷な周期が存在する。


 ――百年。


 それが、魔界の蓋が開き、災厄の具現たる「魔王」がこの世に現出する周期。

 星歴934年。八度目の鐘が鳴り響いたとき、人々は震え、そして救いを求めて祈った。

 絶望の隣には、必ず「勇者」という名の光が寄り添うことを、彼らは知っていた。


 ――そして星歴940年。

 今、一つの歴史が幕を閉じようとしていた。



■第一章 英雄たちの帰還


 重苦しく立ち込める紫煙と、鉄錆の匂い。

 足元には、かつて世界を絶望させた魔王の残骸が転がっている。


「終わった……んですね、これで……」


 魔界の玉座に冷徹な静寂が戻った瞬間、最初に出たのはそんな呆気ない言葉だった。

 神官ベネディクトが、銀髪を汗で張り付かせ、陶器のような肌を震わせて呟いた。

 十歳にして上位の奇跡を顕現させた「神童」である彼だが、今はその聖印から光すら消えている。

 極度の潔癖症で、普段なら「不潔だ」と毒を吐くはずの彼が、今はその汚れた床に膝をついて祈りを捧げていた。


「そうだね、ベネディクト。僕たちは、神託の通りに世界を救ったようだ」


 その中心で、勇者ジークが軽やかな足取りで歩み寄る。

 ブロンドの髪は一房の乱れもなく、その垂れ目の優しい貌には、仲間を慈しむような暖かな笑みが浮かんでいた。

 流麗な剣技と絶大な魔力に加え、もはや誰もが信じたくなる圧倒的なカリスマ。

 彼は正に、絵に描いたような勇者だった。


「当然の結果ね。私の魔力が、あの化け物を上回った。それだけのこと」


 魔導士イザベラが、煤けた黒髪を弄りながら傲慢に笑う。

 幾多の禁忌に触れ、魔導士協会を騒がせ続けてきた異端児。

 その手は魔法の反動で赤く腫れ上がっているが、その目はまだ知識への渇望にギラついている。


「はぁっ、はぁっ……やっとか。これで金と名声が、山のように降ってくるんだな……!」


 狩人ヴェインが、長髪を雑に掻き揚げながら、魔王の指から剥ぎ取った指輪を放り投げた。

 その吊り上がった目はすでに王都での酒宴を幻視しているようだった。


 そんな喧騒を、私、レオーネは重い戦斧を杖代わりにしながら、ただ黙って見つめていた。

 左側頭部を刈り込んだ短い髪に、返り血で汚れた頬。

 全身を支配するのは、甘美なまでの疲労。


(……やっと、帰れる)


 私の脳裏に浮かぶのは、故郷で待つ妹ミアの柔らかな笑顔だ。

 

『姉さん、クッキーを焼いたの。一緒に食べよう?』


 おっとりしたあの子の声。

 七代目勇者の戦士だった祖父の斧を受け継ぎ、独自の魔法を編み出したのは、ただあのささやかな日常を守るため。


「レオーネ、君のおかげだよ。君が前線で耐えてくれなければ、僕らはここにはいなかった」


 ジークが隣に来て、私の肩に優しく手を置いた。

「……よせよ、ジーク。私は、みんなを……世界を守りたかっただけだ」


 その掌の温度は、驚くほどに低かった。


「さあ、帰ろうか」


 ジークの号令に、仲間たちが笑顔で応える。

 毒づく神官、尊大な魔導士、獲物を自慢する狩人。

 四年の歳月を共に生き、死線を越えてきた最高の仲間。


 この絆こそ、何物にも代えがたい「奇跡」なのだと。

 私たちはこの平和を、享受できるのだと。


 あの時の私は、……微塵も疑ってなどいなかったのだ。



■第二章 凱旋


 王都エリュシアに帰り着いた私たちを待っていたのは、空を割らんばかりの歓声と、降り注ぐ花の雨だった。


「勇者様だ!」「英雄たちが帰ってきたぞ!」


 通りを埋め尽くす群衆の熱気に、私は気圧されそうになる。

 四年前、旅立った時は見向きもされなかった。それが今では、歩くたびに地面が揺れるほどの賞賛を浴びている。


「ヴェイン様!私を射貫いて!」「あの魔眼に見つめられたら、私…」

「おいおい、見てろよ。あの娘たちの熱い視線……これだよ、これ」

 ヴェインは上機嫌で手を振り、時には投げキッスまで飛ばしている。

 五十路を越え、深い皺と無数の傷跡にこれまでの場数を感じさせる老将。

 狙撃において右に出る者はいない「深緑の魔眼」の異名を持つが、その実力の全てを、彼はただ「勇者一行」という黄金の看板を手に入れるために費やしてきたのだ。


 一方で、ベネディクトは顔を顰め、聖印を強く握りしめていた。

「おお、神よ…!」「彼が…"福音の執行者"…神が彼をこの世に与えたもうたのだ…」

「……不潔だ。熱狂とは、理性を失った獣の咆哮に他ならない。鼻が曲がりそうだ」


 弱冠二十歳にして教会の頂点の一角を伺う「福音の執行者」。

 神の力を借り受ける『奇跡』においては、教会でも右に出る者はいない。

 「福音の執行官」という大層な二つ名は、彼がわずか十歳で上位の奇跡を顕現させたという神童ゆえのもの。

 魔法が個人の才による『発現』なら、奇跡は信仰心による『降臨』。


 若き神官が操るその清浄な盾に、私たちは何度救われたことだろう。

 だが、俗世の熱狂は彼にとっては信仰を妨げる雑音に過ぎない。


「そうだね。けれど、彼らにとってはこれが唯一の救済なんだ」


 "神託の極光"、勇者ジークは眩しいほどの笑みを振りまき、人々に優しく応えていく。

 胎児の時から神により神託を授けられ、国家と教会によって「魔殺しの部品」として完璧に研磨されてきた背景を知る者は少ない。

 その優しげな貌すらも、彼にとっては勇者という役割を果たすための「装備」に過ぎないのかもしれない。


「あれが、異端児イザベラ…」「"真理の指先"だ…目が合うと吹き飛ばされるぞ…」

 魔導士イザベラはといえば、周囲にさっぱり興味がなさそうに、懐の禁書を撫でていた。

「……うるさい。こんな雑音より、魔力理論の方がよっぽど情緒がある」


 一級、特級をはるかに凌駕し、魔導士協会から半分放り出されるように旅に加わった異端の天才。彼女にとって世界を救うことすら知的な遊戯の一つでしかなかった。


 魔導士協会。

 来るべき魔王の脅威に対抗すべく、国中の才ある者を集めて管理する巨大な組織だ。

 見習いから始まり、大多数が留まる二級、一国の軍事力に匹敵する一級。そして、歴史に名を残すレベルの特級。

 実力が物を言う環境において、わずか一年で頂点へと駆け上がり、退屈のあまり師を二人も叩きのめして「追放」された彼女は、協会の歴史上、最も触れてはならない異端児だった。


「お母さん!レオーネ様だ!」「"不倒の咆哮"だ!」

 黄色い悲鳴を上げる少女たちの声に、私はどう応えていいかわからず、戦斧の柄をぎゅっと握り直した。

 二十四歳。戦士として最も脂の乗った時期とはいえ、これまで凡庸な自分を嫌ってきたから、こうした称賛にはまだ気恥ずかしさが勝る。


 降り注ぐ花の雨を眺めながら、私は己の内に流れる熱を意識した。

 魔法――それは、己の内に眠る魔力を、個人の才覚のみで事象へと変換する技術だ。

 イザベラのように空中から爆発や氷塊を生み出すのが王道なら、私の『不倒』は、その魔力を血管の隅々まで流し込み、肉体そのものを武具へと作り変える外法。

 どちらも己の才を世界に叩きつける行為であることに、違いはない。


 身を削り、泥を啜って辿り着いた果てが、この花の雨なのだとしたら。


 ……少しだけ報われたような気がして、私は側頭部の刈り込みを無骨に指で掻いた。


ーーーー


 王城の玉座の間。私たちは国王からこれ以上ないほどの手厚い褒賞を授かった。

 山と積まれた金貨、栄誉を称える勲章。


 ヴェインは下卑た笑みを堪えきれず、ベネディクトは恭しく頭を下げた。

 私はといえば、渡された金貨の袋を重く感じながら、これでミアにどれだけ美味しいものを食べさせてやれるかを考えていた。

 

