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Ep1. 消せないこと・消えないこと

──そう、あなたは『やってしまった失敗』についてもやもやしているのね。


うん、焦りのような、苦しいような……そんな感覚があるのね。

大丈夫。少しづつ歩み寄っていきましょう。

そのもやもやは、あなたの心の中にある。

でもきっと、あなただけの苦しみではないわ。

ふふ、本当よ?

ちょっと覗いてみましょうか。


──鏡よ鏡。あなたに寄り添う物語を、どうか映して(視/観/診/魅)せて?

 

 終電を逃した街は、妙に素直だった。

 派手な色合いの看板は疲れを隠さず明滅している。風は止まりどころを知らずに冷たく吹き荒んでいた。

 街中の音は少なく、しかし遠くのサイレンはよく響いている。

 月も雲に隠れた夜はもの悲しく、素っ気ない。


 とある会社で営業として働く男──記人(のりひと)はコンビニの前で立ち尽くしていた。

 目前のガラス面にうっすらと映る自分の顔を見て、彼は息を吐く。

 重い吐息は白く変色し、ガラスを小さく曇らせる。

 ジワリと浮かんだ歪で白い丸は、乾いた冷たい風に攫われてじりじりと縁を狭めていた。

 時の流れと共に、ガラスは元の透明さを取り戻していく。


 それを見る記人(のりひと)の表情は、一層曇りを増していた。すっかりクリアになったガラス面とえらい違いだ。

 彼は懐からスマホを取り出し、数タップして耳に当てる。

 少し待てば、プツリと繋がる音がする。


「……やったな。完全に、やった」

「……何を?」


 電話向こうの同期は眠た気な声音で端的に尋ねた。


「資料、差し替え忘れてた。相手先の前で古い数字を出した……ドヤ顔で」

「あらら……ふっ、それはやったね」

「笑うな。いや笑っていい、俺も笑いたい。笑えないから困ってる」


 記人(のりひと)の声には覇気が無かった。

 同期は欠伸を一つ挟む。


「で、上司に言ったの?」

「言った。『明日朝イチで謝罪と再提出します』って」

「よし。お前のことだから準備は終わらせてるんだろ」

「ああ」

「じゃあ、もうやることは?」

「ない」

「なら帰って寝ろ」

「寝れない」

「寝ろ」

「寝れないって」

「なら俺が寝る」


 同期はそう言って通話を切った。

 ツーツーと無機質な音を垂れ流す黒い画面。記人(のりひと)はじとりと睨んだ。

 かといって、スマホが気を遣って話し始めることもない。のろのろと胸ポケットに戻し、空いた指先でこめかみを押した。

 失敗は、時間が経つほど味が濃くなる。派手な味は顔を顰め、頭痛を引き起こす。

 反省という名の煮詰め汁で、脳みそが煮立っていた。

 ジクリと、こめかみの奥が痛む。


「……やってしまったことは、消えない」


 今更な事が漏れ出る。声に出すと、肩がさらに重くなったようだった。

 ガラスに映る顔が卑屈に歪む。見ていて気分のいいものではない。

 胸が不規則に踊り、ドクドクと耳の奥を叩く。呼吸は自然と浅くなっていく。


 今日は寝れそうにない。


「ああ、くそ……」


 記人(のりひと)は重いため息をひとつ落とした。

 その時、沈もうとした視界に光が差し込んだ。目前のガラス越しに、背後の景色が霞んで映っていた。


「なんだ……?」


 ぬらりと振り返ると、影の降りた裏路地が目に入る。

 壁伝いに張り巡らされたパイプ群の奥に、小さな光が浮かんでいた。

 看板だ。

 小さな看板の光は遠目でもなお薄暗く、辛うじて『回』と書かれているのが読み取れた。

 他の文字は影で潰れて見えない。


 隠れた文字が気になってか、あるいはただの現実逃避か。記人(のりひと)はフラフラと歩き出し、裏路地の灯りに吸い寄せられた。

 近くによれば、古本屋のような装いの扉がひとつ。

 中から明かりが漏れ出している。


「飲み屋、ではなさそうだな……こんな時間に開いてる場所、逆に怖いな」


 怖いと言いながら、記人(のりひと)はその場を離れない。首を回して扉を様々な角度から観察していた。

 そのまま、看板の文字を確認することも忘れ、好奇心に従って扉を押す。

 予想以上に重い扉がゆっくり開くと、同時に鈴が鳴った。

 ガランガランと、古めかしくも派手な音だ。

 急な音にビクつく記人(のりひと)の鼻に独特の匂いが届く。

 覚えのある匂いだ。会社で馴染みのある、紙の束の匂いだった。

 店内は明るく清潔で、天井から白い札がぶら下がっている。


 ──『回顧局 夜間窓口』


 そう、書かれている。


「……役所?」


 自分で呟き、内心で否定する。

 お役所がこんな夜中に営業している筈がない。冗談だと思って顔だけ外に出し、改めて裏路地に浮かぶ看板を見上げた。

 確かに、回顧局と書かれている。


「……なんだそれ」


 聞いたことも無い名前だが、何らかの局ではあるらしい。

 記人(のりひと)は首を傾げながら顔を戻した。

 中は白い蛍光灯に照らされていて明るく、内装はキッチリと整列している。壁沿いに整然と並ぶ棚。BARのカウンターを思わせる横長の机。入り口とカウンターの間に素っ気なく立つ発券機。

 町内の郵便局や銀行を思わせる作りは、なるほど役所と言われても違和感のない内装だった。


「──いらっしゃい。番号札は取った?」


 カウンターの奥から業務的な声が響いた。

 小さく、そして澄んだ声だ。


「……取ってないです」

「じゃあ取って。ここ、役所だから」


 声の主はカウンター奥にある棚の影から姿を現した。

 艶のある茶色の髪と、濃い琥珀色の瞳を備えた少女だ。

 肩口で切り揃えた髪を揺らしながら、彼女はカウンター内にある椅子に座る。小柄な体型のせいか、胸元から上が辛うじて見えている。

 服装は青を基調とした制服のようだが、胸元の名札が妙に現代的で機械チックだった。

 名札には『ツバメ/記憶翻訳士』と記載されていた。


「……ここ、どこですか」

回顧局(かいこきょく)

