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第4話:限界を超えたその先は――

 宣材撮影の待機スペースは、思ったより静かだった。さっきの審査より人が多いのに、ざわめきがない。メイク、スタイリスト、カメラマン――名札のない大人たちが行き交い、必要な動作だけを切り取って運んでいく。


「いよいよ始まるんやなって」


 桜は笑っている。緊張など欠片もしていないみたいだ。


「あんまり話しすぎないで、桜」


 返事の代わりに、レフ板が擦れる乾いた音がした。誰かがコードを束ね、誰かが足元のテープを踏み直す。小声の確認はあるのに、雑談だけが不自然なくらい削られている。

 壁際のモニターには、撮影済みの顔が一瞬ずつ切り替わっていた。少女たちが最も美しく見える瞬間だけが、無言で並ぶ。――これがプロの仕事。

 忙しないはずの現場なのに、参加者は撮影の順番が来るのを、妙にゆったり待っていた。呼吸の仕方まで、指示待ちみたいに揃っている。

 葵と白穂が舞羅の袖を軽く引いた。


「ねえ、舞羅ちゃん。ライトって、思ったより眩しいよ。目、乾くから瞬きしすぎないようにね」

「助かる」

「……あと、眩しいときは顎、少しだけ下げて。綺麗だから……変に力入れないで」


 その時、待機スペースに通る声が落ちた。


「次、写真撮影です。一番から十番の方は準備をお願いします。呼ばれた方から順に、右手のブースへ移動してください」


 言葉は丁寧なのに、内容は指示だけだった。空気が一段だけ固まる。誰も返事をしない代わりに、椅子の脚が鳴り、衣擦れが増えた。

 舞羅は反射で、自分の番号札に指を添えた。プラスチックの質感がつるりと指先を撫でた。

 隣で桜が小さく息を吐く。笑っているのに、いつもより声量は落としていた。


「ほな、行こか」


 桜は立ち上がり、荷物を持つ。その動作は軽やかで音がしなかった。しなやかな所作は手慣れていて、この場の静けさを壊さないまま、次の段取りへ移っていける。

 舞羅はその背中を追いながら、通路の端に貼られた矢印を視線でなぞった。右手のブースは白いパネルで区切られている。その区画の向こうに、ライトの熱だけが漏れている。


「――番、一ノ瀬桜さん」


 桜は小さく返事をして、スタッフへ「よろしくお願いします」と頭を下げる。声は張っていないのに、そこだけ澄んで届いた。距離感はほどよく、温かみがある。カメラマンが一度だけ口元を緩め、アシスタントが「こちらです」と声の端を丸くした。

 桜が白い部屋に入っていくと、待機側の時間が戻ってきた。誰かの髪を巻く音、パフで頬を押さえる音、ファンデの匂い。ひとつひとつは小さいのに、全部が「美しく撮られるため」の音だった。

 舞羅は椅子に腰を下ろしたまま、部屋の入口を見た。白いパネルの隙間から、ライトの熱だけが薄く滲む。光に囲まれる中、桜はどんな顔をするのだろう。普段の笑い方のままなのか、それとも別の“桜”が出てくるのか。それが少し楽しみだった。

 隣で葵が背を伸ばし、姿勢を直す。視線は入口に置いたまま、声だけを落とす。


「桜ちゃん、どうなるのか楽しみだね」

「そうだね。……葵は緊張しないの?」


 白穂が小さな声で、言葉を探すみたいに唇を動かした。


「……緊張、するよね。みんな」

「そりゃするだろ」


 舞羅が即答すると、白穂の肩がほんの少しだけ落ちた。否定されないだけで息がしやすい。白穂は皆が、こういうのに慣れていると思っていた。――アイドルを目指すなら、なおさら。

 白穂は膝の上で指先を重ね、爪の先をそっと撫でた。視線は入口に向けたままなのに、焦点だけが内側へ沈んでいる。


「私、さ……“綺麗”って言われるのは慣れてる。昔から、そう言われてきたから」

「うん」


 葵が短く相槌を打つ。肯定も否定もしない、続きを促すだけの声だった。


「でも、それだけでここまで来た気がして……。歌もダンスも、評価されたことはあるのに、最後に残るのはいつも“顔”で。……どう見せればいいのか、分かんない」


 白穂の声は細く、足場がないみたいに不安定だった。けれど、途中で笑って誤魔化すこともしなかった。言い切った瞬間、彼女の喉が一度だけ上下した。


「“綺麗”って、便利な言葉だよね。褒めてくれるけど、具体的じゃない。私が何をしたらいいか、誰も教えてくれない」


 舞羅は黙った。言葉の選び方を間違えたら、白穂の薄い心の膜に触れて割ってしまいそうだった。

 先に、紫音が言葉を探るようにゆっくりと呟いた。


「綺麗って言葉だけじゃ、どこがいいのか分からないよね。もっと褒めて欲しいなんて思っちゃうもの」

「……うん」


 白穂が頷く。頷き方が少しだけ素直だった。少しだけ素直なその仕草に、紫音がふっと笑った。紫音の笑みは派手ではないのに、空気の角を丸くする。白穂はそれを見て、ほんの少しだけ背中を丸めた。