「ジーク、"神託の極光"よ。奇跡の才はなくとも、君の剣技と魔法はもはや神の領域だ。奇跡を顕現できた歴代の勇者たちでさえ、君には敵うまい」

 

 自らの魔力のみで理に干渉し、地獄の業火すら現出させるジークの『魔法』。

 対して、敬虔な信徒のみが神から貸し与えられる守護の『奇跡』。

 神の力を必要とせず、ただ己の才のみで魔王を屠った彼は、ある意味で神の加護を必要としない……神から最も遠い存在でもあった。

 

 国王の称賛に対し、勇者ジークは、いつものように完璧な笑みで応えた。

「勿体なきお言葉。我らは成すべきを成した、ただ、それだけです」

 

 そんなやり取りを前にイザベラは、国王の言葉さえ退屈そうに聞き流していた。


ーーーー


 王城の玉座。国王から手厚い褒賞を授かった後、廊下で私たちは足を止めた。


「レオーネ、ようやくその肩書きに中身が追いついたなァ」

 ヴェインがからかうように肩を叩く。祖父の名に恥じない功績を、ようやく打ち立てた実感があった。

 

「そうだな…。それよりも今は、早く帰ってあの子と食事を楽しみたいよ」

「故郷に帰るのか、お前らしいな。俺ァまず酒、女だ」

「その単純な思考が羨ましいわ」

 イザベラが憐憫を含んだ表情で嘲笑する。

 

「皆はこれからどうするんだ?」

 私は皆を見渡しながら切り出した。


「俺は王都一番の酒場を一週間貸し切りだ!」

「僕は教会へ。この旅で穢れきった心身の浄化が必要です」

「愚問ね、塔よ。この禁書の解読、楽しみで仕方ない…」


 ジークだけが、少し離れた場所で沈黙していた。

 

「ジーク、君は?」

「僕はしばらく城に残るよ。王への報告もまだまだ残っているし、……少し疲れも溜まっているようだ。静養というやつさ」

 穏やかな微笑みを私に向ける。


「そうか、それじゃあ、皆、また」


 戦友たちはそれぞれの目的へ向かって歩き出す。

 夕陽に染まる城門を抜ける。早く、この旅をあの子に聞かせてあげたい。



■第三章 悪夢


 ひどく嫌な汗をかいていた。

 意識が浮上する。だが、鉛のように重い瞼が開かない。鈍い痛みがズキズキと脳漿をかき乱している。


「……っ、……」


 声を出そうとして、喉が焼けるように痛むことに気づいた。

 ようやく開いた視界に飛び込んできたのは、見知らぬ木造の天井だった。旅の宿のものとも、ましてや故郷の我が家のものとも違う。


 身体を起こそうとした瞬間、脇腹に電撃のような激痛が走った。

「あ……ぐっ……!」

 思わず傷口を押さえる。手触りで、そこに丁寧に清潔な包帯が巻かれていることがわかった。

 その包帯を、震える指で少しだけ解いてみる。

 

(……刺された……のか?)


 そこには、深く、どす黒く変色した刺し穴があった。普通の刃物ではない。

 魔力を阻害し、傷口を腐食させる「呪い」の気配がそこにはこびりついていた。


「お目覚めのようね」


 部屋の奥から、木靴の音と共に一人の女性が現れた。盆の上に湯気の立つ飲み物を乗せている。

「……ここは……?」

「森で大怪我をして倒れていたあなたを、うちの人と息子が助けたのよ。ひどい有様だったわ。……ちょうど、高名な神官様が村に立ち寄られていたのが幸いだったわね。その方の『奇跡』がなければ、あなたは今頃」

「そう……か……。ありがとう……」


 差し出された飲み物を口に含み、喉を潤す。

 温かい液体が染み渡るにつれ、もやのかかっていた記憶の断片が、鋭い刃となって胸に突き刺さり始めた。


 ――そうだ。私は、帰る途中だった。


 王都を立ち、故郷の村へと急いでいた。その途上、立ち寄ったはずだ。

 魔族の残党に襲われ、疲弊していた名もなき村に。

 

『英雄様ではないですか! お願いです、助けてください!』


 困っている人々の悲痛な叫びを無視するほど、私は奢ってはいない。

 

ーーーー

 

 村人に言われた現場に着くと、そこに居たのは上級の魔族とその眷属たち。

 近隣の村を標的に、群れを成して襲撃する、その前触れを感じ取った。

 

(なぜこんなところに…?)


「まあいい、まとめてかかってこい。私が"不倒の咆哮"だ!」

 

 私は大声を出し、注目を集める。

 魔族は私に気づくと、ガァ、と汚らしい雄たけびを上げ、私に襲い掛かる。

 

「はぁッ!」


 魔力を全身に巡らせ、斧を一振り。二振り。

 汚れた断末魔を上げ、魔族たちは一様に肉塊へと姿を変えていく。

 曲がりなりにも英雄と呼ばれた今の私には容易いことだった。


ーーーー


『ありがとうございます…ほんのお礼です。宿を用意しましたので。是非一晩泊まっていってください!』


 村人たちの感謝の言葉に、私は疑いもせず身を預けた。

 豪華な夕食。溢れる感謝の酒。

 ……そう。そこで、私の意識は途切れたのだ。


 次に目覚めた時の情景は、今、思い出しても発狂しそうなほど鮮明だった。


 動かない身体、出ない声。

 魔法か何かで固定された視線の先に、最愛の妹ミアがいた。

 その細い手足を、かつての仲間――ヴェインが、獲物を狩るような冷徹な手つきで組み敷いている。

 

「魔王様も汚い手を使うんだねェ…。これが魔王の遺児?全く、話にならねェ。こいつの皮をひん剥いてやらないとなァ!」


 下卑た笑い。

 その背後で、イザベラが頬を紅潮させ、熱っぽいまなざしでその光景を「観察」していた。


「……面白い。実に興味をそそられるよ…」


 ミアは、声にならない声を上げ、虚空に手を伸ばす。


「……ね、……え……さ……っ!」


 彼女の指先が、空を掻く。

 その尊厳を踏みにじられる、何かが裂ける音。

 

「ほら、もっと抵抗してみろ!一応お前も魔族の端くれだろ?」

 理不尽な暴行が、永遠にも感じられる時間、私の目の前で繰り返された。


「…なぁ、狩人殿、本当にそれは魔族なのか?もっと楽しいものが見られると思ったのだが…」

イザベラが訝し気な表情で不思議そうにつぶやく。


「まあ、いいじゃねェか。人間の女も粗方楽しんだしな。暇つぶしってやつだよ」

 そう言いながら、ヴェインはその手を止めない。

 

 助けてくれ。みんな、狂ってしまったのか。


「興が冷めた…。私は先に帰るよ」

 ふわりと浮き上がり、イザベラは虚空へと消えた。

 

 これ以上無いほど食いしばった奥歯から、血の味が広がる。

 憎しみで膨れ上がった私の視界が真っ赤に染まったところで、私の意識は再び途絶えた。


ーーーー


「……さま、 英雄様、大丈夫?」


 子供の声に、私は現実へと引き戻された。

 握りしめた拳には、爪が食い込み、血が滲んでいた。


「なんでもないよ。それより、私のほかに誰か居なかったかい」

「…いいえ、英雄様だけでした」

「そうか、ありがとう。少し疲れたようだ、一人にしてくれないか」


 私はそう言うと、子供は一礼し、部屋を出た。

 

 もう一度、怒りと憎しみで煮えくり返る頭を、落ち着いて整理する。

 何故あの子があんな目に?

