000,過去
それは、俺がまだ小学生だった頃の話だ。
夕暮れの空に、雨上がりのしずくがまだ残るころ。
商店街の喧騒から少し外れた裏通り――人通りもまばらなその細道に、ひっそりと佇む店があった。
──《月光堂古書店》。
古びた木製の看板には、金文字で店名が書かれていた……が、風雨に晒され文字のいくつかは剥がれかけている。まるで、時の流れに取り残された異世界の入り口みたいに、そこだけ空気が違っていた。
キィ、と、音を立ててドアを押し開けると、ふわりと鼻先に香るのは、どこか懐かしいお香の匂い。ひんやりとした静けさが、まるで別の時間へ足を踏み入れたような錯覚を与える。
薄暗い店内には天井まで届く本棚が幾重にも連なり、狭い通路はまるで本の迷宮。
そこに並ぶのは、革の装丁に金文字が浮かぶ魔導書のような本、表紙の色もわからなくなったような文庫本、果ては、文字すら読めない異国語の書籍まで。
しんと静まり返った空間のどこかから、パラリ──と、ページをめくる音が聞こえた。
「……いらっしゃい」
静寂を破ったのは、柔らかくも低い声。
振り返ると、本棚の影からひとりの老人が現れる。
銀髪を後ろで束ねた、古書の精霊のような佇まいのその人は――
「ただいま、おじいちゃん」
そう、彼は俺の祖父だ。
「おやお帰り、れん」
にこりと笑うその顔には、シワが刻まれていたけれど、瞳の奥は本のように深く、やさしく光っていた。
「学校はどうだった?」
「楽しかったよ」
ありふれた会話だけど、妙に心が落ち着いた。
周囲には数人の客がいたが、誰もこちらを気にせず、それぞれの“物語”を棚の中に探しているらしい。
俺はそのまま奥へ走っていき、ランドセルを棚の横にぽん、と置く。
「おばあちゃんもただいま」
「お帰りれん。どら焼きあるよ食べるかい?」
いつもと変わらない、古書と香の匂いに包まれた、俺の“帰る場所”。
ここが俺の原点だった。
「──ただいま、おじいちゃん」
木の軋む音とともに扉を開けると、変わらぬ香の匂いが鼻をくすぐる。
奥の棚から現れた祖父は、あの頃と同じ笑顔で俺を迎えてくれた。
「おやお帰り、れん」
にこり、と目尻を下げるその表情には、あの頃よりもいっそう深く刻まれた皺があった。
けれど、その瞳の奥にあるものは何一つ変わらない――本のように深く、そして包み込むようにやさしい、静かな光だった。
「学校はどうだった?」
「……いつも通りかなおばあちゃんのところ行ってくる」
2階へ上がりそっと奥の部屋の扉を開け、座布団に座る
「ただいまおばあちゃん」
そういいながら俺はおばあちゃんの遺影に手を合わせる
もう何度目になるだろう。
気づけば俺は、もう高校生だ
でも、ここに来るとまるで時間が巻き戻されたみたいに、幼い頃の自分に戻ってしまう。
一階へ降りおじいちゃんと雑談をしているとふと、胸の奥から湧き上がる感情が、言葉になってこぼれた。
「最近どう? 楽しい?」
祖父は驚いたように目を細め、少しだけ首をかしげた。
「どうしたんだい、急に……でも、そうだね。おばあさんとの思い出の場所であるここに、こうして居られるだけで、私は十分満足してるよ」
そう言って笑うけれど、その瞳の奥には――ほんの、ほんの少しだけ、揺れるような寂しさが宿っていた。
この古書店も、祖父も、そして俺の子ども時代も――何かが、少しずつ変わって、過ぎていく。
それでも、ここだけはまだ残っている。
俺の“帰ってくる場所”として。
ここでは――俺は、ただの高校生だ。
朝は眠たい目をこすって登校して、教室の窓際でぼんやり外を眺めて、帰り道にコンビニで甘い菓子パンでも買って帰る。
そんな、ごく普通の日常。
でも、あの世界なら――
“俺にだって何かできるかもしれない”。
ガチャンと自室のドアを閉め、机に腰かけた俺は、起動しておいた端末の画面に目を向けた。
静かに、でも確かに、ログイン画面が明滅している。
「……ここでなら、おじいちゃんも」
俺の中の小さな希望が、じわりと胸を熱くする。
このゲームの情報は、事前に徹底的に調べてある。
戦闘は苦手だ。PvPなんてのは、正直見てるだけで胃が痛い。
それでも、このゲームには“戦わずに稼げる道”がある。
コツコツ積み重ねて、世界を変える力に変える方法が、あるんだ。
だからこそ、俺は決めている。
「最終目標は、おじいちゃんに……あの頃の商店街を見せること」
おばあちゃんと手をつないで歩いていたという、あのにぎわいの風景を。
今はもう人もまばらな商店街に、活気と笑顔を取り戻すこと。
それが、俺の“旅のはじまり”だ。
そしてそのためにも、まずは――
「……この世界で、生きる術を手に入れないとな」
ログインボタンに、そっと指を伸ばした。
画面が瞬き、視界が深い光に包まれる。
今はまだ小さな一歩かもしれない。
でもきっと、未来はこの先にある。