 その瞬間、白いパネルの向こうでシャッター音が連続して鳴った。乾いた音が、一定の間隔で積まれていく。合間に、カメラマンの声が明るく響いた。


「目線いいね〜!そのまま、顎をちょっと引いて!そうそう、最高!」


 桜の声は返らない。代わりに、シャッター音だけが肯定みたいに続いた。ひとつの表情が定まる前に、桜は角度を変えて、次の顔を差し出す。切り替えても、目の光だけが同じ場所に留まっている。明るさが作り物に見えなかった。


「オッケー、次いこう。ちょっとだけ右肩落として〜……うん、それ!今の、めちゃくちゃいいね!」


 桜は流れるように身体の重心をずらしていく。カメラの前で“合わせる”というより、相手の欲しい像を先回りして置いていく――そんな撮られ方だった。

 数枚、テンポよく積み上げたところで、モニターにプレビューが並ぶ。カメラマンが椅子を半分引き、桜に場所を渡した。


「どの自分が一番可愛いか選んで!」


 桜はモニターを覗き込み、ほんの数秒で指を伸ばす。迷いがない。

 指先が止まったのは、少しだけ強い笑みの一枚。けれど全体は春の光みたいに柔らかい。


「これ。あと……こっち、ですかね」

「お、分かってる〜。俺もこれがいいと思ったよ。じゃあ、番組で使う君の写真はこれにするね!」


 桜は「ありがとうございます」とだけ言い、軽く会釈してブースを出た。

 白いパネルの向こうから戻ってきた彼女は、さっきまでの静けさを壊さずに、空気を少し明るくした。


「ただいま。皆で何話してたか、教えてや」


 舞羅達が労うより先に、桜は肩の力を抜いて笑う。その笑いが“平気”の合図になって、待機側の呼吸がひとつ緩んだ。

 同時に、次の名前が呼ばれる。


「三番、イ・ユウォンさん」


 音の流れが少し変わった。誰かが“綺麗”と言った子だ。言葉が先に立つほどに、本人は静かで、柔らかくて――どこか守りたくなる。

 ユウォンは立ち上がると、髪の毛先を一度だけ指で整えた。その仕草は努力で作ったんじゃなく、最初からそこにあるみたいな上品さだった。

 ユウォンの背が部屋の中へと消えていく。

 シャッター音が数回、短く跳ねた。


「いいね〜!そのまま、そのまま」


 明るい声が続くのに、返事はほとんど聞こえない。

 舞羅はパネルの向こうの声を聞き流しながら、白穂の言葉を待った。


「……綺麗なだけだと自信がないなって話をしてた」


『うん?』と桜は笑わずに首を傾げた。からかう時の軽さがない。


「白穂ちゃんくらい綺麗な子でもそう思うんや?」

「要するに、“綺麗”だけだと、どこをどうすればいいか分かんないって話だ」

「ああ、なるほどなぁ……」


 桜は少し黙った。普段なら、空気を明るくする言葉がすぐ出るのに、今は出てこない。からかいの笑みは消えていて、代わりに慎重に言葉を量る目をしている。褒め言葉の形をして、芯に触れる話だった。


