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「#明治神宮赤い風船」ー柿未満栗以上の先端ー

 あくまで世間的にはそう言われているに過ぎないのだが、赤い浮遊体が最初に目撃された場所は明治神宮の境内である。本殿に向かって右側に植わる楠の枝先にそれが浮かんでいた旨を、三十路の女優が写真を添付してツイートしたのだ。彼女はこのニ、三年で急激にメディアへの露出が増えた舞台育ちの演技派だ。

 ようやく仕事の内容と忙しさ、更にはツイッター等に理不尽なアンチコメントが散見し始めたことで、とにかく今までの努力が報われ始めているのを実感していた遅咲きは、二つ違いの妹と参拝に来ていた。九月に入ったばかりの平日のことで時刻は午前十時過ぎ。頭皮や肌にまとわりつく東京の蒸し暑さは昼夜を問わず健在した。照葉樹を主な構成木に植える100年の杜の土の中から這い出し、もちろん濡れることなどないのだが、滝の飛沫のように鳴くセミに残された恋の季節もアディショナルタイムに突入してはいなかったと言えよう。

 実は来週の大安に妹がこの神宮で挙式を上げるのだったが、自分は明日から三カ月ほど映画の撮影で海外へ行く予定だった。誰よりも愛する妹の晴れ姿を見られないのは残念なでしかなかった。しかしたとえ誰よりも心配し続けさせた、今頃は三鷹の実家で昼食の用意をしてくれている母親が倒れてもこの大きな仕事をキャンセルするつもりはない。母親も妹も私が更に強い覚悟を持ちもっともっと飛躍するのを、何を犠牲にしても一番に望んでくれているのだから・・・・・・おねぇちゃんの「濡れ場」を実際に見たことのある私は全然平気だよ。相変わらず燻っていた時代に巡ってきたチャンスの切れ端を妹へ相談したら、まだ大学生だった妹は笑って言ったものだ。私は家に誰もいないと勘違いしてしまい、当時付き合っていた酷く貧乏な劇団仲間と服を着たまま我が家の台所でことを始め、それを目撃されてしまった過去があった。キスの一つもしたことがなく、しかも一方的な恋に失恋したばかりだったらしい妹からは、もう二度と家の中ではしないでよ、と手を震わせながら睨み付けられたものだ・・・・・・そんな彼女が、この世の何よりも「お腹を労りながら」白い角隠しを被りこの石畳を歩くのかと思うと感慨深く、日傘の中でかけている色の薄いDiorの内側から本当の涙が流れた。

 晩夏が続く、いやむしろ真夏が続いている、と言えるのかもしれない平日の午前中の境内は閑散として日差しはすでに強烈だった。それでも足を踏み入れているのは神域だった故、湿気をものともしない新鮮な空気に満ちていた。袴姿の権禰宜さんたちが熱し始めた玉砂利の上を竹ぼうきで掃く物音になんだか背筋が伸びる。

 賽銭箱の前で日傘を畳んだ私が財布を開けると、水平なつばのneを取った妹は手で制し百円玉を一枚くれた。万札のニ、三枚くらいは入れときたい私だったが、式の費用は十分な額ですから、と妹は頷いた。私たちは横に並び二拝二拍して、名前と住所を心の中で言う。今日こうして参拝できた礼をするだけで、決してむやみに願い事をしてはいけない、と亡き父から姉妹は言われてきたのだった。だからいつも最後に一拝するとき父親を思い出すものだ。

 始めは赤い風船が木に引っかかっているのかと思った。なんて朗らかな光景だろう。幼い子供が手を離してしまい、大人たちが笑って見上げると、まだ終わりそうもない夏の空に消えるでもなく、せいぜい10メートルほどの高さで上昇を止めてしまった。溢れかえる緑色の葉を茂らす枝先にだけしか吹くことのない、虫や花の世界を行き来する風に揺れ続ける。すぐそこにあるのだから子供は自分の失態を諦められない。でも笑う大人たちには風船を取ってやる手段はなく、自分の否を認めさせ諦めるよう説得するか、違うものを買ってやると交渉するしかない。産まれてくる妹の子供が同じようなことをしたとき、彼女はどんな交渉もしないだろう。どれだけ子供が泣きわめいても妥協しないはずだ。玉砂利の上をズルズル引きずり参拝客を笑わせるか不愉快にさせるに違いない。そんな気がした姉は木の枝先に引っかかった赤い風船を指さし妹に教えた。

「えっ、なにあれ?」楠に近づいてあらためて見上げた姉は白い日傘を脇に退けDiorを外し凝視した。

「どこよ?」キャップを後ろ向きに被り直した妊婦は口を開けたまま姉が日傘で指さす方向を探した。

「そこよ、そこ」姉は、真剣に探している感じの妹の表情に戸惑ったし「風船」そのものにも戸惑った。風船にしては歪な形だ。頭の先端が筆柿よりも丸く栗よりは尖っている。大きさは大体バスケットボールくらいだろうか? オレンジ色がかった赤色は有無もなく温かみを感じさせ、まるで目を閉じたとき幸せな夢が始まる、合図がわりの染みのようだった。また一方では、実際には見たことがない想像するだけの火の玉みたいでもなくはなかった。柿未満栗以上の先端が愛らしいフレアのように揺れて見えるのだ。それにしても、どこだどこだ、と目を凝らす妹のこれが演技だとしたら私なんかよりもよほど優秀だぞ・・・・・・。

「葉っぱしか見えないわよ・・・・・・あとは空?」妹は自分自身に笑ったようだった。

「嘘でしょあんた?」姉も声を上げて笑った。




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