世田谷センター ー基本的には土日が休みだったー
豊川と出会ったのは生協の戸別配送のバイト時代だ。世田谷区の全域と杉並区と大田区の一部に消費材を戸別配送する世田谷センターは経堂にあった。
高校を卒業して何をするでもなく、人生をなめ切りダラダラとバイトしながら野方の実家で寝起きしていたぼくに三つ年上の彼女が出来たとき、ぼくは阿佐谷のスーパーで週四のバイトをしていた。一方ではこの春、大学を卒業して役所に勤めだした弟が早々に実家を出てしまい、何かとお互い我慢していた父親との関係がいよいよ限界に迫っているのは明らかだった。
そこで、信州の城下町から大学の為に上京したまま、今は八王子の運送会社の事務所で働く、町田で一人暮しの彼女に同棲させてもらえないだろうか? と持ち掛けてみた。友達のバンドのライブで知り合ってからまだ半月だった彼女は二つ返事で了解してくれた。もちろん家賃諸々を折半する条件で。ぼくは母親と飼い猫にだけ相談し、スーパーのバイトを辞める前に出来れば小田急線の沿線で新たなバイトを探した。
配達する消費材の歩合と一部は時給になるらしい大まかな額は大したものではなかったが、グスグズして次のバイトを決めないでいることも出来なかった。軽自動車の箱型バンで30~40軒ほど回るルートを一コマとし、午前午後の二コマの日とどちらか一コマの日、そして倉庫作業要員として働く時間があり、仕事に慣れてきたらそれらを週五で組み合わせてもらえるらしく、基本的には土日が休みだった。彼女はぼくがもらえるだろう給料よりも自分と休みが重なるのを重視し背中を押した。そんなわけで二十四歳の秋にようやく実家を出て、ともすれば二つ違いの弟が国立大学を受かったときよりも父親は安堵した。
豊川はぼくと同じ歳だった。他にも二人の同学年がいた。男と女だ。どうだろう? 全部で三十人くらい働いていたと思うけれど、殆どが年上でセンターの中心はおばさま方が担った。センターには生協の本部職員が数名いるだけで、ぼくが在籍した組織はいわば下請けだ。元々は共同購入していた地元の主婦たちが、戸別配送へ舵を切ろうとしていた生協の本部から話を持ち掛けられ一念発起してつくった組織だという。いずれにせよ世田谷で暮らす、食べ物と使い勝手のいい若者に対して口うるさいおばさま方が仕切っていたのだ。
ぼくらは一番の年下だったし、ぼくは最も新しいバイトだったのであれやこれらやこきつかわれたものだ。当たり前だが腹の立つことは多く、荷物を間違えて置いてくるミスも多かった。
それでも一年後には九コマと倉庫作業と、配達員が回収してきた注文用紙を専用の機械へ読み込ませるとき、受注できず弾かれてしまう不明な消費材番号や数量を回収元へ確認する簡単な事務の手伝いもするようになっていた。気持ちがいいくらい、誰もが誰の話だって聞かないおしゃべり好きなおばさま方からは相変わらず、都合のいい家電並みに好き勝手扱われ、担当する配達先からも、大根がどうした、豚肉の脂肪がこうした等とグチグチ叱られ、一度だけ男の老人に襲撃されたことさえある。
今でも謎なのだが、その配達先の組合員から指定されていた玄関先のクーラーボックスに今日も荷物を詰めていると、突然鶏ガラのような上半身裸の老人が背丈ほどある硬そうな六角形の杖を手に、裏庭の方から飛び出してきて「この脱走兵めがっ!!」と襲い掛かってきたのだ。ぼくは反射的に手を出してしまわずに、玄関先へ停めていた、ぼくの車の陰に逃げた。(おそらくは時を超えた痴呆のジャングルの中で)激昂する裸の上官が、ロゴをラッピングした軽の左ドアを杖で乱打しているとき、隣近所から人が顔を出しついには警察が自転車で現れる事態にまでなったものだ。もっとも次の日の夕方には家族の方が頭を下げに菓子折りを持って事務所まで来てくれた・・・・・・ぼくはあのセンターで少しずつ大人らしい我慢を覚え始めていた気がしていたし、凶暴な鶏ガラへ反射的に手を出さないでいられた自分にいくらかの自信を持つことが出来た。そしてまた、いよいよ彼女が三十代に入ることでぼくらは人生の中にある、どれだってかけがいのない一つの季節を過ぎようとしている自覚を持ち始めてもいた。週末に二人でグタグダし、ときどきは大きなケンカに発展してしまう休日を何回も何十回も繰り返していたら、同棲を始めた頃と比べて、出会いは単なる偶然だったとする色合いが徐々に薄れてきていた。だからなんとなくではあったのだが細やかな将来を口にするようにもなっていた・・・・・・。




