012,行商人、挑む
霧はもう晴れていた。
あれだけ濃く立ち込め、視界を遮っていた白煙は、中心部を目前にした今、まるで嘘のように消えている。
「……空が、見えてる」
レンはぽつりと呟いた。
見上げた先――そこには、どこまでも黒く、深く、異様な空が広がっていた。
太陽の存在を拒絶したような空。だけど、真っ暗ではない。
濁った水銀のような光が、空の奥でゆらゆらと動いている。
「……あれが、《ティルフィア・コア》」
ライトが前を指差す。
その先にあるのは、半ば崩れた神殿のような遺構。
中心部を囲うように円環状の階段があり、中央には黒曜石の塔――いや、もはや“芽吹いた何か”のような有機的な形の構造物が、空に向かってねじれながら伸びていた。
「気をつけろ。魔気濃度が異常値を超えてる。長時間の滞在は危険だ」
スカウトの警告に、ヒーラーが即座に浄化魔法の準備に入る。
レンは、持ち運んでいた魔気耐性ポーションを各自に配布しながら、小さく息を吐いた。
「この空気……普通の抗魔装備じゃ足りない。ポーション、倍速で回す必要がある」
「お前のブレンドにかかってる。頼むぞ、ポーション屋」
ライトが片目を瞑ってそう言う。
ふざけた口調だが、その目に浮かぶのは確かな覚悟だ。
神殿の入り口に、ゆっくりと足を踏み入れる。
石畳の床に、何かが蠢いた跡がある。
壁には、古代文字と見られる幾何学模様。だが、どれも“侵蝕”されたかのように黒く滲んでいた。
「中心部のコア、目標まであと600メートル」
スカウトの声が響く。
そのときだった。
――ギィィ……ィ……
金属が軋むような音。違う。もっと“生理的に嫌な”音。
振り返った先に、それはいた。
《ティルフィアの守人》――とでも呼ぶべきか。
巨大な頭巾を被ったようなシルエット。複数の脚を引きずるように歩き、その身から黒い煙を撒き散らしている。
「魔気反応、特大! 前衛、受けろ!」
戦闘が始まる。
レンは距離を取り、即座に戦況を見て支援行動に移る。
「毒! 魔気性! 通常の中和ポーションじゃ間に合わない!」
ポーチを開き、最奥にしまっていた最後の一本――《高濃縮・三属性中和式》を取り出す。
「これ以上は使うつもりなかったんだがな……!」
それは本来、自分用に保存していた一本。失敗すれば、退路すら断たれるかもしれない。
だが――使うときは、今しかない。
投擲。
命中。
霧が裂け、空気が揺れ、異形の守人が動きを止める。
「今だ、叩け!」
前衛が斬り込み、魔法が直撃する。
──撃破。
静寂が戻る。
けれど、緊張は解けなかった。
むしろ、“次”が待っていると、誰もが感じていた。
塔の根元、黒曜の構造物の中央が、音もなく“開いた”。
中から漏れ出したのは、光ではない。
“音”だった。
――ドクン……ドクン……
心臓のように脈打つ振動が、足元から、身体の芯から響く。
「……中に何があるんだ、アレ」
レンが思わず呟く。
それは、ポーション屋でありながら、前線に立った彼にとってすら未知の領域。
だが、この先には確実に、《封鎖》の理由と、《ティルフィア》の真の秘密がある。
「行こう。……ここで引くのは、さすがに気になる」
ライトが口元で笑った。
「任せるぞ、レン。お前のポーションがなきゃ、誰も帰れねえからな」
レンは頷き、薬袋を背負い直す。
この先にあるのは、終わりか、それとも始まりか。
――《ティルフィアの心臓部》への扉が、今、開かれる。
それは、まるで“鼓動”そのものだった。
《ティルフィア・コア》――黒曜の塔の内部は、空間そのものが心臓のように脈打っていた。赤黒い光が壁の内側を流れ、天井も床も脈動する肉体のようにうごめく。
「なんだよ……ここ、“生きて”んのかよ……」
誰かの小さな呟きが、妙に現実的に聞こえた。
そして――
「来るぞ、反応! 中心部の魔力、集中してるッ!」
突如、空間が割れた。
その瞬間、そこに“存在”したのは――
■《失墜の王冠/グロウ=ティルフィア》
人型のようで人ではない。
流れるような外套に身を包み、頭には歪んだ王冠。
顔の半分が仮面で隠され、もう半分には……何もなかった。目も、口も、鼻も――虚無だった。
「ッ……強いぞ、コイツは!」
ライトが叫ぶ。瞬間、全員が散開。
攻撃は即座に始まった。
魔力の奔流が天井から降り注ぎ、足元からは黒炎が噴き上がる。
「支援魔法展開、バフ乗せろ!」
「回避優先、前線は引きつけを!」
「レン、ポーション班は後方で補給ループ!」
戦術は機能していた。最初の数分間は。
――しかし。
それは“演出”に過ぎなかった。
コアが、変貌した。
グロウ=ティルフィアの体が一瞬、歪んだかと思うと、四方八方に“触手状の魔力線”が放たれる。
それに触れた仲間の一人が、悲鳴を上げることなく、その場で“抜け殻”のように崩れ落ちた。
「魂ごと抜かれてる……!? おい、回復無効!? レイズ効かねえぞッ!」
戦線が崩れる。
ライトの剣が閃くが、グロウはそれを見ずに“仮面”から光線を放ち、前衛を一撃で吹き飛ばす。
「っ……レン! 支援回せ!」
「回してるッ! でもっ……間に合わねえ!!」
高濃度回復薬も、耐性付与ポーションも、《王冠》の魔力の前では焼け石に水だった。
まるで、“あらゆる効果”を計算済みで上回ってくるような、理不尽な力。
「この……やろうがあああああ!!」
ライトが怒号とともに突撃するが、その剣すらも“見えない壁”に阻まれる。
グロウ=ティルフィアの“虚無の顔”が、初めてこちらを見た。
――次の瞬間。
空間そのものが、ねじれた。
天井も、床も、概念すらも、ただ「否定された」。
「ッぐ……あああああああああああッ!!」
レンの視界が、白く、赤く、黒く、すべてに塗り潰される。
音が消える。重力が狂う。空気が崩れる。
──そして、気づけば。
レンは、ひとりだった。
パーティウィンドウは全員、【行動不能】の赤文字。
回復剤は空。バフは切れ、再起不能。
グロウは動かない。ただ、こちらを“観察している”。
「……なんなんだよ……お前……」
膝をつき、呼吸を整えながらレンはポーチの底を探る。
手の中にあるのは、自作の《緊急脱出薬》。
「――クソッ……次は絶対、ぶっ倒すからな……!」
レンは瓶を割り、帰還の光に包まれた。
■《中心部攻略:失敗》
■次回再突入まで:48時間ロックアウト
■ログ:コアの動作パターン記録 17%取得
転移の光が収まった先、拠点の床に倒れ込んだレンの目から、悔しさがにじみ出ていた。
「……やべえのに手ぇ出しちまったな」
でも、それでも――
「次は、勝つ」
彼は立ち上がる。
《ポーション屋レン》、再戦の準備に入る。