 何故あの子でなくてはいけなかったのか?

 ミアは……一体どこへ。

 きっともう、この世にはいないだろうけれど…。

 だが、あの子を探す前にやることがある。

 確かめなければ。何としてでも。

 

 私は、震える手で包帯を巻き直した。

 腹部の傷が疼く。呪いの毒が、私の血に「復讐」を刻み込んでいた。

 

 私は、枕元に置かれていた斧を手に取り、力を込めて握りこんだ。



■第四章 疑念


 私は、重い足取りで再びあの日立ち寄った村を訪れた。

 腹部の傷は、神官の治療を受けてなお、焼け付くような熱を放っている。


「……あの日、私が気を失った後のことを聞きたい」

 宿屋の店主に金貨を握り込ませると、彼は不思議そうに首を傾げた。


「いえ、あの日、レオーネ様は『少し疲れたから、部屋で休む』と仰って、夕食の途中で自ら二階へ上がられましたよ。」

「翌朝、朝食の準備ができたので、レオーネ様の部屋へ行ったのですが、すでにいらっしゃいませんでした。てっきり早めに発たれたのかと…」


 おかしい。

 私の記憶では、あの子が……ミアが辱められるその様を、この目で見ていたはずだ。

 だが、店主の言葉が真実なら、私は気を失った時から誰かに操られていた、ということになる。

 わからない…一体誰に――。


「……わかった。ありがとう」

 私は逃げるように村を去り、再び王都へと歩を進めた。


 もやのかかった不確かな記憶などどうでもいい。あの子の悲鳴、ヴェインのあの汚らしい笑い。

 それさえ真実なら、私の斧が止まることはないのだから。


ーーーー


 深更の王都。華やかな大通りを一本外れた、ならず者が集う酒場。

 充満する安酒と煙草の臭い、そして下卑た笑い声。私は深く外套を被り、その奥底に沈むようにして中へ入った。


「ぎゃははは!そこの女、もっとこっちに来い。英雄様に相手をしてもらえるなんて、一生の光栄だろ?」


 酒場の中心、数人の取り巻きを連れてふんぞり返っているのは、紛れもなくヴェインだった。

 テーブルには王城で授かったはずの金貨が乱雑に積まれ、私に気づいた彼はそれを一枚、足元へ放り投げた。


「そこの外套の女、それでどこまでしてくれる?俺が満足したら、もう三枚くれてやるぜ」


 私は何も答えず、ゆっくりと彼に近づいた。

 一歩、踏み出すごとに、私の内に眠る魔力が『不倒』へと変換され始める。

 静かに、だが確実に、酒場の喧騒が私の威圧感に押し流されていった。


「おい、無視かよ。……チッ、しけたツラ拝ませろ」


 ヴェインが私のフードを乱暴に剥ぎ取った。


 一瞬の静寂。


「……お、おお!レオーネじゃねェか!なんだ、俺が恋しくなったか?」


 ヴェインは一転して、相好を崩して笑った。

 「皆、見ろ!"不倒の咆哮"だ!英雄のそろい踏みだぞ!」


 沸き立つ店内。だが、ヴェインだけはその場の空気が氷点下まで下がっていることに、遅まきながら気づいたようだった。


「……なんだよ、レオーネ。そんな怖い顔して。……飲まねぇのか?」

「……ヴェイン。教えてくれ、あれはどういうことだ」

「あれ、とはなんだ?」

「……若い娘を、魔族の残党だと言って辱めたのは、お前か」


 ヴェインは、ああ、と合点がいった様子で言った

「あれな。……あれは魔族の遺児だったとかでよォ。……って、なんでお前が知ってるんだ?」


「そんなことはどうでもいい」


 私は、きわめて冷静に、切り出した。

「……あれは、あの子は私の妹だ」


 コリン、とヴェインの手からグラスが落ち、床で砕けた。

 

「……う、うそだろ。……あれは魔族のはず……」

「人間、だ」

「ちょっと待ってくれよ、な、なァ、おれは、騙されたんだ!」

「……誰に」

「ジークだよ!ジークが、『自分は城での用事があるから、暇をしている君に魔王の遺児の討伐をお願いしたい』って、持ちかけてきたんだ!」


 ジーク。

 なぜ、彼の名前が出る。あの日、笑顔で別れたはずの、あの勇者が。


 ――その時、不意に、あの魔王城で肩に置かれた冷たい掌の感触を思い出した。

 氷のような、生命の通わぬ温度。あの違和感は、ただの疲労などではなかったというのか?


「……騙されていたにせよ。お前があの子の尊厳を傷つけ、未来を奪った事実は変わらない。」

 戦斧を握り、ヴェインを睨みつける。

 

「……その命で、代価を払ってもらう」

「……ッ!お前がその気なら……ッ!」


 ヴェインが素早く、乱雑に置かれた弓へと手を伸ばした。

 『深緑の魔眼』。彼の意識が加速し、獲物の急所をいとも簡単に見抜く絶技が私を観察する。

 かつては私たちが頼りにしていた、頼もしい背中。


 気配を消し、瞬時に距離を取るヴェイン。


「店を空けろ……ッ!巻き込まれたくなければな!」

 ヴェインの怒号に、客たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。


「レオーネ。俺を誰だかわかってるんだろうなァ!あの"深緑の魔眼"だぞ!」

 引き絞られる弦。そこにはすでに、彼の魔力が矢に込められていた。


「ならお前も、"不倒の咆哮"を知らない訳ではないな」

 そう嘯いた私は、血管の隅々まで、魔力を行き渡らせる。

 身体が、内側から爆発するかのような熱量でこの身を鋼へと化す。

 

 この狭い室内。距離をとっても三メートル。

 

「私を、射抜けるか?」

「ほざけッ!」


 放たれた閃光。

 だが、回避する必要などなかった。私は踏み込みの一歩で矢を真っ向から迎え撃ち、鋼と化した肩でそれを弾き飛ばしたのだ。

 鎧が砕け、火花が散り、英雄の絶技は無様に逸れて背後の壁を豪快に貫いた。


 ヴェインが次に目撃したのは、自分の喉元に食い込んだ、戦斧の刃だった。

「……わ、わるかった、わるかったよ!レオーネ、俺たちが仲間だったことを思い出してくれ!」


「思い出しているさ。だからこそ、お前に慈悲はない」

「い、命だけは……!いいか、金だ、金ならいくらでもあるッ!ほら…!」

「……あの子も、同じように命を乞うたはずだ。……お前は、その時、どうした?」


 問いかける代わりに、私は戦斧の柄を、あの日ミアが受けた痛みの分だけ強く握り直した。


「……あの子のところへ行って、詫びるがいい」

「あ、が……っ……!!」

 返り血を浴びながら、私は乱雑に散らばった金貨を一度だけ見下ろし、酒場を後にした。

 騒ぎを聞きつけた衛兵の声が遠くで聞こえる。


(……なぜだ。……ジーク。なぜ、君の名前が……)


 『不倒』の使用で腹部の傷が、これまで以上にひどく疼く。

 腐っても"深緑の魔眼"と呼ばれた英雄を相手にするのだ、出し惜しみはできない。

 

 『不倒』を解くと同時に、腹部の傷がこれまで以上にひどく疼いた。魔王を屠るために磨いた力で、かつての戦友を屠る。その歪な対価が、呪いの毒となって私の血を焦がしていく。

 だが、一人殺した程度では、この乾きは癒えない。

 私は騒ぎを聞きつけた衛兵の声に背を向け、外套を深く被り直すと、再び夜の帳へと消えた。


■第五章 包囲網


 酒場を後にした私の足元は、覚束なかった。

 ヴェインを屠った満足感など微塵もない。あるのは、焼けるような脇腹の痛みと、心に空いた暗い穴だけだ。


(……ジーク。本当に、君が……?)


