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強い風が吹いた日 ー冗談だよ。本当の話だけどー

 「お前、私を忘れただろ。豊川だよ。豊川。今は藤田だけどな」

 「・・・・・・」これまでの人生で豊川姓の知り合いは一人しかいない。ぼくのことをお前呼ばわりした、同じ年のベリーベリーショートヘアーの女だ。ぼくらはニ十三、四歳から四年間だけ同じ職場で働いていた。

 「・・・・・・」

 「えっ、トヨカワってアレっすか?」

 「なんだよアレって」

 一瞬で遡った記憶の先にいる、すぐそこの女が笑う。

 「マジかよ、お前か」

 嫌な奴だったし、いい奴でもあった、懐かしい相手に向かってつい大きな声を出してしまい、保安室の中にいる彼女の同僚たちが一斉に顔を上げた。

 彼女は彼らに微笑みながら頭を下げ、ぼくの太腿にはそこそこの力で膝を入れた。

 「お前、髪長いな」ぼくの知っている彼女の黒髪は常に数センチの長さしかなかった。陰で「ソフト角刈り」等と呼ぶ者がいたけれど、それは確かに素晴らしく言い当てた揶揄だ。

 「お前は短いんだな」

 彼女が知っているぼくは肩まで髪を伸ばしていた頃のぼくである。

 「週一で来てただろ? 髪が長くなっていても気がつけよ」

 「あっ、いや全く。すみませんでした。元気そうだな」普段は聞こえない最も重要な音、心臓の音が胸の中で響いた。

 「赤ちゃんも元気そうだぜ」女は自分のお腹を摩った。

 「あっ、おめでとう」ぼくは、とにかく再会にとても驚いていたので、余り気持ちのこもっていない祝福を口にしてしまった。

 「今度こそな・・・・・・」豊川はぼくに頷いた。

 「・・・・・・おっ、おめでとう」今度は心を込めて祝福した。

 「いま、同じこと言われた気がするけど、デジャヴか?」豊川は笑った。

 「俺も娘がいるんだ。小学校の二年生」

 「あれか? 町田のメス猫の子か?」

 「・・・・・・まぁ確かにそうだよな」ぼくも笑ってしまった。

 「後で電話してもいいか? あの番号にさ」彼女は、ぼくが受け付に記す(会社から支給されている)スマホの番号を言った。

 「もちろんだよ。いつでもいいよ。でも今は早く場所を開けないと他の業者さんに迷惑だからな」本音では、こんな時は迷惑上等だったし彼女をハグしてやりたかった。でもぼくにはどちらも出来なかった。

 「この子日本人だぜ。旦那が日本人だから」女はぼくをからかうつもりで意地悪そうに笑った。

 「・・・・・・」

 風が止んだぞ、と話しかけてきた警備員の女が昔のままの「あいつ」である確かな片りんを示した。懐かしい気持ちが溢れる、この厄介なからかわれ方にぐうの音も出ず、絶句は瞬きを要求し瞼はそれに同意するだけだった。

 「冗談だよ。本当の話だけど」彼女は全く嬉しそうに微笑んだ。あるいは誇らしげだったのかもしれない。もちろん自らの出自ではなく相手を戸惑わせた冗談に。

 「あぁ。頼むよ」生殺しを目途とされ、腹部ではなく太腿とかに刃物を刺され楽し気に捩じられたようなぼくは俯いて笑うしかなかった。

 「赤い奴の話知ってんだろ?」彼女はあの時と同じように涼し気だ。今も気持ちがいいくらいに涼しげだ・・・・・・。

 「もちろん。真っ先にお前のことを思い出したよ。とにかく必ず電話しろよ。こっちからは掛けにくいから」個人的な用件で納品先のある商業ビルの保安室へ電話を掛けられるわけがない。

 「行きなよ。次のトラックに怒られちまう」彼女は少し躊躇いながら、今さっきぼくからは出来なかったハグをしてくれた。でもそれはサヨナラの合図に他ならなかったことが今でこそ分かる・・・・・・彼女がぼくを捕まえた日の朝、九時三十分に昨夜からの風があのタイミングで吹き止んでいたのは、何をどう考えても偶然でしかないのだが、彼女にとっても「昨夜からの風」が止んでいたことなど全く意味のない現象に過ぎなかったに違いない。そもそも気が付いていなかったんじゃなかろうか、とも思う。彼女が言う、吹き止んだ「風」は、人知れず、時には手に負えなくなってしまうこともあった、彼女だけの世界における「冷たい風」に他ならないからだ。そのことをぼくに伝えようとしたのだ。それなのにぼくは「意味のない偶然」に気を取られてしまい、いやこれまでずっと気を取られ続けてしまっていた、というべきだろう。だから思い当たるまで実に長い時間を要してしまったわけだ。彼女のことをあらためて思い出しながらこの文書を書いていると、ようやく今初めて気が付くのだった・・・・・・。


 彼女は電話をかけてこなかったばかりか、次の週に顔を出した時には、過去に「流れて」しまったことがあるので、安定期に入る前こそが「私たち」には最も大事なんです、との理由で警備会社を辞めていたのを知った。お腹周りが目立つでもない彼女は、しかしとっくに辞職日を決めていて、ぼくには教えてくれなかったのだ。話をしてくれた男の警備員はぼくの顔を見ながら、先週の火曜日の朝、小さな窓口から目撃したことを念頭に置き何かを詮索するように知っていることを教えてくれた・・・・・・。



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