011,行商人、二度目の遠征をする
《ティルフィア》は、他のどのエリアとも違っていた。
空が、まず異常だった。灰がかった曇天に、稲光が音もなく走る。
風はあるのに木々は揺れない。気味の悪い静寂が、ずっと耳の奥に残る。
空気すら、どこか“濁っている”と感じさせるような、圧迫感。
ここが《封鎖領域》と呼ばれる所以は、一歩足を踏み入れた瞬間に、嫌というほど理解できた。
「……なるほど。雰囲気だけで胃にくるな、これ」
「マップが歪むエリアなんて初めて見た。あっちとこっち、表示が違うぞ」
《Ring of Dawn》の先遣隊メンバーが、端末を確認しながら顔をしかめる。
パーティ構成は6人。タンク1、火力2、ヒーラー1、スカウト1、そして――補助と物資運用担当の俺、レン。
役割は明確だ。
前衛が進路を切り開き、後衛が支援し、俺がその合間で必要なポーションや素材の補給を担う。
……戦うわけじゃないが、緊張感は十二分にある。
「魔気、思ったより強いな。長時間いるとまずい」
俺は腰の調合ポーチを開き、小瓶を一本取り出した。
「全員、これを飲め。魔気耐性ポーション・蒼風式Verβ。今の環境下なら90分持つはず」
ライトが瓶を受け取って、一言。
「やっぱレンがいると楽だな。こっちの調合士だと味が地獄レベルなんだよ。飲んだ直後に胃がバグる」
「プロを舐めんな。味も性能も、ちゃんと両立してるから」
小さく笑いながら、俺も一本飲む。
口に広がるのは、ほんのりとミントの清涼感。そのあとに、ほのかにピリッとした辛味が来る。
――“気持ち悪くならないギリギリの刺激”を狙ったブレンドだ。魔気を払うには、体温を下げすぎるわけにもいかない。
「前方、魔気反応あり。クロームバグ型と思われます」
スカウトの声に、全員の空気が一変する。
クロームバグ――このエリア特有の金属寄生型モンスター。
腐食と麻痺を引き起こす触手を持ち、数秒接触しただけで防具が機能不全になるという厄介な敵だ。
「火力は任せる。俺は腐食耐性パッチを用意する」
俺は急いで補助バッグから小型パッチを取り出すと、全員の防具に順次貼り付けていく。
これは予め調合しておいた“防具コート”を即席で再加工したものだ。持続時間は30分。だが、それで十分。
前衛が交戦開始。金属のぶつかり合う音、魔法の炸裂音、そして怪音を響かせて近寄ってくる虫の群れ――
「うっわ、見た目最悪だな……」
「喋ってる暇あったらポーション投げろレン!」
「はいよ!」
俺は即座に《スローイングポーション:耐腐式》を取り出し、爆発点を見計らって投げ込む。
シュッと音を立てて広がる薬液が、虫の進行を数秒だけ止めた。その隙に前衛が殲滅を完了。
「っはー……ギリギリだったな。助かった」
「言ったろ? 俺のポーションは“戦える”って」
冗談まじりにそう返しながらも、脳裏ではすでに次の状況を想定していた。
敵はまだ序の口。ティルフィアは“これから”が本番だ。
そして――
「……っ。おい、これ見ろ。魔石反応、変だ」
スカウトが取り出した探知石が、微弱に震えている。
光は青紫。通常の反応とは明らかに異なる。
「……コアに近づいてる。これはたぶん、“瘴気汚染型”だな」
“封鎖領域ティルフィア”が封じられていた本当の理由。それは、この瘴気の“変異”にある。
その正体に、俺たちは少しずつ近づいていた。
それは、次の転送区画へ向かう途中だった。
深い霧が立ち込める小峡谷を抜け、朽ちた橋を越えようとしたとき――レンの足が、ぴたりと止まった。
「……ん?」
違和感。
それは視覚でも聴覚でもなかった。“香り”だった。
「……匂いが変だ。ここだけ……薬草系じゃない。金属とも違う。もっと……生っぽい」
周囲にいた前衛組は、特に警戒する様子もなく進もうとしていた。
だがレンの調香スキル《鼻利き》は、決して誤魔化せる精度じゃない。調合素材の酸化すら察知できるこのスキルが、いま確かに警鐘を鳴らしている。
「ちょっと待った。前進ストップ」
レンの声に、ギルドメンバーが訝しげに振り返る。
「は? 何かあったか?」
「空気の匂いが急に変わった。魔気じゃない、これは……“生体反応”に近い」
「まさか、ステルス型……?」
その瞬間だった。
霧が“逆流”するように渦を巻き、橋の中央から、巨大な“何か”が這い出した。
「――構えろ! 前衛、前へ!」
「後衛支援、レンは退けッ!」
ライトの怒号が響くが、レンは退かない。
“それ”は、通常の敵とはまったく異なっていた。
黒い仮面のような外殻。流れるように動く粘膜の鎧。
そして、周囲の空間から魔素を“吸い込んでいる”異常行動。
「……こいつ、ポーションの“気”を喰ってる……?」
信じがたいが、確信だった。
さきほどレンが手にしていた補助薬瓶。その栓を開けた瞬間、やつの“仮面”がピクリと動いたのを、彼だけが見ていた。
「……“嗅いでる”のか? 俺のポーションを?」
やがて敵は、前衛をすり抜けるように動き、レンにだけ一直線に突っ込んできた。
「レンッ!!」
全員が武器を構えるも、間に合わない。
だが――
「……食えるもんなら、食ってみろ」
レンは腰のベルトから一本の瓶を引き抜き、目の前に叩きつけた。
――バシュッ!
爆発する薬液。霧の中にほとばしる、濃縮された香気。
それは、かつて失敗作として封じていた《蒼風・試作EX》、超高濃度の風属性ポーション。
敵が、ピクリと動きを止める。
吸収を始めた……と思った瞬間、急激に外殻が“膨張”し始めた。
「……過剰摂取だ。ポーションってのは、量も含めてバランスなんだよ」
――ズゥゥゥン!
爆ぜるように、敵の身体が四散する。地面を這っていた魔素が浄化されたように消えていった。
一拍遅れて、駆け寄ってきたライトが呆然と呟く。
「……あれ、お前、狙ってやったのか……?」
「狙ったというより……嗅いで確信した。俺のポーション、あれにとっては“毒”になりえるってな」
レンはそう言って、欠けた瓶の残りを見つめた。
ポーションは、味も、香りも、効能も、ただの“便利な道具”じゃない。
時に、武器になる。
「……予想外だったな。素材屋が、戦場で“止め”を刺すなんてよ」
背後で、誰かがクスクスと笑った。
だがその目は、レンの背中に確かな信頼を宿していた。
――これが“想定外の戦果”。
ポーション屋レン、未知の封鎖領域で、“武器職人”としての一歩を踏み出した瞬間だった。