 一番の標的は彼だ。だが、王城は今や英雄の帰還に沸き、警備も厳重。

 今の満身創痍の体では、門を潜ることすら叶わない。

 まずは、この傷をどうにかしなければ。


(……ベネディクトなら。……潔癖で話の通じない彼なら、逆に何か知っているかもしれない)


 あの日、ヴェインと一緒にいなかった彼なら――そう一縷の望みを抱いて。


ーーーー


 翌朝、王都は激震に包まれていた。

「聞いたか?英雄ヴェインが殺されたんだって!」

「犯人は、英雄レオーネだっていう噂だぜ。ほんとかよ…」

 路地裏で盗み聞きした言葉に、私は唇を噛む。

 やはりジーク……あるいは…。情報の回りが早すぎる。人目に付く昼間の移動は不可能だ。


 私は再び、夜を待った。


ーーーー


 深夜。王都中央大聖堂の裏口。

 私は目深に被ったフードで顔を隠し、一人の若い信徒を呼び止めた。

「…すまない、神官ベネディクトはいるか。緊急の用だ」

「……彼は、ここ一か月ほど姿を見せていません」

「なんだと?何故だ」

「急にいなくなったので、理由までは…」


 あの狂信的ですらあった神童が、改宗?

 あり得ない。


「……なら、この傷を診てほしい。呪いの類だ」

 私が包帯の隙間を見せると、信徒は顔を青くして後ずさりした。


「……これは……上位の奇跡でないと、手も足も出ません。……少なくとも枢機卿クラスの方でないと。……ですが、彼らへの謁見は難しいかと……」


 枢機卿。王族に連なる彼らと、お尋ね者の私が接触するなど自殺行為だ。

「……分かった。手間をかけたな」

「あ……。まさか、あなたは……」

「……人違いだ」


 私は足早に聖域を立ち去った。

 ベネディクトまでもがいなくなった。あの日から一ヶ月も経っていないのに、何かが加速している。

 いずれにしても私は、成すべきを成す。……次はイザベラだ。

 だが、その前に準備が必要だ。あの大魔導士を相手にするには、あまりにこの身が危うい。


ーーーー


 翌日、私は変装を重ねて王都の道具屋へと潜り込んだ。

「……指輪、『万物神の恩恵』はあるか」

「『恩恵』だって?……あんな高価なもの、置いてるわけないだろ。あったとしても、あんた、金は持ってるのかい?」


 店主は胡散臭そうに私を眺める。

「……最近じゃ、王族御用達の店に全て買い占められたって話だ。……それにしても、聞いたことのある声だね。……あ、あんた、英雄レオーネじゃないか!?」


 まずい。私は返事もせず店を飛び出した。

 「おい!待ちな!」


 背後からの声を無視して路地を駆ける。だが、脇腹に走る激痛が足を止めさせた。

 膝をつき、深く呼吸をする。


「……レオーネ?……レオーネなのか?」


 背後からかけられた声。私は反射的に斧に手をかけたが――そこには、見知った顔があった。

「……ゼフ?……どうして、君が王都に……」

 故郷の村の幼馴染、ゼフ。心優しい男だ。


「大変なことになってるね。……噂は聞いてる。……とりあえず、僕の宿へ。身を隠そう」


ーーーー


 ゼフが泊まっている貧民街の宿屋。

「……あ、お連れさんかい?」

「ああ、お楽しみの時間だからさ、邪魔しないでくれるかな」

「野暮だったかな…控えめに、頼みますよ」

 店主の卑猥な笑みを、ゼフは適当にあしらって私を部屋へと導いた。

 

「……すまない、ゼフ。……訳あって、今は……」

「いいんだ。詳しいことは後で聞くよ。……まずは休んで」


 私は、村での事件、ヴェインの最期、そしてジークへの疑念を断片的に話した。


「……ひどい。……とにかく、分かった。君が言っていたその指輪、僕が買ってきてあげるよ。僕なら、怪しまれずに店に入れるはずだ」

「……信じてくれるのか。いや、君まで、危ない目に……」

「幼馴染じゃないか。君が英雄になっても、僕にとってはただのレオーネだよ」


ーーーー


 ゼフが買い物に出てから数時間が経った。

 私はベッドに横たわりながら、込み上げる熱に耐えていた。


「……ごほっ、……かはっ……!」

 手のひらに飛び散ったのは、どす黒い鮮血。呪毒が、肺まで侵している。


(……時間がない。……ここで止まるわけには、いかないんだ……)


 その時、階下で騒ぎが起きた。

 不気味なほどの物音。野次馬の叫び。

 私は嫌な予感に身体を引きずり、宿の表へと出た。


 人混みをかき分けた先。

 そこには、血まみれで倒れ、呼吸も満足にできないゼフがいた。


「……ゼフ!……しっかりしろ!」

「……ぁ、……レ、オーネ……。……これ……」


 彼が震える手で差し出したのは、小さな宝石が嵌まった指輪。――『万物神の恩恵』。


「……バカか、君は!……誰に、誰にやられた!?」

「……わから……ない……、……気をつけて……レオーネ……」

「喋るな、ゼフ!……今、助ける……」


 ぽつり、と雨が降り始めた。

 ゼフの瞳から光が消え、雨音が世界を塗りつぶしていく。

 神の奇跡も届かないほど、私の手はすでに汚れてしまったのだろうか。

 私は、彼が命がけで届けてくれた指輪を受け取った。

 優しかった彼が、私のために命を賭けて手に入れた、場違いなほど美しい品。


「……ごめん。君を、私の地獄に巻き込んだ」


 中指に指輪をはめ、私は拳を強く握りしめた。

 細い銀の輪が肉を圧迫し、ゼフの鼓動を代弁するようにドクドクと拍動する。

 英雄の名など、雨と一緒に流れていってしまえばいい。

 雨に打たれる亡骸に背を向け、私は再び、終わりなき夜へと歩き出した。


(……ジーク。……これも君の仕業だというのか……?)



■第六章 異端


 王都の外れ、かつては教会の所有物であったという古びた塔。

 そこは今、一人の魔導士によって私物化され、知の迷宮と化していた。

 イザベラ――「真理の指先」と謳われた彼女は、王族の庇護を背に、この場所を半ば強引に奪い取ったのだ。


「おお、誰かと思えば"不倒の咆哮"英雄レオーネ様じゃあないか。……入ってくれたまえよ」


 声をかけられる。まだ塔の扉にさえ触れていないというのに。

 感知魔法の類だろうか。魔法に疎い私には、彼女がどうやって私の接近に気づいたのかさえ分からず、ただその精密な魔力操作の痕跡に、背筋を薄寒いものが撫でていった。


ーーーー


 一歩、足を踏み入れた先。

 そこは四方の壁が天井に至るまで書物で埋め尽くされた、異様な空間だった。

 上層を見上げれば、手すりに足をかけ、宙に浮くような不自然な体勢で本を読み耽るイザベラの姿がある。


「魔王の禁書が読み解けなくてね。……難儀な代物だよ、これは」


 そう言いながら、彼女は不敵に笑っていた。


 彼女の美貌は、どこまでも妖艶で、女として成熟したその肢体は同じ同性である私から見ても抗い難い魅力を湛えている――それが中身の通わぬ、冷酷な器であることを知らなければ、だが。