「看板のまんまじゃないですか。答えとしてシンプル過ぎません?」

「うん。分かりやすさは正義だから」


 端的な物言いに幼さはなく、少女のような見かけ通りの年齢では無いことが伺えた。

 そんな彼女──ツバメが、ここを役所と呼んでいた。

 記人(のりひと)は記憶と照らし合わせる。


「いや、現代にそんな役所ないですから。無いですよね?」

「ちゃんとあるよ。今、貴方の目の前に」

「それ、ただの現物主義ですよね。ここにあるから信じろってのは無理があるでしょう。もうちょっと納得しやすい答えはないんですか」


 記人(のりひと)の呆れ混じりの要求に、ツバメは肩を竦めるだけだ。

 彼女は会話に取り合わず、すっぱりと要件を尋ねる。


「で、何しに来たの」

「……間違って入っただけですよ」


 踵を返そうとした記人(のりひと)に、ツバメが言う。


「間違いでここに来る人、わりと多い」

「そうですか」

「だいたい、寝れない人」


 ピタリと、記人(のりひと)の足が止まった。

 自分のことを言われているように感じたのだ。

 振り返ると、ツバメは無表情のままだった。

 でも、確信めいた真っ直ぐな目で見つめていた。


「……俺、まさにそれです」

「じゃあ、来訪理由は成立。番号札」

「……はい」


 形式的に、記人(のりひと)は発券機から紙を引き抜いた。

 記載数字は37。1番ではない。

 役所内にツバメ以外の人影はない。なのに大きな数字が出てきたことで、記人(のりひと)は小さく首を傾げた。


 ツバメは気にした風もなく、機械的に話を進めていく。


「37番の方、用件は?」

「その、そもそもここ何する場所で……」

「人の過去の行動を、台帳にして保管する場所」


 え、こわ。

 と、記人(のりひと)は顔を顰めた。


「つまり監視記録ですか」

「監視じゃない。保管してるだけ」

「それ、言い換えで語感を柔らかくしてるだけですよね」

「言葉は柔らかくないと危ない。何かと傷つける。言う側も聞く側もお互いに」


 言わんとすることは分からなくもない。

 と、記人(のりひと)はひとまず納得した。しかし不信感は拭えなかった。

 カウンター側にある椅子には座らず、彼は立ったまま次の質問に移る。


「過去の行動を台帳にする、というのは?」

「うん。貴方の“してしまった事”も、“してこれた事”も、全部記す」

「"しれこれた"ってことは……え、良いやつも?」


 記人(のりひと)はパチパチと瞬きをした。

 監視というワードを耳にして、もっと厳しい印象を持っていたのだ。

 それこそ、罪を纏めた台帳のように思っていた。

 認識の食い違いを察して、ツバメは頷く。


「良いやつも。悪いやつも。中途半端も。あと地味に痛いやつも」

「地味に痛いやつって……」

「知人かと思って挨拶したら別人だった、とか」

「うわ、やめてください……今それ思い出して胃が縮みましたよ」


 過去の恥ずかしさを思い出し、記人(のりひと)は顔を顰めた。

 ツバメはクスリとも笑わない。代わりに、机の引き出しから分厚い台帳を出す。

 表紙に『三住(みすみ) 記人(のりひと)』と記されていた。

 見覚えのあり過ぎる名前に、記人(のりひと)の顔が固まる。


「……え」

「これ、貴方の台帳」

「嘘でしょう。いつ作ったんですか」


 ツバメはフルフルと首を振った。


「作ってない。積もった」

「積もったって……雪じゃないんだから」

「積もったのは貴方の行動。雪より雨より多く降る。毎日ね」


 ツバメは台帳をカウンターに置くと、滑らせるように差し出した。

 記人(のりひと)は恐る恐る、指先で表紙に触れる。

 厚手の皮表紙に、所々に妙な金属片が組み込まれている。

 単純に紙資料をファイリングするにしては、やけに豪勢で仰々しい。

 指先から、不思議な重みと厚みが伝わってくる。

 まるでこの世のものではないかのような、不思議な感覚があった。


 何を馬鹿な。

 と、記人(のりひと)は自分に言い聞かせるように否定する。

 反して心臓は跳ね、胸の奥が嫌な予感で満たされていた。


「見る?」

「見たくないです」

「見ないと帰れない──みたいなルールはない」

「じゃあ帰ります」


 再び踵を返そうとした記人(のりひと)に、ツバメの声が差し込まれる。


「ただ、見ないと“寝れない”は治らない」

「……脅しに聞こえるんですけど」

「違う。提案。あなたの睡眠のための」


 記人(のりひと)は数秒悩み、重い息を落とす。

 やや乱暴に振り返ると、ツバメと向き合う形で椅子に座った。

 ツバメが手で台帳を指す。


「じゃ、どうぞ」

「……なんか、所々メタリックでSFっぽいんですけど」

「いいから開く」


 せっつかれた記人(のりひと)が台帳を開く。

 1ページ目からぎっしりと詰め込まれた文字列。分量は多いが不思議と見やすい。区分分けがしっかりされているからだろうか。

 日付、状況、行動、結果。

 客観性を突き詰めたような項目が再現的に並んでいる。

 記載された内容のどれもに、記人(のりひと)は心当たりがあった。


「これ、本当に俺のこれまでの……しかも、忘れてたことも描かれてるんですけど」

「だから台帳。貴方の記憶を、行動を刻んでる」

「普通に怖い」


 犯人を追う熟練の警察でも、ここまで調べ上げないだろう。

 と、記人(のりひと)はドン引きした。


「なんて事ない。事実を記しただけの、ただの文字列」

「そりゃそうですけど」

「でも、貴方が読めば"意味の束"に変わる」

「意味の束……」


 聞き慣れない表現は、しかし記人(のりひと)の心の何処かを揺らした。

 ツバメが真っ直ぐな目で記人(のりひと)を見つめる。

 何かを確かめるような芯のある目だ。


「貴方、今日の出来事は覚えているよね」

「それは……はい」


 記人(のりひと)の肯定に、ツバメが頷く。


「今日のページ、開いてみて」


 指示に従い記人(のりひと)が今日の日付を探すと、台帳の中程でそれを見つけた。


 ──17:13 会議室にて古い数値を提示。相手先の指摘で差異発覚。直後に謝罪し、翌朝の再提出を宣言。


 真新しい失敗の項目を目にし、キュッと胃が縮む。


「……うわ。残ってる」

「うん。残ってる」

「これ、消せないですかね」

「消せない」

「……最悪だ」


 改めて恥を突きつけられ、記人(のりひと)は天井を仰ぎ見た。


「最悪は、“事実”じゃなくて“評価”。台帳にそんな事は書かれてない」


 ツバメの無機質な指摘。

 記人(のりひと)は眉根を寄せて彼女を見返す。


「やめて下さい。そんな言語学の先生みたいな言い方」

「私、言語学寄りだから」

「言語学寄りって何」

「言葉の意味を気にするってこと。この局に勤める人はだいたいそう」


 淡々としたツバメの態度。小さな顔に浮かぶ無表情が感情を隠していた。

 記人(のりひと)は何となく気まずくなり、今日の失敗が刻まれたページを捲る。

 中学の失言、高校の逃げ、大学のサボり、社会人一年目の空回り……。

 台帳は容赦なく、そして淡々と失敗を刻んでいた。


 ページを捲るごとに指の動きが重くなり、そして止まる。


「……全部、残ってる」

「うん。残ってる」

「こんな失敗ばかりって……残酷過ぎるでしょ。俺、終わりじゃないですか」

「終わりって何が?」


 ツバメは首を傾げた。

 記人(のりひと)は視線を逸らしながら答える。


「そりゃ……人生が」

「大きい主語だね。台帳には収まりそうにない」

「気にしてるのは言葉の意味ですか」


 ムッとする記人(のりひと)

