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強い風が吹いた日 ー受付ノートの退館時刻に9:30と書いたときー

 おはようございます、とカウンターの中で後ろを向いていたあの女の子に声を掛けた。歳はきっと二十歳を過ぎたくらいに違いない。彼女の名前は胸のバッチで知っていたが、向こうはぼくの名前を知らないし知る理由もない。ぼくは納品業者らしく敬語を使い、彼女は忙しそうにしていても、愛想よく伝票と商品の数を声に出して読み上げた。黒くて丸い大きな瞳が微笑むだけで、辺りの空気は清涼感に満ちる。繰り返しだが、実際の時間以上に時間に追われてしまう配達員が、配達物の確認作業を億劫がらない納品先はそうそうあるものではない。

 しかしどうしてか、ぼくの声に反応して振り向いた今朝の黒目は恐ろしいほど吊り上がっていた。牙のようだった目でひと睨みすると、小さな白い顎で奥歯を噛みしめた。鳥や恐竜の謎と匹敵するやもしれない謎の事情があったのだろうが、間違いなくぼくが原因しているわけではない。浜辺の朝日と里山の夕日くらい違う、声のトーンを違えた彼女と二人で検品している間、まぁ五分程度なのだが、ぼくにはそう確信する以外の救いは何一つなかった。

 ありがとうございました、と言って無視され不可解で不愉快な緊張から解放された。赤い浮遊体が云々と話しかけようとしていた細やかな期待は斜めすぎる角度で敗北したわけだ。

 たった数分前の入館時とは違い、キッチリ閉じたスイングドアを空の台車で押し開けると、そこには「二度目の出来事」が意志を固めていた。

 受付窓口の外に帽子を脱いだ警備員の女が立っていたのだ。女の顔もどこか強張り、ぼくは一瞬こいつも何か腹を立てているのか? と警戒した。だとしたら、思い当たるものは何一つないが、あからさまに何かしらの感情を表す顔をしてわざわざ外に出てきているのだから、原因がぼくにある可能性を否定することは出来ない。ぼくは腹の中で小言を呟き胸につけていた入館バッチを誰もいないカウンターへ返し、同じ置時計で時刻を確認した。受付ノートの退館時刻に9:30と書いたとき、横に立つ女の小鼻は膨らんだ。

 「・・・・・・えっ?」ぼくはいくらか小ばかにして白々しく驚いてやった。

 「風が止んだよ」

 ぼく自身が当事者となる、すごいことが起きようとしていたとき昨夜からの風は本当に止んでいるようだった。少なくともスイングドアの状態に影響を与えるほどの風は確かに吹いていなかった・・・・・・。


 水平にカットされた前髪は肩まで伸びていて、おでこと眉毛と耳を完全に隠していたが、顔は真っ赤だった。普段窓口の中に座っている女の背丈はヒールを履くでもなく意外と高かった。ぼくとそれほど変わらない。女性にしてはまず長身と言えよう。制服のスカートが膝上だったことも意外性を感じたが、ストッキングを履く足はスラリとしていて、思えばこれまで何度か目にしていた女の手の指も細かった。左の薬指には細い指輪を嵌めている。

 今度はこちらが顔を引きつらせてしまい、真っ赤な顔の女を凝視した。少し切れ長の目は細く瞼は浅い二重だ。鼻筋は冷たい水のような冷静さを持ちながら、しかし今もいくらか膨らみ、上唇は薄い。

 「風が止んだんだよ。池田」

 女は自分の意志や決断によった言葉の恥ずかしさに瞳を潤ませ、ぼくの名前を呼んだ。




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