「――私が思うって前提になるんやけど、白穂ちゃんは何もしなくても絵になってしまうんよ」


 “羨ましい”と言われる側の孤独を、桜はちゃんと見ている言い方だった。


「たしかに。白穂ちゃんって、“綺麗”の中身が多すぎるんだよね。だから言葉が追いつかないのかも」


 葵も納得したように頷く。白穂が抱えていた、説明できない息苦しさに名前がついた。


「……それは初めて言われた。じゃあ、私は写真を撮られる時はどうしたらいい?」


 白穂の表情は、人前に出ることに不慣れで、自信がなさそうだった。視線が定まらないまま、それでも逃げずに桜を見ている。

 舞羅は膝の上で指を組み直した。まだ、撮影は自分の番じゃない。それでも耳だけは正直だ。――答えは、白穂のためだけじゃない。自分のためでもある。

 桜はすぐに笑わなかった。白穂の顔を見つめ、声の角を丸くして続けた。


「まずな。“綺麗に見せる”って意識より、“何を伝えたいか”を一個だけ決めるんよ」

「伝えたい、こと……?」

「うん。たとえば、静かに強い、とか。優しい、とか。近寄りがたい、でもええ。白穂ちゃんは何を伝えたいん?」

「……可愛い、とか?私が笑うたびに、お母さんが可愛いって褒めてくれたから……」


 白穂は恥ずかしそうに目を伏せる。だが、口元には緩やかな笑みが浮かんでいた。その笑みが、さっきまでの“薄い膜”を少しだけ柔らかくする。


「ええやん。“可愛い”って、白穂ちゃんの強みやで」

「……強み?」

「うん。せやけど、“作った可愛い”じゃなくて、今みたいなやつ。ちょっとだけ照れて、目ぇ伏せて、はにかむ。私はそれが一番ええと思うで」


 舞羅はその言葉を頭の中で反芻する。強み。武器。――自分の“伝えたいもの”が、まだ掴めない。

 白穂は、返事の仕方を忘れたみたいに瞬きをした。肩に入っていた力が、すうっと抜けていく。そして息をひとつ落とす。

 膝の上で重ねていた指先が、ゆっくりほどけた。爪の先で布地をなぞり、それから――言われた通りに、軽く微笑んだ。

 口元だけが先にほどける。唇の端がふっと持ち上がって、そこから遅れて頬に淡い熱が差す。撮影用の光が届かない待機スペースでも、彼女の白い肌が少しだけ柔らかく見えた。


「……こういうの?」

「そう、それ!今の、めっちゃええ」


 桜が即答して、今度はちゃんと笑った。それもとても嬉しそうに。紫音は口元を押さえたまま、白穂を見て小さく頷く。


「今の、すごく良かった。無理してないのに、ちゃんと可愛い」


その一言が、白穂の頬の熱を肯定するみたいに残った。


「可愛い……。白穂ちゃん、今ので撮ってほしい」

「……やめて」


 白穂は小さく抗議したのに否定の強さがない。照れが混じって、また目を伏せる。

 舞羅はそれを見て、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。羨ましさとは違う。できるかもしれないという、薄い希望に近い。

 薄い壁の向こうで、シャッター音が途切れた。

 次いで、布が擦れる音。椅子を引く音。スタッフの短い挨拶。

 そして、待機スペースに通る声が落ちる。


「十六番、百目鬼舞羅さん」


 舞羅は反射で背筋を伸ばした。

 指先が番号札に触れたまま、一度だけ深く息を吸う。肺に入る空気は冷たくないのに、喉が少し乾く。


 ――何を伝えたいかを、一個だけ。


 舞羅は立ち上がりながら、頭の中で言葉を探した。強い。刺さる。男っぽい。いつも言われるそれを、ただ削ればいいわけじゃない。削るんじゃなくて、矛先を――丸める。

 桜が小さく親指を立てる。紫音が「頑張ってね」と呟きながら、舞羅の背をひと撫でした。葵が「いってらっしゃい」と唇だけで言う。白穂はまだ頬を赤くしたまま、それでもちゃんと目を上げて頷いた。

 舞羅は白いパネルの隙間へ歩き出す。向こう側から漏れてくるライトの熱が、今度はまっすぐ肌に触れた。



───



 シャッター音が、二枚で止まった。さっきまで途切れなかった連写のリズムが、舞羅の前で息を切らす。


「うん……悪くない。悪くないけど……」


 カメラマンがモニターを見ながら首を傾げる。舞羅は笑おうとして、口角だけが引きつった。


「舞羅ちゃん、表情が固いね〜」


 責める響きではなかった。ただ事実に触れて、緊張を解こうとする声音だ。

 舞羅は「すみません」と言いかけて、飲み込む。謝った瞬間に、また硬くなる気がした。


「真っ直ぐ吸い込まれる感じの目がいいね。ただね……」


 カメラマンは液晶を指先で軽く叩く。


「“強さ”が前に出すぎて、近寄りにくい雰囲気になってる。普段からこんな感じで力が入ってるね」


 言われた言葉に心当たりがいくつも思い浮かんだ。

 強い。刺さる。男っぽい。――舞羅に向けられてきた評価は、いつも似た形で置かれていく。


「ごめん、否定じゃないよ。むしろ武器。ほんとに綺麗」


 カメラマンは言い添えるみたいに笑って、手をひらりと振った。


「だから、ちょっとだけ柔らかくしたい。たとえば、目をほんの少し開くとか、口角をちょっとだけ上げるとか。それくらいの変化」


 舞羅の中で、その言葉が反響した。白穂に似合う表情があるなら、自分にも――きっと、ある。


「じゃあいくよ。顎はほんの少し下げて。肩の力抜いて〜。息もゆっくりして……うん、そう」


 舞羅は言われるままに身体を整える。指示の通りに精密に。


「前より良くなってる!その調子でもう一枚撮ってみよう」


(思っていたよりも難しい)