 彼を正面から見上げて、ツバメは首を横に振る。


「今のはただの事実。台帳はこれまでを記しているだけ。先はまだ空白。だから終わることもない」

「でも、これだけ“やってしまった事”が並んでると……」


 これからに希望を持てそうにない。

 と、続く言葉を記人(のりひと)は喉口で飲み込んだ。

 口にしてしまうと、真実になってしまいそうで怖かった。

 目の奥が重く、重力に引かれて記人(のりひと)は項垂れる。


 対してツバメは沈む空気に引き摺られない。


「並んでると感じるのは、貴方が勝手に拾ってるから」

「え」


 張りのある指摘に、記人(のりひと)は顔を上げた。

 ツバメが人差し指で台帳を指す。

 記人(のりひと)の視線もそちらに落ちる。


「貴方の視線、さっきから偏って文字を追ってる」


 ツバメは指先を立て、開いたままだったページをトントンと軽く叩いた。


「ほら、例えばここ」


 ──19:02 後輩の資料を一緒に整える。締切に間に合う。


 その記載は、失敗項目の1つ下に記されていた。

 確かにそんな事もあった。後輩のポカをサポートした時だ。

 と、記人(のりひと)は過去を思い出しながらも気分は上がらない。


「……そんなの、ただの雑務ですよ」

「雑務は人を救う。締切って、救急車と似てる」

「なんですそれ。全然似てないでしょ」


 否定の言葉を、記人(のりひと)は反射的に答えていた。

 ツバメはローテンポのまま主張を重ねる。


「似てる。間に合わないと事故るから」


 ああ、なるほど。

 と、小さな納得が記人(のりひと)の胸にはまった。

 糸先に擦れるような、妙なこそばゆさがある。


「……でも、それ、別に褒められるほどじゃないですよ」

「褒める必要もない。残ってる、ってだけ」

「残ってる……」


 ──19:02 後輩の資料を一緒に整える。締切に間に合う。


 もう一度視線を落とした先で、確かに台帳に記されていた。

 記人(のりひと)はボンヤリと、ただの文字列を見つめている。


「貴方の頭の中、失敗だけで一杯になってない?」

「……なってます」


 頷く他ない。

 先のやり取りで、失敗だけに目を向けていた事は明らかだった。


「台帳を見てみなよ。公平に残ってるから」

「公平、ね……」


 記人(のりひと)は苦笑した。

 台帳の文字は確かに公平だ。主観から来る焦りも、罵倒も、後悔も混ざっていない。

 なのに、読む自分の目は失敗の行だけに吸い寄せられていた。


 "意味の束"とは、なるほど。読み手の解釈次第ということか。

 と、記人(のりひと)は自嘲と共に納得を得た。


「……俺、勝手に自分を殴ってただけか」

「自罰は器用。殴る力が強いくせに、当たりどころも的確だから」

「嫌な能力ですね」

「役に立てば才能」

「役に立ってないじゃないですか」


 心を痛めるばかりで、前に進んだ感覚はない。

 記人(のりひと)は顔こそ上げているが、瞳は沈んだままだった。


「だったら、それは改善対象」


 ツバメは引き出しからメモとペンを取り出すと、カウンターの上で丸を書いた。

 キュッと軽快な音が記人(のりひと)の注意を引く。

 メモの中央に腰を据える丸の中に、"課題"と書き込まれる。


「今の貴方の課題。それは"失敗した過去が消えない"という事実を、"残酷"という言葉だけで運用してること」

「運用って言い方。業務っぽくて腹立ちますね」

「仕事で生きてる人は、業務っぽい格式めいた言葉がよく効くから」

「……効いてるから余計腹立つ」

「素直。いいことだよ」


 記人(のりひと)の小声の反抗を拾い上げ、ツバメはほんの小さく笑みを浮かべた。

 無性に気恥ずかしくて、記人(のりひと)は顔を逸らす。


 ──その時、カウンター奥の棚で紙が擦れる音がした。


 人の気配。

 記人(のりひと)が視線を送るより先に、ツバメが立ち上がる。


「裏口はスタッフ専用。勝手は許さない。さっさと出てきて。あるいは出ていって。不法来訪者」

「……やはりバレるか」


 ヌッと、スーツ姿の男が棚の影から現れた。

 黒髪をオールバックに纏め、髭の剃り残しもない。顔立ちも整っている。

 清潔感を感じて然るべきなのに、目の下の濃い隈が全てを台無しにしていた。

 満没しているような黒い溝が不穏で不吉な印象を抱かせる。


 男の胸元に名札はないが、どこかツバメに似た空気を纏っている。

 ここの役員だろうか。それにしてはツバメとの間に緊張感がある。

 と、記人(のりひと)は内心で首を傾げた。

 その疑念を察してか、ツバメがチラリと目線を寄越して口を開く──


「僕はカナメ。ここの臨時職員、だった男だ」


 前に、スーツの男──カナメが名乗った。

 ツバメが一度頷く。


「そう、"だった"。既に解雇済み」

「解雇って言い方で強調するの、冷たいじゃないか」

「役所は書類で回ってる。契約如何で冷たくなるのは当然」

「元同僚に酷い態度だ」

「所詮は"元"。勝手に職員通路を使う奴は犯罪者同然」

「厳しい枠組みだ。消してしまいたくなるよ」


 蚊帳の外で進む会話に記人(のりひと)は困惑する他ない。

 呆然と視線を行き来させる彼を見て、カナメは薄く笑った。


「君、初めての来局かい? いいね。感想を聞かせてくれないかい。自分の台帳、気持ち悪いだろう」

「……貴方、誰ですか」


 人の良さそうな、しかし胡散臭い笑みだった。

 信用ならない。

 と、感じた記人(のりひと)は問いに答えず心に壁を作った。

 カナメは一層笑みを深めると、大仰に両手を広げる。


「君の同類さ。過去に食われるタイプ、という意味のね」

「勝手に同類扱いしないで下さい」

「するさ。これでも元はここの職員。人を観る目は肥えている……君の目は、失敗の文字に飢えてるようだけど?」

「……」


 記人(のりひと)は沈黙を選択した。

 図星に押し黙り、不快感に口を(つぐ)み、困惑に沈思(ちんし)した。


