女を殴る男は最低だ
バツンッ!!
鼓膜の破れるような凄まじい音。
次の瞬間には頬と頭、そして躰全体が痛かった。
痛み、熱を持つ頬、打ち付けられた側頭部と躰。
わたしは少年にぶん殴られたのである。
痛みに目を白黒させると同時に星が視界に飛んだ。
あ、星ってホントに飛ぶのか。
というか、女を殴る男なんて最低だ!
最低! わたしは何を考えているのかしら。
今、自分が何処にいるのかさえ、あやふやでフワフワと浮ついた感覚。
日本人の私と、聖国人のわたしの意識が、記憶が、全てが混ざり合ってマーブル状のお菓子みたいにドロドロに溶けていく。
指先一つ、表情一つ動かせず、固まったままの私の視界の先には少々どころかかなり肥満の、言葉を選ばずに言えばアメリカや中国も驚くほどデブな少年がいた。彼の興奮しているけれど少し怯えた表情が、次第に不安と恐怖に塗り替えられていくさまが見える。
アメリカ? 中国?
それって何かしら。
何も、言葉を発することが出来ない。思考の加速が止まらず、まるで世界が一つの写真みたいに停止して見えた。強烈な既視感、これってデジャビュ?
少年の顔に見覚えがある。デジャビュ。素晴らしき我が聖国の名に違和感を。デジャビュ。少年にぶたれて落ちた椅子の、あまりのアンティークさに笑いが込み上げた。
記憶が、意識が、混線する。
わたしが転げ落ちるのと同時に割れたティーカップ。白い陶器の破片が散らばって、真っ白なテーブルクロスからは赤に似た紅茶の液体がポタポタと滲んで垂れた。
大きなガラス窓に白いレースカーテン。大理石に似た石の床。所々に敷かれている絨毯。少年のコスプレみたいな西洋の服に笑えない焦りを感じる。フリルだとか、レースだとか、軍服みたいに硬そうな上着、じゃらじゃらとした飾り。冗談でしょ。
なんて時代遅れ!
今時、こんな服じゃ、地方は勿論、東京だって歩けやしない。
椅子も机も窓も床も全てが古めかしくって、まるで映画の世界。
躰が芯から冷えた。皮膚だけが熱を持っている。
……怖い、怖い!!
ここは何処だ、私は何でこんなところに。
違うわ、分かってる。早くシャグラン様に謝らなければ。
この少年にぶたれたんだ。酷い。お城のティーカップを割ってしまった。
痛い。何か言わないと。文句を、いや、謝罪を、頭が、燃える。熱い。
熱い!!
「ぁ……」
「ジ、ジルベール……?」
少年の恐れを含んだ声を最後に、私の意識はパタリと途絶えた。
■■■
新しいゲーム機に、新作の乙女ゲーム。
記憶の中の私は、それはもうワクワクした心地でそれをプレイしていた。
【教会内には、早朝にも関わらず何人もの敬謙なる信徒がいた。パン屋の主人から学生、ご老人の夫婦まで。年代はバラバラだ。その中でも魔術學園の制服を着た女学生が熱心に祈っているのが目に入る。私は扉をそっと開いた。彼らの祈りを妨げないよう、端の方にある長椅子に腰掛ける。】
主人公であるヒロインは、幼い頃から教会で暮らすシスターだ。
ヒロインはゲームの中で重要な役割として描かれる【聖刻】を幼い頃から宿しており、その為教会に保護されていた。そしてゲーム開始と同時に、緑の瞳が聖刻色に変わったことから、【聖刻の乙女】として否応なく物語の渦中へと飛び込むことになるのだ。
ヒロインは【聖刻の乙女】として守護騎士を目指す幼馴染と共に国を揺るがす事件を追っていくというあらすじ。
性格は、穏やかで愛情深いが少々頑固なところもある、感情移入しやすく選択肢もヘンに突飛じゃないから良かった。
【???「きゃっ!」
突然、後ろから少女の小さな悲鳴と物音がした。驚き、私は咄嗟に振り返った。目に飛び込んだ光景に思わず目を丸くする。幾つもの書物に紙束を持った少女がそこには居た。どうやら転げてしまったらしい。】
(共通ルートに出てくる眼鏡っ娘だ。)
彼女はお話の都合上、必ず登場する脇役なのだ。
『わあ! 急がなくっちゃ! シャグラン様に叱られちゃう!』
これが彼女の初登場セリフである。
シャグランは彼女の婚約者で、物語中盤の悪役だ。そして彼女は婚約者から虐められている不憫な脇役。悪役を倒した後にヒロインが黒幕へ至るヒントを与える存在。
(シャグラン様?)
どこかで聞いたことのある名前だ。いや、ゲームの登場人物の名前なのだけれど、わたしの婚約者の名前で、違う、ゲーム中盤にやられる太った悪役の名前だ。
(まって、私は、わたしは何を見ているの?)
目を閉じていないのに、目の前が真っ暗になる。視界に残る乙女ゲームの鮮やかな色が、ぐにゃぐちゃに混ざり合って、記憶と記憶が癒着する。
私とわたしが分離して、撹拌されて、有り得ない速度で溶け合って……。
私の意識は一つになった。