 口角を上げて、目を開く。言葉だけなら簡単なのに、身体に落とすと途端に作りものっぽくなる。舞羅はどうすればいいのか迷って目を伏せた。


「……!いいね、今の。その方向で一旦撮ってみてもいい?」


 カメラマンの声が軽くなった。胸の中のつっかえがふわりと浮いた気がした。


「笑わなくていい。無理に口角上げなくていいよ」

「……え」


 舞羅は顔を上げた。ライトが頬の骨を拾い、影が一瞬だけ薄くなる。


「顔の力を抜くって分かるかな。脱力じゃなくて必要な分だけ力を残す感じ」


 舞羅は一度だけ瞬きをして、頷きかけて止めた。分かる、とは言えない。でも分からない、とも言い切れない。


「今の舞羅ちゃん、全部の筋肉が“戦闘態勢”なんだよね」

「……戦闘」


 心当たりしかない。無意識に力を入れていた。


「俺はこの状態を顔の余白が狭いって言ってるんだけど……今、自分でも“詰まってる”って感じしない?」


(詰まってる感覚……たしかに、言われてみればそうなのかもしれない)


 舞羅は静かに頷いて、次の言葉を待った。


「まず、眉間だね。ここにシワが寄ってる。次は顎。噛んでない?奥歯はくっつけない」


 舞羅は言われるまま、歯の間に空気を通した。顎の奥が緩む。


「そう。で、口角を上げるんじゃなくて、唇の力を抜く。口元を“閉じたまま柔らかく”」

「……閉じたまま」


 力の抜き方が分かった瞬間、硬さの理由まで剥がれていった。

 続けて、光が飛んだ。シャッターが止まらない。乾いた連写が空気を刻む。


「いい。今のまま、動かないで。……そうそう、目線だけ少し上げて、この印を見て」


 舞羅は息を吸って、吐く。吐く息の温度に合わせて、肩の位置がわずかに下がった。笑っていないのに、拒む感じが薄れる。新しい自分を受け入れるような感覚だった。


「もう一枚撮ろう!」


 光がまた弾ける。まぶしさで目を固くしそうになるのを、舞羅は一度だけ堪える。


「そうそう、いいね!」


 その言葉で、舞羅の胸の奥が少しだけ熱くなる。どんな写真が出来上がるのか――楽しみだ。


「最後、手を少しだけ。顎の下に添えて……そうそう。指先は力抜いて。いいね、めちゃくちゃ絵になる」


 舞羅は言われるまま、黒い袖口の先で指を折りたたむ。支えるのではなく、触れているだけにする。


「オッケー!今ので一回見てみようか」


 カメラマンが椅子を引き、画面を舞羅に向ける。

 画面の中にいたのは、舞羅だった。いつもより少し遠い場所にいる自分だけど、近寄りがたくない。笑っていないのに冷たくない。不思議な心地だった。

 舞羅は無意識に、モニターへ顔を寄せた。


「これが……私か」

「そうだよ〜。どうかな?」


 舞羅は言葉を探して、見つからずに頷いた。頷いた拍子に笑みがこぼれる。緩んだ隙間を埋めるような微笑みだった。


「どれがいい? 選んでみて」


 カメラマンが指先で数枚を切り替える。似ているのに、どれも微妙に違う。目の奥の熱、頬の影、唇の線。その差が、今は分かる気がした。

 舞羅の選択は最後の一枚だった。


「……これがいいです」

「オッケー。いいとこ選ぶね。じゃあ、これで決まり」


 最後の言葉が落ちた瞬間、舞羅の背筋が丸まった。葵達の元に戻る足取りが心なしか、ここに来た時より軽い。


 ――伝えたいことを、一個だけ。


(私が伝えたいのは……)


 舞羅は、言葉の形になる前のものを心で掴んだ。喉の手前で揺れる“強さ”じゃない。腹の底に沈んで、動かないもの。

 ここは選別される場所だ。比べられて、削られて、それでも前に立たされる。落ちるかもしれないのに、逃げないと決めた。その時にだけ残る温度。


 ――逃げない覚悟。やりきる覚悟。


 そう思った瞬間、さっきの写真の目が、ただの“柔らかさ”じゃなかったことに気づく。柔らかく見えるのは、譲らないものをもう持っていたからだ。

 戻ってきた舞羅を見て、桜が何も言わずに手を振った。葵が笑って、紫音が労う。白穂が小さく息を吐いた。――それだけで、今日はもう十分だと思えた。



───



 数日後。

 黎元市れいげんし・都心部。


 休日の雑踏は一人で歩く時とはまた違うものに見えた。隣に誰かがいるだけで、こうも変わるのかと舞羅は思った。ガラスの映り込みに、昨日までいなかった“自分以外”が並ぶ。