「なんだい?人をじろじろ見るものじゃないよ。用事があったんじゃないのか。ないなら帰ってくれ。私は忙しい」


「……あの日、立ち寄った村での出来事を、聞きに来た。……なぜ、あんな趣味の悪い見世物に加担した」


 私が切り出した問いに、イザベラは本から目を離すことなく、退屈そうに答えた。


「あれかね。魔族というものが人間に犯される様が見られるというのでね。……興味があったから伺ったまでだよ」

「……」

「だが、失望だったね。結局はただの人間……観察するに値しない、時間の無駄だったよ」


「……誰に、聞いた。……あの子が魔族だなんて、誰に吹き込まれた!」

「"神託の極光"に他ならないよ。彼が言うからわざわざ見に行ったというのに……」


 また、ジーク。


「……あの子は、私の妹だ」


「ほう、それはまた数奇な。何だい、その目は。……私と事を構えようというのかな?」

「……事と、次第によってはな」

「ふぅん……」


 イザベラがようやく本を閉じ、私を値踏みするように見つめた。

「ジークは、他に何か言っていたか」

「特にないよ。いつもと同じ、素敵な笑顔だったぐらいでね」


 ふつふつと、血が沸き立つような猛烈な怒りがこみ上げる。

 相手はあの、「真理の指先」。正直、不安はある。だがその不安すら、怒りで焼かれた頭を僅かに冷やすための材料に過ぎなかった。


 私の全身を、憎悪と共に魔力が支配する。

「そうか、それが、君の答え。……そういうことでいいのかな?」


 イザベラが不敵に笑うと同時に、放たれた魔圧によって大気が震えた。

 何度も共に戦い、嫌というほど知っているこの力。

 

「そうだ、イザベラ。……傍観者たる君も同罪だ。ヴェインのいるところに送ってやる」

「そうか、彼は死んだのか。……そうやすやすと死ぬようなタマではないと思っていたが……相手が君だとすると、話は別だね」


 彼女が指をパチンと鳴らす。

 同時に、強大な魔力に耐えきれなくなった塔の壁が、悲鳴を上げて崩壊し始めた。


ーーーー


 降り注ぐ瓦礫。だが、それらは地面に落ちることなく、イザベラの周囲を意思を持つ生き物のように漂い始めた。


「せいぜい楽しませてくれたまえ!」


 高速で飛来する瓦礫の弾丸。私は『不倒』を全身に巡らせ、それを戦斧で叩き落としながら距離を詰める。

 一つ、また一つと弾いたその瞬間、死角から無数の氷塊が襲いかかる。


「……っ!」


 斧を盾にし、かろうじて防ぐ。

 イザベラは顔色一つ変えず、舞うように次々と高位魔法を紡ぎ出していく。


(……長期戦はまずい。……通常の魔導士のような魔力切れは、彼女にはない……!)


「ほぅ…?手心を加えたつもりはなかったんだがね。」

「……その程度か?"真理の指先"という二つ名も、返上したほうがいいんじゃないのか?」

「……私を挑発するのか、いい度胸だ。……後悔しても遅いよ」


 左右から迫る雷の槍を間一髪でかわすと、上空から巨大な火球が降り注いだ。


(今だ!)


 私は『不倒』の魔力を全て下半身に割り当て、爆発的な速度で距離を詰める。


「そんなことだろうと思っていたよ。私の想像は、超えられていないね」


 イザベラの目の前に、魔法陣が出現する。

 彼女の決め手――周囲を灰に変える爆裂魔法。


 光が爆ぜ、衝撃が世界を白く染める。


「……!?」


 直撃したはずの私は、血の一滴も流さず、その爆炎を突き抜けた。

 刹那、私の斧がイザベラの身体を深く引き裂く。


「……考えたね。……見直したよ」


 ゼフから受け取った指輪、『万物神の恩恵』が、役割を終えて砕け散った。

 一度だけ魔法効果を打ち消すという、王族御用達の至宝。……幼馴染からの「加護」。


「傍観者も同罪だ。……死んで詫びろ」


「……死後の世界か。……興味があったんだ……」


 満足げに、あるいは純粋な知的好奇心を瞳に残したまま、イザベラの意識は永遠の闇へと沈んでいった。


ーーーー


 崩れた瓦礫にもたれ、私は激しく咳き込んだ。


「……はぁ、はぁ、……っ……」


 なんという脅威。……なんとか退けたものの、『不倒』の反動は確実に私を蝕んでいた。

 脇腹の傷が、これ以上の酷使を拒むように熱く疼いている。


(……これ以上の消耗は、厳しい。……ベネディクトの所在が分からない以上、……ジークに直接、会うしか……)


 震える脚を叱咤し、私は再び王都へと足を向けた。

 真実を、直接問いただすのだ。



■第七章 嫌疑


 倒れそうな身体を、斧を杖にして支えながら、私はようやく王城の正門へと辿り着いた。

 人目を忍び、路地裏を這いずるようにしてここまで来たが、目の前の白亜の門は、今の私にはあまりに高く、遠い。


「おい、そこをどけ!浮浪者風情が城門に近づくんじゃない!」

 衛兵が剣の柄を叩き、私を追い払おうと声を荒らげる。


 忍び込むか?

 だが、この傷と疲弊した魔力では、ネズミ一匹通さぬ王城の結界に弾かれるのが関の山だ。といって、正面突破など今の私には夢のまた夢。


(……ここまで、なのか……)


 意識が遠のきかけた、その時だった。


「――レオーネ。そろそろ来るんじゃないかと思っていたんだ。……さあ、入ってくれ」


 聞き慣れた、けれど今は吐き気がするほど甘い声。

 門の奥から現れたのは、黄金の髪を陽光に輝かせた勇者ジークだった。


「ジ、ジーク様!? しかし、その女は……英雄レオーネ、いえ、今はヴェイン様殺害の容疑がかかっているお尋ね者では……」

「いいんだよ。彼女は僕の……僕たちの、大切な仲間だ。……さあ、レオーネ。疲れただろう?中で話そう」


 理解が追いつかない。

 なぜ、彼は私を招き入れる?

 なぜ、これほどまでに無防備に背中を見せる?

 いずれにせよ、向こうから隙を見せてくれたのだ。喉元を掻き斬る機会は、いくらでもある。

 私は殺意を外套の内に隠し、彼の後に続いて城の客間へと入った。


ーーーー


 豪華な客間。差し出された最高級の紅茶には目もくれず、私は正面に座る男を睨みつけた。

 聞きたいことは山ほどある。だが、あまりに異常な事態に、言葉が口から出てこない。


「……なぜ、私が来ることを知っていた」

「なぜって。それは、ずっと君を見ていたからさ」

「……見ていた?…何を…?」

「すべてを、さ。まさかあのイザベラまで屠るなんてね。……いやぁ、本当に面白かったよ」


 ジークは心底楽しそうに、思い出を語る子供のような無垢な目で私を見つめた。

 理解が、追いつかない。


「……君とは四年も旅をしただろう? 僕だって、君のことは大好きだった。それは本当なんだ」

「……何を、言っている……」

「でも、ふと思ったんだ。……"不倒の咆哮"と呼ばれ、強く、純真で、真っ直ぐで、誰よりも仲間を信じている君が……あんな惨たらしい目に遭って、どんな顔をするのかなってね」