「私の話がまだ」


 遮るようにツバメが一歩前に出る。

 小柄な体型では記人(のりひと)の体を隠す事はできない。それでもカナメと記人(のりひと)の間に庇うように立つ。


「カナメ、目的は何」

「なに、簡単さ。台帳の“消去”だよ」

「不可能」

「可能だよ。正確には、"可能にした"と言うべきかな」


 カナメは含み笑いを浮かべた。

 暗い、けれど勝気な笑みだ。

 ツバメは目を細める。


「それは禁術」

「君なら知ってるだろうね……禁じられてるだけさ。存在は許されている──だから使える」


 カナメは懐から小さな紙片を取り出した。

 護符やお札を思わせる形状の紙。紙面に奇妙な文字列がびっしりと走っている。

 日本語でも、英語でもない。見たことのない文字だった。


「──いッ」


 文字が視界に入った瞬間、記人(のりひと)の頭が痛む。

 チリっとした、摩擦熱を感じる痛みだ。何かが擦れて捻れている感覚があった。

 見たことも聞いたこともない文字。読めないから意味も読み解けない。

 なのに、目から頭に掛けて痛みが走る。


「……あれ、何語ですか」

「言語じゃない。あれは消去句符。言語の穴」

「穴って」

「文の法における外法。記し示すのではなく削る為の形」


 ツバメの言は意味不明だった。

 記人(のりひと)は別の意味で頭が痛くなる。

 不理解を察して、ツバメは低い声で説明を重ねる。


「消去句符は台帳の機能に穴を開ける。紙が破れて、法が破れる。漏れ出た“事実”が現実を歪める」

「つまり何ッ」

「危険ということ」


 理解が及ばず苛立ち混じりの記人(のりひと)の問い。

 説明を諦めたのか、ツバメは投げやり気味に答えた。

 クツクツとカナメが笑う。


「人にとって危険なのは、消せない過去の方だろ」


 可笑しそうにカナメは笑った。乾いた笑みだった。

 どこか影が落ち、疲れているように見える。

 彼はチラリと視線をずらし、カウンター上で開きっぱなしの台帳を見る。記人(のりひと)の台帳だ。

 台帳との距離は3mは離れている。それでも彼の目は記述をしっかり捉えているようで、澱みなく瞳が横へと流れている。


「やめて下さい」


 記人(のりひと)が台帳を手で覆う。

 カナメの無遠慮な視線から反射的に隠していた。

 窓の外から家の中を覗かれたような不快感が、腕に鳥肌を立たせる。


「おっと、これは失敬」


 カナメは軽く言って、フッと鼻で笑った。

 彼は台帳から記人(のりひと)へと視線を移す。


「君の失敗なんてまだ軽い方さ。謝れば済む話なんだから」

「軽いとか重いとか、勝手に決めないで下さい」

「まぁそうだね。受け止める重みは人それぞれだ」


 カナメは肩を竦めて片頬を上げた。


「じゃあ君は、そこに書かれた中のどれが重たい? どれを消したい?」

「……消したい?」

「消したい過去があるから、ここに来たんだろう」


 記人(のりひと)は言葉に詰まった。

 消したい。今日のミスも、昔の失言も、全部。

 消せるものなら、消してしまいたい。


 ツバメの様子を伺う。辛うじて見える横顔は変わらずの無表情で、何を考えているのか読み解けない。

 "消せないのか"と尋ねた記人(のりひと)に、ツバメは"消せない"と答えた。

 しかし、カナメは"消せる"と言いたげだ。


「……消したいです」

「だよね。僕もそうさ。大丈夫。君だけじゃない」


 優しい声音で言うカナメに、記人(のりひと)は怪しいものを感じた。

 それでも、失敗を取り消せる魅力に心が揺らぐ。


「消したら、どうなるんですか」

「楽になるよ。心も、体も、未来だって」

「楽になるだけ。良くなる訳じゃない」


 はっきりとした声でツバメが割り込む。

 否定の色が強い響きだった。


「カナメ、貴方は“消える”と“解決”を混同してる」

「はは、混同だって? ……笑わせる。痛みが無くなるんだ。すなわち解決だろう」

「痛みが消えるのと、痛みの経験が消えるのは別。忘れてしまえば、同じ怪我をするだけ」


 カナメが舌を打つ。


「だったら、また消すだけだ」

「穴が増えるだけ。スカスカに変わるだけ」

「軽くなっていいじゃないか。少しは歩きやすくなりそうだ!」


 カナメは叫び、消去句苻を指で弾いた。

 手元から離れた消去句苻はフワリと宙に浮き、紙面の文字列が赤黒い光を放つ。

 辺りの空気が唐突に歪む。その歪みに吸い取られるように、棚から一冊の台帳が飛び出した。

 消去句苻の側で並ぶように浮かび、ひとりでにページが開く。

 パラパラと、風もないのにページは捲れ、その度に台帳に記載されていた文字がふわりと宙に浮き出していく。


 非現実的な光景に、記人(のりひと)は目を見開く。

 反射的に、自分の台帳を抱き抱える。


「ちょ、なんか浮いてるんだが!」

「うん。始まった」

「コメントそれだけ!?」


 動じた様子のないツバメに、記人(のりひと)は思わず突っ込んだ。

 その掛け合いの内に、また一冊、また一冊と本が飛び出し宙に浮く。


「あれ、俺の台帳じゃないですよね!?」

「他人のも巻き込む。傍迷惑」

「迷惑どころか欠陥では!」

「過去は本人だけのもの。でも誰とも関わらない過去は存在しない」

「つまりッ」

「人ひとりの過去を消す時、関わりのある誰かの過去も丸ごと消してしまう」

「許可もなくですか!?」

「だから禁術」


 記人(のりひと)が騒いでいる間も、浮かぶ台帳の数は増えていく。比例して、浮かぶ文字も量を増していた。

 台帳から抜け出た文字は黒い羽虫に似ている。群れ、辺りを気ままに飛び交っている。

 蛍光灯の光が遮られ、不規則にチカついていた。

 光が途切れる度に、記人(のりひと)の視界に文字が流れる。

 自分ではない、別の誰かの“失敗”がチラついていく。

 どう言う訳か、知らない誰かの怒鳴り声、泣き声までが耳の奥で木霊し始めていた。


「あぐッ、頭が……!」