 待ち合わせの場所は、駅前の広場だった。人の流れが途切れず、立ち止まっていると肩が軽く触れ合う。舞羅は少しだけ壁際に寄り、柱の影に身体を預けた。


 スマホの画面には、葵からの短いメッセージが一つ。


『おはよう、舞羅ちゃん。もう少しで着くから待ってて』


 相変わらず、人に向ける好意を隠さない真っ直ぐな言葉だ。舞羅はデフォルメされた竜の「おはよう」スタンプを押し、「待ってるから急ぐなよ」とだけ返して画面を閉じた。


 ——どこに立てば、葵達が見つけやすいか。


 そんなことを考えている時、背後で足音が重なった。二つ、三つ。きっと彼女達だ。


「舞羅ちゃん!」


 先に声が届く。葵だった。人混みの中でも迷わない声量で、いつものように名前を呼ぶ。舞羅が振り向くより早く、葵は横に並んで、安心したみたいに手に触れてきた。


「おはよう!ふふ、今日のお出かけ楽しみにしてたんだ。お姉ちゃんも眠れなさそうにしてたんだよ」

「ちょっと……それは言わなくていいから」

「舞羅ちゃん、おはようさん。私ら楽しみでちょっと気合い入れてみたんや。オシャレやろ?」


 桜がひらひらと手を振ってアピールする。スカートの裾が風を掬って、朝の光をひとひら散らした。髪もいつもより丁寧に巻かれていて、艶がある。


「ああ、似合ってる。すごいな」

「やろ?」


 舞羅が短く言うと、桜は満足げに頷いた。立ち話をしながらもう一人を待つ――白穂だ。

 駅前の人波は途切れない。背丈の違う影が横切り、ガラスの反射が次々に塗り替えられていく。舞羅はその中で、白く目立つ彼女を探す。

 スマホが短く震える。


『着いた。どこ?』


 白穂からのメッセージ。文字は少なく、余計な感情がない。けれど、その短さの中に“迷ってる”が見えた気がして、舞羅は指先で返信を打つ。


『入口の柱の横。黒い服のやつが私。迷ってるなら迎えに行く』


 送った直後、紫音が横が肩越しに画面を見て、「白穂ちゃん?」と小声で聞いた。


「迷ってるみたいだから迎えに行こうかと思う」

「あら。じゃあ、私も行く。葵、桜。白穂ちゃんを迎えに行くからここで待ってて」

「ほな、白穂ちゃん来るまでにご飯何にするか二人で決めとこ。ご飯は絶対やろ?」

「甘いのも食べられるところ探しておくね!」


 舞羅はスマホをポケットに戻し、足先を入口の方へ向けた。人の流れに逆らうと、肩がぶつかりそうになる。ほんの少しだけ速度を落として、周囲の空気に馴染むように歩く。

 隣で紫音がついてくる。歩幅を合わせるのが上手い。舞羅も合わせるように歩調を緩めた。


「白穂ちゃん、人混み苦手そうだったものね」

「ああ、何となく分かる。私も好きじゃない」

「それを言ったら、私も苦手よ」


 近くにいるのは間違いない。柱、案内板、改札の表示。頭の中で地図を組み立てるみたいに、人の流れの“薄いところ”を探した。

 白穂はきっと、そこにいる。


 ――いた。


 柱の少し奥。人が避けて通る隙間に、白い影が立っていた。目立つのに、誰とも接触していない。遠目でも分かるくらい、そこだけ時間が遅かった。

 スマホを片手に、もう片方の手でバッグの紐を握っている。真剣に辺りを見渡して――近づくにつれて、視線がこちらへ滑った。目が合う。

 名前を呼ぶと、白穂は顔を上げた。視線が舞羅に合って、次に紫音へ移る。そこで、ほんのわずかに表情が緩んだ。


「白穂、おはよう」

「うん、おはよう。舞羅。紫音もおはよう」

「白穂ちゃん、おはよう」


 白穂は二人を見比べてから、少しだけ肩の力を抜いた。バッグの紐を握る手が、さっきより浅くなる。


「迷ったか?」

「……少し。人が多くて、目印が分かりにくかった」

「それはしょうがないわ。ここはいつも混むもの」


 紫音が軽く笑う。白穂は否定もしないまま、頷きだけを返した。そして、視線を一度だけ足元に落としてから、また舞羅を見上げる。


「……今日、みんなで行くって聞いて、少し緊張してた」

「そう?白穂ちゃん、いつも落ち着いて見えるけど」

「意外と緊張するよ。誰かと仲良くするのは久しぶりだから」


 正直な言い方だった。昨日の待機スペースの続きみたいに、言葉を飾らない。舞羅はそのまま受け取る。


「私もそうだったから、気持ちは分かる。……さ、行こうぜ。桜に何か文句言われたらうるさいぞ」

「ふふ、そうね。……じゃ、戻りましょ。二人が待ちくたびれてるわ」

「じゃあ、早く行かないとね」


 白穂は笑わないまま、けれど眉のかどだけがほんのわずかに緩む。表情の変化は小さいのに、分かる程度には柔らかい。

 歩き出せば行きと同じ道のはずなのに、戻る時は少しだけ短く感じた。人波に逆らわない速度で進むと、白穂も遅れずついてくる。白穂の歩幅に合わせて、二人が左右についた。

 数歩先で、葵の声が飛んできた。


「舞羅ちゃーん!こっちこっち!」


 人混みの中でも真っ直ぐ綺麗に届く声。舞羅が顔を上げると、葵が手を振っている。その隣で、桜が両手を腰に当てて待っていた。


「みんな、揃ったことやし行きましょか」


 桜の一声で、止まっていたものが動き出す。

 葵は手を振り終えるとすぐ舞羅の隣まで来て、安心したみたいに顔を覗き込んだ。


「白穂ちゃんもおはよう!もうこんにちはの時間だけど」

「うん。おはよう、葵。ご飯行くんでしょ?もう決まってるの?」


「決まってるよ。甘いものがあるところ!」


 葵が胸の前でスマホを掲げる。地図アプリのピンが、駅前の通りを一本越えたところに刺さっていた。

 舞羅は画面を覗き込み、店名より先に写真を見た。パステルカラーの外壁。ガラス張りの窓。木目のテーブル。皿の上に盛られたオムライスと、小綺麗なショートケーキ。


「……ちゃんとしてるな」

「でしょ。洋食もあるし、ケーキも種類多いって」

「最高やね。ご飯のあとにケーキって贅沢やで」

「食べすぎないようにしてよ、桜」


 笑いながらも紫音が、桜をたしなめるみたいに言う。桜は「分かってますよ〜」と肩を竦める。白穂も葵の手元を覗き見て、ぽつりと言葉を落とした。


「この時間だと人が多いかもね」

「予約はできないけど、回転早いって口コミにあったよ。ね、行こ!」

「ほな、決まりや。案内は葵に任せた!」

「任された!」


 葵に続く形で皆が歩き出す。五人で歩くと、駅前のざわめきが背中へ回った。通りを一本越えるだけで、匂いが変わる。焼き菓子の甘さと、コーヒーの苦さが混ざって漂ってきた。

 角を曲がると、目的の店が見えた。写真で見た淡い色の建物。ガラスが陽光を拾ってきらりと輝き、窓の向こうに木目のテーブルが並んでいるのが見える。入口の黒板には、ランチとケーキの名前がぎっしり書かれていた。