「……ッ!」

「試してみたくて、居ても立っても居られなくなったのさ。……ああ、そういえば、ミアちゃん。とってもいい子だね」


 ……黙れ


「僕が訪ねると、君の話を嬉しそうにして、お茶とクッキーを出してくれたんだ。『姉との旅はどうでしたか?』なんて聞きながら、頬を赤らめて」


「黙れッ!!」


 言い終わるのを待たず、私は椅子を蹴り飛ばし、斧を構えた。だが、ジークは微動だにせず、慈愛に満ちた笑みを崩さない。


「ヴェインはわかりやすいよね。富と名誉が得られるよってお願いすると、すんなり引き受けてくれたよ。あの思考は理解はできるけど、賛同はしかねるかな」

「……イザベラも、面白ければそれでいいっていうから………ああ、…怒っているんだね、レオーネ」


「お前は……狂っている。……すべて、お前が仕組んだ……!あの日も、ミアも、ゼフも、ヴェインの凶行も……!」


「そうだね。……でも、もう飽きたかな。もっと面白いことを思いついたから。……そうだ、ベネディクトも居るんだよ。ベネディクト! おいでよ」


 客間の奥、重厚な扉が開いた。

 そこに現れたのは、かつての潔癖で傲岸不遜な神官の面影を失った、異様な姿。

 虚ろな瞳に、頬はこけ、全身から異様な雰囲気が漏れ出している。


「……お呼びでしょうか、我が神よ」


 ベネディクトが、ジークの足元に跪く。


「……神? ……どういうことだ、ベネディクト! 目を覚ませ!」


「……僕は次の準備に移るから。……レオーネ、好きにしていいよ。……ああ、旅が楽しかったのは本当だよ。あんなに笑ったのは久しぶりだった」


 ジークは軽やかな足取りで、私の脇を通り抜けていった。

「ま、待て! ジーク!」


 追いかけようとした私の前に、ベネディクトが立ちふさがる。

 身体が痛む。それ以上に、目の前の現実が私の脳を焼こうとしていた。


「……ベネディクト。……信心深い君が、一体なぜ、教会を捨てた。……万物神の教えはどうした!」


「万物神? ……ふふっ、そんなもの、まがい物の神に過ぎない」

 ベネディクトが、恍惚とした表情で天を仰いだ。

「ジーク様……。ジーク様こそが、この世界の真なる神!神が、現世に降臨なさったのだ……!」


「なぜ……ジークが、神なんだ……お前は何を言っている!」

「レオーネ、君もジーク様を信仰するといい。……奇跡など、ジーク様がおわすだけで十分なのだから」


 要領を得ない。話にならない。

 ジークは、彼に何を教え込み、何を奪ったというのか。


「準備は整いつつある。……レオーネ。君は、特等席で見ているがいいさ」


 ジークの姿は、すでに廊下の奥へと消えていた。



■第八章 極光


 星暦905年。

 エリュシアの静寂を切り裂くように、一人の女が万物神の神託を賜った。

 それは、次なる勇者の誕生の前触れ。同時に、混沌の底から次の魔王が現出する合図でもあった。

 報せは直ちに王都へと伝わり、神の子を宿した女は「救世主の母」として、国を挙げて丁重に迎え入れられた。


 星暦911年。

 勇者ジーク、6歳。

 物心がつく前から、僕は自分が何者であるかを教え込まれてきた。

 勇者の称号を授かり、百年に一度の災厄を討伐することを運命づけられた存在。

 朝から晩まで、剣技、座学、礼儀作法。英雄に相応しい実力と風格を身に付けるための教育が、息つく暇もなく僕の中に詰め込まれていく。


 そんな中、母とは頻繁に顔を合わせていた。けれど、そこに情愛はない。

 僕を産んだ女。それ以上の認識を持つことはできず、ただ形式として「お母様」と呼ぶことに決めていた。


 母は僕をとても優しい目で見つめ、「ジーク。私のジーク」と頭を撫でた。

 そうすることで、皆、安心感を得るのか。

 笑顔と優しい目、甘い言葉、試してみよう。


 星暦915年。

 勇者ジーク、10歳。

 もはや王城内で、僕と剣を交えて勝てる大人は一人もいなかった。

 魔法の才も、すでに一級魔導士に匹敵する魔法を操る僕を、人々は畏敬を込めて"神託の極光"ともてはやした。


 ただ一つ、僕には欠けているものがあった。

 神官たちが容易く操る『奇跡』。それだけは、どう足掻いても扱えなかった。

 神話は誰よりも理解していた。けれど、圧倒的に足りなかったのは「信仰心」だった。

 目に見えない不確かな存在を信じられるほど、僕は単純ではなかった。

 

 何より……。

 

 僕が一番信じ、愛していたのは、僕自身だったから。


 星暦917年。

 勇者ジーク、12歳。

 用意された全ての教育課程を修了した僕は、日課の鍛錬を片手間に終わらせ、残りの時間を全て図書室での読書に費やしていた。

 僕の知的好奇心を刺激したのは、魔族という存在の正体だ。

 

 この世界エリュシアと、神界、そして魔界。それぞれを繋ぐ「扉」が存在し、百年に一度、魔界の扉が大きく開くことで魔王が現出する。

 巷に溢れる低級の魔族は、空間の小さな「綻び」から漏れ出た端切れに過ぎないことも知った。


(では、神界のゲートは綻ばないのか?)


 当然の疑問だったが、それを記した文献はどこにもなかった。

 僕は次第に、間もなく現れるであろう魔王という存在に、抗いがたい興味をそそられていった。


 星暦923年。

 勇者ジーク、18歳。

 魔導士協会の奥深くに秘匿されていた禁書を、僕は遊び半分で覗き見した。

 そこには、世界の理を覆すような興味深い記述が並んでいた。

 

 なかなか現れない魔王を待つ時間は、退屈を極めていた。

 だから、僕は一つの実験を行うことにした。


 禁書に記されていた「禁術」の実践だ。


 僕に熱烈な好意を寄せている女の子を一人、言葉巧みに王城の地下へと誘い出す。

「なにをみせてくれるの?」

 頬を赤らめ、期待に胸を膨らませる彼女を、僕は後ろから容赦なく刺し貫いた。

 試したのは「人体蘇生」の術。


 結果は……不完全だった。彼女は意志を持たない、醜く這いずる生ける屍へと成り果てた。

 けれど、これはこれで面白いかもしれない。


 翌日から、僕は彼女との意思疎通を試みた。

 うわ言のような言葉を真似てみたり、外部刺激を与えて反応を見たりしたが、やはりうまくいかない。


 他の禁術もいくつか試したが、彼女の一部が酷く変出したり、どれも期待外れだった。

 僕は理解した。禁術がなぜ禁術なのか。それは「不完全な欠陥品」だからだ。


 それに気づくと急に興が冷めた。僕は彼女を炸裂魔法で跡形もなく灰にすると、心地よい達成感と共に眠りについた。


 星暦936年。

 勇者ジーク、30歳。

 ついに魔王が現出したという報せが届いた。

 僕は楽しみで、思わず足取りが浮ついた。

 やっと、長年の疑問を解決できる「素材」が手に入るかもしれない。


 招集されたパーティメンバーの中には、あの"真理の指先"イザベラの姿もあった。

 彼女なら、僕の話を理解できるだろうか。旅の途中で、色々と実験の感想を聞いてみるのもいい。

 他には、そうだな、レオーネ、彼女はとても真っ直ぐでよい子だ。

 楽しい、楽しい旅になりそうだ。



■第九章 扉


 客間での混乱を振り切り、肺を焼くような激痛に耐えながら地下へ続く階段を駆け下りた。

 辿り着いたそこは、王城の華やかさとは無縁の、どす黒い魔力と血の匂いが充満する異質な空間だった。床一面に描かれた複雑怪奇な魔法陣、その中心に鎮座する不気味な祭壇。


「遅かったね。もう始めてしまうところだったよ、レオーネ」


 ジークが、散歩でもしているかのような軽やかな足取りで近づいてくる。

 その手には、不気味に脈動する赤黒い結晶が握られていた。


「これ、なにかわかるかい」

「……なんだ、それは」

「これはね、魔王の核だよ。これだけ拝借してきたんだ。あの巨体がただの器だったなんて、みんな気づかなかったみたいだけど」


 ジークは子供のように無邪気に、だがその瞳には底知れない虚無を湛えて笑う。

「それで……なにをするつもりだ」

「神界の扉に綻びを作るんだ。魔導士協会の禁書にご丁寧に書いてあったんだよ。理論だけ、だったけどね」

「……あとは、魔王って魔族の王、すなわち魔界の王だよね。それが殺せるんだから、神界の万物神だって殺せるんじゃないかって試してみたくなったんだ」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、傍らにいたベネディクトが、吸い寄せられるようにジークの前へ跪いた。