「回顧嵐。過去の破片が脳にイメージを送り込んでる。強制的に」

「そんなの、危険物じゃないですか!」


 記人(のりひと)は頭を抑えて吠えた。

 ツバメは無表情のまま頷く。


「うん。危険物。カナメが持ち込んだ」

「持ち込んだっていうか、いま壮大にばら撒いてますよね!」

「ばら撒いてるね」

「おいおい。乱暴な言い方はやめてくれないかい?」


 空間が歪み風が吹き荒れる中、カナメは眉ひとつ動かさない。

 それどころか愉快気に笑みすら浮かべている。


「もう少し待てば準備が終わる。そうすれば君の台帳から過去を消してあげるよ」

「こんな騒がしいなんて聞いてない!」

「全部消せば静かになるさ。もう少し。あと少しだ──君も、過去が囁く声を黙らせたいだろ?」

「どう考えてもやり方が過剰だろ!」

「五月蝿い過去が消えるなら、何だっていいさ」


 カナメは裂けるように笑った。

 狂気が灯っている。

 カナメは記人(のりひと)に話し掛けているようで、対話なんて求めていない。

 彼の言葉は一方的だ。


「よくない。それはよくないね」


 ツバメがため息をひとつ溢す。

 呆れを多分に含んだ、めんどくさげな所作だ。

 彼女は風で乱れる髪も気にせずに、机の下から拳大の青いスタンプを引きずり出した。


記人(のりひと)君、耳塞いで──ん、やっぱり塞がないで。貴方の言葉が必要」

「どっちですか!」


 風が強まり、声が聞こえにくい。

 記人(のりひと)はカウンター先のツバメに顔を近づけた。

 ツバメは淡々と、しかし声を少し強める。


「貴方はここに来た。失敗の過去が耳から離れないのが嫌なんでしょ」

「ッ、はい」

「このまま過去を消したら、音が離れて今日はきっとよく寝れる。でも、いつか同じように眠れなくなる」

「それは、嫌です」


 記人(のりひと)は苦々しい顔で言った。

 それはカナメの提案を拒絶することを意味する。

 ツバメは満足気に小さな笑みを浮かべると、コクリと頷く。


「本人である君なら、“消去”じゃなくて“修復”を選べる」

「修復って、どうやって!」

「文の末尾を整える。出口を作って流れを掌握する」


 意味が分からない。

 と、記人(のりひと)が叫ぶ前に、カナメの笑い声が挟まる。


「流れを掌握する? 絵空事だよツバメ。知ってる筈だ。過去は変わらない」

「うん。どうあっても変わらない」

「だから──」


 消すしかない。

 と、カナメの言葉は続かない。

 ツバメが先を取る。


「だから、直すのは“扱い方”の方」

「小手先の技で痛みが消えるものか」


 カナメは鼻で笑った。


「痛みは残る。でも、痛みに支配されない形になら──出来る」


 ツバメは記人(のりひと)の台帳をカウンターに置かせ、ページを開かせる。

 指示に従った記人(のりひと)が目にしたのは、最新のページ。

 今日の失敗が書かれた、真新しい痛みの記録。


 ぶり返した胸の締まりに、記人(のりひと)は顔を顰める。

 痛みが心を刺す。


「ここ」


 ツバメが指先で台帳を示す。

 失敗が記された行の下。そこには空白があった。まるで追記欄のような。


記人(のりひと)、ここに書いて」

「書くって何をッ」

「大丈夫。問いは私がやってあげる。貴方は答えるだけ」


 ツバメはふわりと笑った。

 初めての笑顔らしい笑顔。記人(のりひと)は不思議な安心感に包まれた。

 吹き荒ぶ風の音が、意識から遠ざかっていく。

 ドクドクと五月蝿かった動機も、次第に凪いでいく。


 ツバメが尋ねる。


「明日、何をする」

「……相手先への謝罪と、資料の再提出」


 記人(のりひと)の口からするりと答えが出た。

 元々予定していた行動だっただけあり、口に出すのは簡単だった。

 失敗だけに向いていた視点が、少し先の未来に向く。

 ツバメは頷き、再度問う。


「いい調子。ここから、もう一つ」

「もう一つ?」

「再発防止。失敗には改善案がセット」


 記人(のりひと)は考え、自信なさげにボソリと溢す。


「……チェックリストを作る。会議前に、えっと、資料の再確認を……」

「ちゃんと声に出して」

「チェックリストを作るッ。資料の再確認を習慣にするッ」


 記人(のりひと)はヤケクソ気味に勢い付けて答えた。

 頬が少し赤らんでいる。

 内容が正しいか、未熟でないか。そんな懸念が不安と恥ずかしさを引き出していた。

 ツバメは指摘することなく短く頷き、胸ポケットからペンを取り出した。カウンターに転がっていたペンとは別のそれを丁寧に握る。


「よし。書く」


 ツバメはペンを走らせた。サラサラと淀みなく。

 綺麗な文字が台帳に刻まれる。同時に、浮いていた羽虫の群れが少しだけ形を変えた。

 影が小さく、そして細くなる。

 蛍光灯を遮る壁が薄れ、辺りがワントーン明るくなった。

 記人(のりひと)は頭上を仰ぎ見る。


「え、効いてる?」

「うん。効いてる。この台帳は事実を詰めるだけの墓じゃない。あくまで書物。過去を漁ることも、末尾を更新することも出来る」

「更新って……過去に追記出来るんですか」


 ツバメは首を横に振った。


「過去の行動は消えない。変えられない。でも、その後の行動は、未来は足せる」

「……足せる」

「うん。足せる。これ、重要」

「──馬鹿げてる」


 カナメが声を挟む。

 彼は苦々し気な顔で目を細めていた。


「足せるからなんだ。やってしまった事は、消えてはくれないのに」

「うん。消えない。それが道理」

「失敗の固着が、正しい在り方だとでも? 心を細ばせるだけだろう……そんなものに意味なんてない。むしろ害悪じゃないか」

「──きっと、意味ならあります」


 記人(のりひと)は強気に反論した。

 奥歯を噛み締め、頭の痛みを誤魔化しながらカナメと視線を交わす。


「カナメさん。貴方の言葉は俺に良く刺さるよ……消えない。変えれない……本当に残酷だ」

「そうだろうとも。君は僕と同類なんだから」