 扉を開けると、鈴が控えめに鳴った。店内は明るいのに、騒がしくない。皿の触れ合う音と、フォークがカップに当たる音。会話は小さく、柔らかい。


「いらっしゃいませ。五名様ですか?」

「はい」


 通された席は窓際だった。白穂が少しだけ息を吐いて、窓側に座る。舞羅は自然と隣に腰を下ろした。

 メニューを開いた葵が、目を丸くする。


「見て……ケーキ、こんなにある!しかも季節限定って……!」

「ほんまや。ショーケース見に行きたいレベルやな」

「先にご飯よ。先に」

「分かってるって。分かってるけど……見て、メニューの料理も沢山あるんだよ」


 葵の指先がメニューの端から端へ忙しく跳ねる。文字を追うたび、瞳が少しずつ明るくなる。その横顔は、さっき駅前で見た“安心した顔”より、もっと子どもっぽい。


「舞羅ちゃん、どれにする?……全部おいしそう」

「……一旦、落ち着け」

「落ち着いてる!ほら、ランチセットにケーキ追加できる……!」


 白穂も同じように目を輝かせて、口元を緩める。その緩みは声に出す前に一度だけ引っ込む。嬉しいのに不器用ながら、言葉を探しているような迷い方をしていた。

 それを見逃さず、紫音が微笑んだ。


「白穂ちゃん、甘いの好きだったのね」

「……嫌いじゃない」

「そうね。私も好きよ」


 紫音の言葉に、白穂は小さく頷いた。頷き方は控えめなのに、目はまだメニューの写真に引っかかっている。


「……じゃあ、まずご飯決めよ。ケーキは後で、ね」

「うん……後で。約束」


 二人の間に小さな笑いが落ちて、張っていた空気がほどけた。それから、昼食に何を食べるか――メニューの海に指先が戻る。

 各自で決まった瞬間、紫音が自然に手を挙げた。


「すみません、お願いできますか」


 角のない言い方で、店員の足取りまで柔らかくなった気がした。


「ご注文、お決まりでしょうか?」


 こちらにやって来た店員が、ペンを構える。


「ローストビーフのセット、お願いします。ドリンクはブラックで」

「私はオムライスのセットと、季節限定のケーキ。ドリンクはアイスのカフェラテでお願いします!」


 舞羅が先に言って、葵が勢いよく続けた。


「カルボナーラのパスタにフルーツパンケーキを一つずつ。パンケーキは食後で」


 桜が軽く手を挙げる。


「野菜たっぷりのサンドイッチのプレートを。紅茶はホットで」

「……グラタンのセットを一つ。ミルクティーはホットでいちごのタルトを食後にお願いします」


 紫音が落ち着いた声で、白穂は小さく言い切った。


 「かしこまりました」


 復唱のあと、店員は一礼して離れていった。

 数分もしないうちに、出来たての料理の香りが近づいてくる。

 トレイがテーブルの上を滑るみたいに移動して、料理が一気に並んだ。艶のあるローストビーフ。ふわりと卵が乗ったオムライス。白いソースが絡むパスタ。野菜の色が濃いサンドイッチ。表面がこんがり焼けたグラタン。湯気が立ち、香りが先に空腹を刺激する。


「いただきます」


 誰かの小さい声に合わせて、五人の手が同時に動き出す。金属が皿に触れる音が重なり、店内の穏やかな雑音に溶けた。

 ローストビーフは柔らかく、噛むほどに甘みが出る。オムライスは卵がほどけ、バターの匂いが広がった。グラタンの熱が白穂の息を一度だけ止め、けれど次の瞬間、目だけが少し明るくなる。サンドイッチは野菜の歯触りが心地よく、パスタはクリームの重さが舌に残った。