「ベネディクトもね、賛同してくれたんだ。『神を殺せば、僕が神だ』って。ね、ベネディクト」

「はい、ジーク様」

「ベネ……ディクト……貴様……!」


 私の知る彼は、潔癖なまでに神を信じていたはずだ。しかし、今の彼の瞳には狂気だけが宿っている。

「万物神は奇跡の顕現のみで、一度も僕の前には現れなかった。……騙されていたんだ。あんなにも祈りを捧げたのに。弟も、救ってくれなかった」


 ジークが、私にだけ見えるように目配せをした。

 心底、性根が腐っている。こいつは、この神官の最も脆い部分を抉り、自分という偶像へすげ替えたのだ。


「ジーク様は違う。現人神ジークとして顕現なさるお方なのだ!」

「と、いうわけなんだ。一緒に旅をしたよしみだ、特別に見ていってよ」


 それは、神を冒涜する行為。人智を超えた、取り返しのつかないタブー。

 止める術はないのか。思考が傷の痛みで霧に包まれる。


「さあ、始めようか!」

 ジークが魔力を魔法陣に流し込んだ瞬間、静寂が引き裂かれた。激しい地響きが王城の土台を揺らす。


 神を殺す? そんな事が可能なのか。いや、出来るはずがない。そんなことは……。

「殺せるはずない、って思ってる?」


 儀式から目を離さず、ジークは囁くように語る。


「そこは僕も、わからないんだ。やってみないと、ね」


 考えるのはあとだ。今はただ、この狂気を止めなければならない。


「やめろぉぉ!!」


 私は残る魔力を振り絞り、戦斧を構えて斬りかかった。

 だが、ジークは視線すら送らず、腰の剣を抜き放つ。金属音が響き、私の渾身の一撃は安々と弾き飛ばされた。


「君の、"不倒"だっけ。すごいよね。僕も少ししか真似できないんだ。研鑽の賜物だね」

 賛辞を述べながらも、彼の指先は着実に儀式を進めていく。


 魔王の核が内側から膨れ上がり、ついには破裂した。血のような色の雲が、重苦しく空間を漂い始める。


「『扉』っていうのはね、物理的なものじゃあないんだ。どこにでもあるんだよ。それを、ちょっと開いてあげるだけ……」


 渦巻く雲に亀裂が走り、そこから見たこともないほど白く、冷酷な光が漏れ出した。

 だめだ。なんとかしないと。

 私はもう一度、ジークへ斬りかかった。何度も、何度も。腕が痺れ、視界がかすんでも、斧を振り下ろす。

 しかし、その斬撃は空を切るばかりで、何一つ通らない。

 

「だめだよ、そんな太刀筋じゃ。……そっか、お腹が痛いんだったね」

 嘲笑うようなその声に、力が抜ける。


 もう、だめなのか……。

 ミア、ゼフ、すまない。また救えないのか。誰も。


 漏れ出した光がすべてを包み、閃光となりあたりを包んだ。

「ほうら…、神のお出ましだ……!」


■第十章 勇者


 神界の扉から溢れ出した白光は、ジークを救うどころか、その肉体を容赦なく損壊させていった。

 神を顕現させるという傲慢な術式。それが人の器を超え、増幅された魔力が津波となってジークに逆流する。


「……あ、……ぁぁ、……ははっ。この術もまた、不完全だったということか」

 ジークの美しい顔が、泥のように溶け、黒く変色していく。


「禁術とは、やはり不完全なものなんだね!」

 骨が歪に突き出し、背中からは漆黒の翼が肉を突き破って生え揃う。

 かつての勇者の面影はない。そこに現出したのは、悍ましい異形の怪物だった。


「……でも。これは、これで、面白いかもしれない」

「ジ、ジーク様……?神、ではない……。あなたは、一体……」

 祭壇の陰で、ベネディクトが歯の根も合わぬほど震えていた。


 祈りを捧げた対象は、いまや吐き気がするほどの魔気を放つ化け物へと成り果てている。

 "それ"を前に、彼は心底からの恐怖に飲み込まれていた。


「神じゃなく魔族になってしまったようだ、レオーネ。さながら『魔王ジーク』の降臨ってやつかな。さあ、僕と遊ぼう」


 私は冷たい床に転がったまま、絶望の淵にいた。

 魔力は底をつき、右腕の感覚はない。指一本動かすことさえ叶わない。

 ……諦めるのか。こんな化け物が解き放たれれば、世界は瞬く間に地獄に変わる。


「神よ……万物神よ、お救いください……!」

 狂乱し、震えながら祈るベネディクトの声。


「…往生際の悪さが、私の信条……強さだ」


 決して……諦めはしない。


 折れそうな膝を、意志の力だけで固定する。

 震える足で、私は何とか再び立ち上がった。


「どうした、レオーネ。掛かってこないのかい?」

 醜悪な、顔と呼ぶにも烏滸がましいものの奥で、無邪気な表情が見えた気がした。


「ちょっと待っていてくれよ…待っている間に、試してみたい力があるんだ」

 ジークの腕に膨大な魔力が収束し始める。

 その魔力が衝撃波となり、王城の地下が、そして城そのものが轟音と共に崩れ始める。


「この体で、全力の炸裂魔法を放つと、どうなるのかな……」

「やめろ……ッ!!」


 空間が光に包まれる。

 死を覚悟した瞬間、暗闇の中に懐かしい温もりが宿った。


『……姉さん』

『死ぬにはまだ、早いんじゃないか、レオーネ』


 そこには、微笑むミアと、穏やかな顔のゼフがいた。

 幻影か、あるいは死の淵が見せた夢か。だが、彼らの言葉が私の乾いた魂に染み渡っていく。

 そうだ。分かっている。

 私は、この世界を……あの子たちが愛した平和を守りたい。


 刹那、脳裏に直接響く、神託。


 万物神エリュシオンが、いま、私を呼んでいる。

「神よ……エリュシオンよ。……わかった。やってやるよ、全部!」

 

 次の瞬間、地下室を覆っていた暗雲が、圧倒的な黄金の輝きによって霧散した。

 光の渦が私を包む。

 

 私は、神託を聞き、この瞬間に「勇者」となったようだ。

「……体が、軽い。魔力も……潤沢にある。これなら、やれる……!」


「生きているなんて!あはは、すごいじゃないか!レオーネ、やっぱり僕は君が大好きだ!」


 崩落した城の瓦礫の間から、衛兵や王都の人々が何事かと集まってくるのが見える。

 ジークはその衆人環視を歓迎するように、両腕を広げた。


「僕の望んだ状況そのものじゃないか!神の申し子たる勇者を屠れば、それはまさに『神殺し』に違いない!」


 ベネディクトは、光り輝く私の姿に真の神威を見、涙を流して地に伏した。


「ジーク。お前を、止める」

「さあ、楽しもう、レオーネ!」

 ジークが手をかざすと、空に暗雲が渦巻き、雷鳴が轟いた。

 彼はかつての聖剣を抜き、そこに漆黒の雷撃を纏わせる。放たれた雷の槍。


「……奇跡よ!」

 私は左手をかざし、純白の障壁を顕現させた。

 雷撃が霧散する。


「じゃあ、これはどうかな?」

 地面が次々に鋭利な槍となって隆起し、襲いかかる。

 慌てて飛びのいた先に、特大の雷撃が次々、雨のように降り注ぐ。


「はッ…!ぐぅぅぅッ!」

 障壁を顕現させ、それをなんとか防ぐが、それは次第に聖なる光を失いつつある。

 純粋な魔力に押され続ける。何とかしないと。

 

「奇跡を自在に顕現させるのか!素晴らしい、素晴らしいよレオーネ!!」

 ジークは歓喜の叫びを上げながら、炸裂魔法を連射し、肉弾戦を仕掛けてくる。

 私はそれを防護の奇跡で耐え凌ぎ、戦斧を振るう。

 激しい衝撃波が周囲を更なる瓦礫の山に変え、火花が散る。


「ジーク!世界の為に、お前はここで死ぬべきだ!」

「僕は神殺しを成し遂げる!君を殺して!」


 聖剣と戦斧が激突し、互いに距離を取る。

 だが、万物神の加護を得たとはいえ、私の肉体は既に限界に近い。

 ジークの猛攻が、じりじりと私の防壁を削り取っていく。


「どうしたんだい、勇者レオーネ!そんなものか!」


 無数の火球が雨のように降り注ぐ。

 防戦一方では、いずれ飲まれる。打開策は……。

 やはり、私にはこれしかない。神に選ばれても、私の本質は変わらない。

 