「今なら何となく、その同類って言葉も理解できます」


 だからと言って、カナメを肯定する気はなかった。

 失敗ばかりに目を向ける記人(のりひと)に、ツバメが示してくれていた。

 彼女が台帳の中から拾い上げた、本人も忘れていた一行。


 ──19:02 後輩の資料を一緒に整える。締切に間に合う。


 確かに残っていた。

 消えないのは、失敗だけじゃない。

 灰に埋もれた小さな火種が灯りとなる。

 記人(のりひと)の目に熱が灯る。


「カナメさん」

「何だい?」

「消したいのは、過去の行動そのものですか」

「そうとも。当たり前だ。君もそうだろう?」


 カナメは誘うように手を差し出した。

 その手に目を向けることもなく、記人(のりひと)は首を横に振る。


「いいえ、きっと違う筈だ。本当に消したいのは……逃げたいのは、過去が自分を殴ってくる、この“痛み”なんじゃないですか?」


 記人(のりひと)は右手で、自分の胸を掻きむしるように握った。

 白いシャツに深い皺が広がる。

 カナメは目を細め、伸ばしていた手をダラリと落とす。


「……どちらにしろ、同じことだ。過去を消せば痛みも消える」

「違う。"消す"だなんて乱暴をしなくても、痛みは変えられる」


 記人(のりひと)の口から出るのは落ち着いた声だった。

 自分でも驚く程に圧も焦りもない、凪いだ声。


「俺、今日ミスをしました。この事実は消えない。消えてくれない。憂鬱で、話している今も胃が縮みます」

「だから、消せばいいだろう」

「違うんです。確かに消したいと思いました。無かった事にしたいと思いました。でも、ここに来る前と今じゃ、痛みが少し変わってるんです」

「勘違いだ」


 カナメは吐き捨てた。

 記人(のりひと)は即座に首を振った。


「いいえ。それはきっと、明日謝ると決めたのも、対策を考えたのも、消えない事実だから。どちらも消せないけど、確かに刻んではいるから」

「だからどうした。それでこの痛みが、傷が消えるのか」


 記人(のりひと)は再び首を振った。今度はゆっくりと。

 彼の顔に浮かぶのは、困ったようで、しかし前向きな笑み。

 胸に添えた右手の力は緩み、シャツの皺が落ち着いていた。


「残念ながら、痛みは消えてくれません。でも、傷口に泥を塗るのは辞められそうです」

「泥を塗ろうが、そこに傷が無ければ痛むこともない」

「傷が無かろうが、泥を塗ったら病気になります」

「ッ……!」

「触るだけでも、目に見えない毒が体も心も蝕みますよ」


 カナメは言葉に詰まった。

 記人(のりひと)は傷の有無ではなく、触れ方にこそ焦点を当てていた。

 文字通り、見ているものが違ったのだ。

 ツバメが眦を緩めて口角を上げる。


「良い比喩。流石営業、言葉選びが上手い」

「どうやら俺も、言語学寄りの営業だったみたいです」

「将来有望。ここに来る?」

「ウチ、副業禁止なので」

「そう。残念」


 記人(のりひと)とツバメの間で交わされる軽い掛け合い。

 カナメは苛立ったように犬歯を剥き、乱雑に胸ポケットに手を突っ込む。

 複数枚の消去句苻を引っ張り出して、勢いのまま掲げた。


「なら、その上手い口とやらで止めてみろ!」


 消去句符に記された文字が一斉に明滅する。赤黒い光が宙で弾けた。

 一枚でも空間を歪ませたものが複数枚。一斉に発動してしまう。

 ガラスが引き千切れるような音が鳴る。それと同時に、宙に黒い穴が生まれた。

 穴はブラックホールを思わせる引力で、棚の台帳を何冊も吸い込んでいく。

 乱暴に開かれたページがバタバタと暴れ、浮き出た文字の群れが宙を染め上げる。

 まるで、壊れた蛇口から噴き出す水のような勢いだ。


「もう御託は結構だ! 手早く終わらせる!」


 カナメは穴に吸い込まれないよう腰を低くしながら叫んだ。


「──げッ!?」


 記人(のりひと)が気づく。

 自分の台帳に黒い染み、いや穴が形成されていた。

 じわじわと穴の縁は広がっている。


「ツバメさん、どうすれば!」

記人(のりひと)、“読む”んじゃなくて“組む”!」

「組む!? 何をですか!」

「"事実"を"経験"に押し上げる。筋の通った言葉で、行動を組み立てる!」


 ツバメはカウンターに出しっぱなしだった青いスタンプを記人(のりひと)に投げた。

 ただでさえ拳大の大きさ。慌てて両手で受け取り、想像以上の重さにズシリと腕が沈む。

 上に向いた印面には『省済』と刻まれている。

 記人(のりひと)はこれも何らかの力があるのかと予想するも、いきなりの事で不安が表出る。


「俺、この事態の素人どころじゃないんですけど!」

「大丈夫。貴方の得意分野。営業なら仕事で毎日報告書書いてるでしょ」

「報告書は得意です! それで俺は何をすれば!」

「それでいい。事実、対応、改善。この3つを言葉にしながら判を押す。その省済印(せいさいいん)で穴を塞ぐように!」


 指示を受け、記人(のりひと)は台帳のページを捲った。

 上空に収まり切らなくなった文字の群れが視界に割り込む。その度に、頭の中に他人の後悔が流れ込んだ。

 痛む頭と心。重くなる体。

 それでも、記人(のりひと)は呼吸を深めて声を張った。


 省済印を振りかぶる。


「事実! 提出する書類を間違えた!」


 ダンッと印を押す。

 黒い穴を覆うように、青い光りで『省済』という文字が浮かび上がる。

 光を嫌うように、黒い羽虫が弾かれる。


「そう、次!」

「対応! 翌日に再度謝罪する! 正しい書類を提出し直す!」


 ダンッ!ダンッ!と印が押し付けられ、その度に衝撃でカウンターが弾む。

 記人(のりひと)が省済印を台帳に押すごとに、黒い穴の縁が少しずつ白くなっていく。

 宙を飛び交う文字の群れも、無法の羽虫のような動きから、行儀のいい行列へと変わっていく。


「そう、最後!」

「改善!書類の準備を手順化する! チェックリストの作成と確認!」


 ダンッ!