 舞羅は黙って噛んで、飲み込む。隣に誰かがいるだけで、食事の輪郭がはっきりする。皿の上に、“今日”が彩られていく。


「そういや、舞羅ちゃんって、なんでアイドルになろうって思ったん?」

「ん?……色々とある」

「その色々が聞きたいんよ、私らは」


 桜の目は冗談みたいに笑っているのに、逃がさない強さがあった。舞羅はスプーンでソースを掬う手が止まる。一度だけ水を飲んで、言葉を慎重に選んだ。


「……いや、なんて言うか私も含めてだけど、疲れてるよな」

「例えば?」

「……会ってても孤独そうなやつが増えた。現実より、画面と向き合う方が息がしやすいって顔してる」

「……VRとか?」

「そう。あとは……常に不安にさせられてる状況が続いてる。災害も、街も、人も。明日が来る前提が薄い」

「もう2048年なのに大変だよね〜」

「ああ。そういうのに疲れてるからアイドルが重視され始めた……ってこの話は、お前らの方が詳しいか。なにせ、事務所の練習生やってるもんな」


 舞羅は言い切ってから、ローストビーフを一口食べた。味が甘いのに、喉に残るのは別の苦さだ。


「詳しい側になった途端、余計しんどい話やけどな」

「それでもアイドルやろうってなったんだから凄いと思う」

「舞羅ちゃんは、なんでこっち側に来たん?」

「後悔があるから……あの時の“もしも”の続きが見たい。それだけだ」


 舞羅はそれだけだ、と言い切った。言い切ったはずなのに、心の中で言葉が続きそうになる。

 “もしも”の続きを知っているのは、自分だけだ。――だから、ここにいる。


「舞羅、練習生やってたの?」

「舞羅ちゃん、それ本当!?」


 白穂が僅かに驚き、葵は舞羅の方へ顔を向けた。舞羅は一拍置いて、口元と指先をナプキンで拭いた。視線は皿のまま、声だけを落とす。


「違う。練習生っていうか……ダンサーで入ってた。裏方寄り」

「裏方?」

「ステージを作る側。踊る方でもあるけど、“売る”側じゃない」


 葵がぱちぱちと瞬きをする。興味が引っかかったまま、逃がしてくれない顔だ。


「でも、事務所にいたんだよね?じゃあ……アイドルの近くには、ずっといたってこと?」

「いた。それを見てもアイドルになりたいとかはなかったけどな。……少しだけ、交流させてもらってたアイドルの奴が、事故に遭うまでは」

「それが後悔なん?」

「……まあ、そうなるのか。もし、私が近くにいたら――何かが違ったのか……って考えるようになってからは、そればっかりだったよ」

「なんか、意外かも」


 紫音が驚く。しかし、茶化すような言い方じゃない。


「意外でも何でもない。今のアイドルって……“職業”ってより、“天上人”だろ。近くにいるのにどこか遠い」

「まあ、実際にお空の上に住み始めてもうたからなぁ……」

「“浮遊島ふゆうとう”のこと?」


 白穂が窓の方を向いて言う。ガラスに映る空は薄く、遠い。そこに島があると知っているだけで、目線の高さが変わる。


「私たちもそこにいつか住むかもしれないよ?」


 葵が笑いながらケーキをつつくが、言い方は冗談みたいに軽い。けれど、その冗談がもう冗談じゃない時代になっていた。

 浮遊島は、いつの間にか「成功のご褒美」じゃなく「制度」になった。国の補助と優遇で、一定規模の事務所には居住区画が割り当てられる。選ばれたアーティストは、地上の雑音から切り離されて暮らす――守るため、という名目で。

 住まわせる側にとっては管理がしやすく、見せる側にとっては象徴になる。島に上がること自体が、価値の証明みたいに扱われた。

 舞羅は甘さが一切ないコーヒーを飲む。


「……住む、か」