「『不倒』……!!肉体が千切れるまで、魔力を回せ!!」

「レオーネ!奇跡を……その身体に奇跡を顕現させるのです!!」

 ベネディクトが叫ぶ。

 

「奇跡……。そうか、この身体に……聖なる加護をッ!!」

 内側からの強制強化と、外側からの聖なる加護。

 二つの相容れない力が融合し、私の肉体は「神速」へと到達した。


「はぁぁぁぁ!!」

 一歩。地面を粉砕し、ジークの懐へ。

 手にした戦斧に、退魔の奇跡を顕現させる。

 

「……なっ……!?」

「死ねぇぇ!!」

 

 刹那。

 黄金の閃光が、ジークの肉体を真っ向から、そして微塵に弾き飛ばした。

 

 同時、限界を超えた魔力と奇跡の負荷により、私の肉体からもすべての光が失われた。

 ガラン、と握ることすら叶わなくなった戦斧が地面に滑り落ちる。

 膝から崩れ落ちる。自らの身体を支える力さえ、もう残っていない。

 

「レオーネ!!」

 ベネディクトが駆け寄ってくる。

 

 その向こう側で、下半身を失い、消えゆく霧となりつつあるジークが笑っていた。


「ジーク……これで、満足か。……神殺し、だぞ」

「……相打ち、……いや。僕の、負けだったな。……さすがだよ、"不倒の咆哮"勇者レオーネ」


 彼の瞳から、狂気が消え、静かな虚無が戻っていた。


「これが、死か。……ふふ、案外、心地よいじゃないか……」

「……お前は邪悪だ。信じられないほどに。消え失せろ」

「ふふ、……ひどいな……」


 ジークの存在が、粒子となって空へ溶けていく。

 完全な消滅。この世に彼の痕跡は、何一つ残らなかった。


「レオーネ!しっかりしてください、レオーネ!」

 狼狽えるベネディクトの声を、私は遠くに聞いていた。


「立つんだ!あなたは勇者でしょう!」 

「……ベネディクト。私は……憎しみで人を殺めた。それが例え妹の仇、だったとしても、だ」

 視界が、次第に夕陽のような色に染まっていく。


「勇者を名乗る資格なんて、……これっぽっちも、ないんだよ」

 だが、後悔はない。

 守りたかったものは、この一振りの斧で、確かに守り抜いた。


「……ああ、ミア……ゼフ。いま……そっちに、行くよ」


 私は、愛すべき者たちの元へ。

 長い、あまりに長い旅路を終え、英雄レオーネは静かに息を引き取った。

 崩壊した王城の跡地に、一陣の清らかな風が吹き抜けていった。



■エピローグ

 

 あの日、王城の地下で起きてしまった惨劇――通称「"神界の扉"事件」の真実は、歴史の深い深い闇へと葬られた。

 レオーネの亡骸を抱く僕を前に、生き残った権力者たちが最初に行ったのは、祈りでも感謝でもなく「口封じ」だった。

 

 まず国王の側近たちは、惨状を目撃したわずかな衛兵たちに厳口令を敷いた。

 反抗したり、恐怖で正気を失ったりした者は「魔力汚染による精神異常」という不名誉なレッテルを貼られ、新造された地下牢の奥底へと消えていった。

 

 魔導士協会も素早かった。イザベラが遺した研究資料や、ジークが持ち出した禁書はすべて「公衆衛生を脅かす禁忌」として没収され、その日のうちに灰にされた。

 協会の面子を守るため、彼女は「魔王の呪いに最後まで抗い、散っていった悲劇の天才」として歴史に刻まれることとなった。


 そして僕が属する聖エリュシア教会は、もっとも醜悪な嘘を吐いた。

 枢機卿たちは、ジークが神を殺そうとした冒涜的な事実を、あろうことか「異界の門を内側から閉ざすための、高潔なる自己犠牲」へと書き換えた。

 皮肉なことに、神を殺そうとした男は、いまや教会の教義を補完する「聖者」に祭り上げられている。

 

 僕は生き残りの唯一の証人、それら事象の裏付けとして、報告書に、震える手で最後の署名を添えた。

 レオーネの名誉を守るため、そしてこの歪な平和を維持するため。

 ……それが、生き残ってしまった僕に課せられた、最初の汚れた職務だったのである。


「……ベネディクト修道士。手が止まっていますよ」

「ああ……申し訳ありません。少し、考え事をしていました」


 僕は今、一介の修道士として、地方の小さな教会でやり直している。

 かつて「神童」と呼ばれた傲慢な自分は、あの日、崩壊する王城の地下で死んだ。


 礼拝堂の隅、そこには一人の少女が座っていた。

 かつてレオーネが誰よりも愛し、守れなかった妹、ミアだ。


 あの日、ジークの実験場となっていた地下室のさらに奥で、彼女は見つかった。

 肉体的な傷は癒えたものの、彼女の魂はどこか遠い場所へ行ってしまったまま、戻ってはこなかった。

 焦点の合わない視線で、彼女は一日中、窓から差し込む光を眺めている。

 

 時折、何かに怯えるように肩を震わせる彼女の背中を、僕は今の自分にできる唯一の「祈り」を込めて、優しく撫でる。


 彼女の傍らには、一振りの戦斧が置かれていた。

 刃は至るところが欠け、無数の血を吸って黒ずんだ、無骨な鉄の塊。

 

 レオーネの形見であり、彼女の人生そのものだった遺品。

 僕には持ち上げることすらできず、あの場所から引きずりながら持ち帰ってきた、聖遺物。

 

 ミアは言葉を発することはないが、時折、斧を見つめているような、不思議な表情を見せることがあった。


 かつての僕は、この斧を「不潔な人殺しの道具」だと蔑んでいただろう。

 だが、今の僕にはわかる。

 この斧こそが、どんな奇跡よりも雄弁に、この世界に「愛」と「意志」が存在したことを証明しているのだと。


 皮肉なものだ。

 神話を心から理解し、教典の隅々まで暗記し、誰よりも熱心に祈りを捧げていた頃、僕は一度も「神」を感じたことなどなかった。


 だが、あの日――。

 満身創痍で立ち上がり、憎しみを抱えながらも世界のために斧を振るった、あのレオーネの姿に。

 まばゆい光を背負って異形に立ち向かった彼女の背中に。

 

 僕は、確かに神を見た。

 

 万物神エリュシオンは、天にいらっしゃるのではない。人の、揺るぎない意志の中にこそ宿るのだと、僕は確信した。

 

 ふとした瞬間に、あの旅を思い出す。

 毒を吐き合うたびに顔を顰め、不潔だと罵り、互いに反目し合っていたあの四年間。

 今思えば、あの時間は、僕の人生で唯一「生きていた」と言える時間だった。

 地獄のような死線を越え、焚き火を囲んでパンを齧った。

 苦しかった。けれど、あれは……本当に、本当に楽しかったのだ。


 教会の窓から差し込む夕陽を眺め、僕は静かに目を閉じる。

 いつか、僕が神に召される日が来たら。

 その時は、またみんなで旅に出よう。

 もう、魔王討伐なんていう重い使命を背負う必要はない。


 ……そしてその時、僕の隣にいるこの少女も、きっと元の柔らかな笑顔で、姉の名を呼ぶに違いない。

 

「待っていてくださいね、レオーネ。……僕は、もう少しだけ、こちらで贖罪を続けてから向かいますから」


 僕は再びペンを握り、聖句の写本に勤しむ。

 傍らで、ミアが言の葉を紡いだ気がしたが、きっと、木々の葉を揺らした風のいたずらだろう。

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