 一際大きな音と共に印を振り下ろした。

 ……ピタリと空間が静止し、嘘のように静まり返る。

 一拍。

 宙に浮かぶ黒い穴は霧のように形を崩し、台帳もバサバサと地に落ちる。

 文字が模った羽虫の群れは、溶けるように姿を消していた。


 ドサリッ。

 静寂の中、カナメが崩れ落ちた。


「ちょ、カナメさん!」

「黙れッ、来るな! 何故邪魔をする。何故消させてくれない!」


 カナメは呼吸を荒げながら、癇癪を起こしたように叫んだ。

 下を向いたまま、殴りつけるように吠える。

 記人(のりひと)は一瞬怯み、しかし負けじと声を掛ける。


「消す必要なんてない。俺のも貴方のも同じだ。消さなくても、ちゃんと足せる!」

「そんなものはいらない! 僕は過去さえ消せればそれでいい!」

「貴方が──」


 記人(のりひと)は肺に空気を送る。


「過去ばかり見てるのは、“次に何をするか”決めるのが怖いからでしょう!」


 叫んでから、記人(のりひと)は自分の言葉に驚いた。

 刺さる。自分の心にも深く刺さる言葉だった。

 ああそうか。俺はただ怯えていただけなのか。

 と、記人(のりひと)は妙に腑に落ちる。同時に、胸にこびり付いた泥が剥がれる音を聞いた。


「……怖い、だって?」


 カナメの顔が上がる。

 ほんの一瞬、彼の目が揺れた。

 記人(のりひと)はスッと風通りの良くなった頭で一呼吸置く。


「……怖いですよ、俺だって……過去が残るのって、まるで背中に貼り紙されてるみたいでしょう」


 晒し者になった自分を想像し、記人(のりひと)は視線を落とす。


「そんな格好で外に出るのが、怖くない訳ないじゃないですか」

「……なら、だから、剥がせばいい」

「剥がせないんですよ。それも俺の一部だから。でもだから、前を向いて歩ける貼り方にするんです」

「貼り方……」


 カナメは呟き顔を落とした。

 彼は膝の上でグッと拳を握ると、震えるその手をじっと見つめる。

 ツバメが静かに近づき、カナメを見下ろす。


「カナメ。貴方の台帳、勝手に持ち出したでしょ。見せて」

「嫌だ」

「貴方のも、穴、空いてる筈」

「……」


 カナメは俯いたまま沈黙した。

 無言の肯定だった。

 ツバメは呆れたように嘆息する。


「放っておくと穴が拡がり続ける。消去句符で無理をしたらどうなるか、さっきので分かったでしょ。貴方一人の問題じゃない」

「……好きにしろ」


 カナメは歯を食いしばり、胸元から取り出した台帳を投げるように放り出した。

 記人(のりひと)の台帳と作りは同じだが、角が擦れている。用紙もヨレていて、何度も触った痕があった。


「……穴だらけ」


 ツバメは躊躇なく台帳を開き、その中身に声音を落とす。

 ページのあちこちが黒く滲んでいる。記人(のりひと)の台帳にも出ていた消去句の傷だ。

 その範囲は広く、紙の面より穴の方が大きいほどだ。

 少しの衝撃で、ボロリとこぼれ落ちてしまいそうだった。

 一枚一枚慎重に捲りながら、ツバメが問いかける。


「カナメ。この台帳、ちゃんと読めてる?」

「そんな(なり)で、読めるとでも?」

「だよね。言葉が文を編めてない。向き合っていないから、こうなる」


 どこか攻めるように、ツバメはピシャリと指摘した。

 元同僚だからか、その言動は厳しい。

 圧に流されてか、カナメが視線を逸らす。


「……目にしたら、心が壊れるだろう」

「壊れない。壊れるのは、長々と放置した時」


 2人のやり取りを聞きながら、記人(のりひと)はツバメの肩越しにカナメの台帳を見る。

 黒い穴は大きく、病のように紙面を貪っていた。

 この人はたぶん、自分よりずっと重いものを背負ってる。だから消すことを望んだんだ。

 と、記人(のりひと)は納得と同時に体を震わせる。

 無性に喉が乾き、ゴクリと音を立てて生唾を飲み込んだ。


「……カナメさん」

「……何だ」

「俺が言うのは烏滸がましいし、お節介なのも承知ですけど……」

「何だ」


 カナメは苛立たしげに吐き捨て、先を促した。

 記人(のりひと)は静かに一呼吸挟む。


「一行だけで良いので、足してみませんか」

「こんな穴だらけのどこに、そんな余白があると? 余裕がなくちゃ、たった一行ですら足せないよ」

「ちゃんと足せる」


 鼻で笑うカナメに、ツバメが否定を返した。


「過去の記帳は穴だらけでも、これから先は余白ばかり。追記はできる」


 ツバメは台帳を捲る手を止めた。

 ちょうど、一番新しいページが開かれている。

 傷ひとつ無いまっさらページは青白く輝いていた。

 カナメは光に誘われるように顔を上げ弱々しく笑った。泣きそうな顔で。


「何を書けって言うんだ。"あの子たち"に謝罪でもしろと? そんなこと書いたって──」