「うん。まだ“かもしれない”だけどね」


 葵はフォークを止めずに言う。


「でも、そこを目指してるのは本当」

「ふふ。目指す場所が空にあるって、変な話よね」


 紫音がぽつりと落とした。続けて桜が揚々と次の話題を切り出した。


「島に上がったら、色んなことから守られる代わりに“象徴”になるんよ。それが一人前のアイドルの証って皆、目指してるしな。そやろ?紫音」

「ええ、そうね…………でも、最近デビューした先輩たちの曲、少し似てない?」

「そうなんだよねー……私たちもデビューした時に、聴いてて楽しくならない感じのコンセプトになるのかな?」


 葵が悩ましそうにうんうんと唸った。その声にテーブルの上の空気が少しだけ沈む。

 舞羅も、その“似ている”を知らないわけじゃない。ここ数年の新曲は、耳に残るフレーズより先に、安心する形だけが整っている。炎上しない言葉、角の取れた振付、誰の人生も揺らさない物語。

 それは悪ではない。けれど、誰にも刺さらない“何か”になりつつあった――


 舞羅は食べ終わった皿を端に下げる。フォークを置き、黒いコーヒーで喉を潤した。


「正直に言うとつまんないよな。象徴のはずのアイドルが、皆似たようなブランディングってどうなんだよ」

「容赦ないな!……私らはあんまり大きな声で言えんことやわぁ」


 舞羅の声は低いのに熱かった。言葉が出た瞬間、自分でも抑えが効いていないのが分かった。あの時助けた“Review”は量産的な曲や踊りは一つもなかった。


(案外、あの時のお前らのこと――嫌いじゃなかったんだな)


 舞羅はこの時、やっと自分の感情に名前を残せた。

 葵がフォークを皿の上に置く。口の端ついたクリームを拭って、真っ直ぐに顔を上げる。


「……うん、私も思ってた。つまんない、って言い方は乱暴だけど“安全”ばっかりは面白くない」

「葵?」


 紫音が不思議そうに呼びかけた。葵は少しだけ笑う。いつもみたいな明るさのまま、意志を伝えた。


「私、元気になれるために聴きたいのに、最近の曲って“怒られないため”に作ってるみたいなんだもん。刺さらない。心に響かないよね」


 その言葉が落ちた瞬間だった。

 舞羅の視界の端に薄い光が滲んだ。――目の前の誰にも見えないはずの、青いログ画面。まばたきの裏に貼り付くみたいに浮かび上がった。



【ログ更新:共鳴深度】

対象:藤崎葵

深度:52% → 65%

状態:同期未完了

備考:感情同調(高揚/同調)を検出



 画面は淡く揺れて、すぐに半透明へ戻った。

 舞羅はカップを握る手に、無意識の力が入っているのに気づいた。


「……お前、そういうこと言うんだな」

「言うよ。私、ふわふわしてるって思われがちだけど、嫌なものは嫌って思うし。……それに」


 葵は少しだけ身を乗り出した。


「私たちが島に上がって、“象徴”になるなら。せめて、象徴にふさわしい“何か”を持ってたい」


 その時、舞羅の心臓がほんの少し鼓動を大きくした。

 胸の前――呼吸のたびに僅かに上下する空間に、小さい光がひとつ浮いた。火花にもならない。弱々しく、淡く、今にも消えそうな粒だった。けれど、見間違いだと切り捨てるには、あまりにも美しい色を放っている。

 視線だけでその光を追う。指で触れようとして、やめる。触れられるはずがない。触れた瞬間に壊れてしまいそうで、息すら浅くなる。



(……これが)


 喉の奥まで出かかった言葉を、葵が代わりに音にした。


「……ソウルシードだ」



【反応:ソウルシード検出】

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