「書いたって、過去は消えない」

「だろ」

「でも、向き合った記録は残る。貴方が“次に何をした”かも、ちゃんと残る」


 ツバメは胸ポケットのペンを引き抜き差し出した。

 先ほど、記人(のりひと)の台帳に書き込みをしたペンだ。

 メタリックカラーの細身のボディ。青いラインが数多に走り、幾何学的な模様を携えている。

 カナメは顔の前に差し出されたペンを見上げ、逡巡してから受け取った。

 伸ばした指は震えている。ペンの重みにすら負けそうな程に。

 震えるカナメの手を、ツバメが覆うように握り込む。


「書くのは、言い訳じゃなくて"手順"」

「手順……」

「大丈夫。貴方も元はここの人。言葉は得意。心を形にするのは難しくても、手順なら書ける」

「……」


 カナメはペンを握り直す。

 震えは止まらず、けれど握った手に芯が通る。

 ツバメはそっと手を離し台帳を差し出した。


「心ではなく……手順を……」

「そう。貴方がしたい最初の一歩は何?」

「僕の、最初の一歩は……」


 ペン先が台帳に触れる。

 空白に、震える字が走る。


 ──あの子たちに連絡する。言葉だけでも送り、決して逃げない。


 そう書かれた瞬間、文字が台帳に溶けるように消えていく。同時に、ページが優しく光った。

 まるで逆再生のように、台帳を蝕む黒い穴がスルスルと縮んでいく。

 温かな光はしばらく屋内を優しく照らし、陽が落ちるように消えていった。

 穏やかな夜が舞い戻る。


 シンとした静けさの中で、カナメが息を吐く。


「……消えないな」

「うん。消えない」

「過去も、これからも、全部残るんだな」

「うん。残る。それが"事実"の習性」


 カナメは力無く笑った。

 弱々しく、疲れていて、けれどどこか肩の荷が降りたように。


「ああ、最悪だ」

「最悪は評価」

「……昔も聞いたな、それ」


 カナメは笑った。

 さっきより少し大きく、少しだけ湿っている。

 ツバメはペンを胸元に戻し、腰に手を添え事務的に言う。


「カナメ。禁術使用による懲戒処分。その間、台帳への追記を義務化」

「義務ね……たった一歩でこれだけ掛かった。手が追いつくかな」

「追いつかせる。義務とは果たすもの」

「ちょっとツバメさん。急にブラックですね」

「僕も同じことを思ったよ」

「否定はしない。でも時には義務も必要。自分と向き合うのは、誰だって辛い」


 ああ、そうか。

 と、記人(のりひと)は視界が開けた思いだった。

 "誰だって辛い"という言葉に、胸の奥の重さが少し形を変えるのを感じる。

 決して、軽くなったわけじゃない。

 “重さの種類”が変わったのだ。

 自己嫌悪という鉛の塊から、鈍くも輝く鏡へと。

 鏡はまだ歪んで曇っているが、磨きがいはありそうだ。


「ツバメさん」

「なに」

「俺、今日寝れますかね?」

「寝れる。たぶん」

「たぶんですか……」

「責任は持てない。でも、寝れなかったらまた来たらいい。ここの改札機は壊れない」

「……そうします」


 記人(のりひと)は苦笑した。

 胸元に抱えたままだった自分の台帳を、目前に掲げる。


「最後にもう一つ、良いですか」

「なに」

「俺の“してこれた事”も、ちゃんと残ってますか」

「残ってる。貴方が見てないだけで」

「……じゃあ、これからは見る練習をしていきます」

「うん。良い心がけ。視点の筋トレ」


 記人(のりひと)はクスリと笑った。

 手元にあった台帳を、しばし眺めてからそっと撫でる。


「意味の束、か……ひとつひとつ、ほどいていこう」


 その思いも、今、残った。


──どうだったかしら。あなたのもやもや、少しは形が見えてきた?


見えても、見えなくても、実はどちらでも良いのよ?

あなたの心に、あなたが寄り添おうとした。

そこが大切なの。

焦る必要はないわ。変わるのは、ゆっくりでいいの。

心の動きは、月の満ち欠けのようなものだから。

変わったことに気づくのに、時間がかかるものなのよ。


あなたなりの『気づき』に出会えるのを、私と鏡は望んでいるわ。


またいつでもいらっしゃって。

ここは鏡中心理相談所。


──あなたの胸の中(こころ)とは、いつだって繋がっているから。





お読み頂きありがとうございます。

感想、評価、是非お待ちしています。


「こんな悩みがあるんだよね・もやもやしてるんだよね」という方。

文字に起こすだけでも心が軽くなるのは有名な話。

もし良ければコメントにどうぞ。

お返事は作品の中で、物語としてお伝え出来ればと思います。


滝登(たきのぼり) (こい)


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