冷たい風 ー風にでも聞いてみればー
いつか伊豆で立ち寄った所のような、小さな湾内で一人、手漕ぎボートに乗っている夢だった。波はなく、向こうに岸は見えていたし湾を囲む白い防波堤はもっと近くに見えていた。まだ幼い私に、この櫓を漕いで戻るのは難しいかもしれないが、潮に流され湾外に出てしまう怖さはなく、そのうち誰かが岸に係留している船を出すとき見つけてくれるだろう、との確信まであった。
夢のなかで昼寝をするのは不可能かな? と豊川は夢のなかで考えた。夢のなかでこれは「夢」だ、と気が付くとき、大概は目が覚めているのだったが、この夜は目覚めず、しかも自覚を持てていたので波間に漂う状況に更なる安心感を得るのだった。完全に独りきりになれた安堵のようだった。
そんなわけで幼い彼女は夢のなかで昼寝をした。そして冷たい風を胸の内に感じると目が覚めた・・・・・・三年後に、五年生になっていた豊川は母親の財布に手を付けたことを咎められ「風にでも聞いてみれば」などと開き直っていたら、今まで見たこともないくらい激昂した母親に長い黒髪を後ろから引っ張られたのだった。
お金を盗んだうえに、生意気な態度を取ってしまったかもしれないけれど、あの人は絶対にやっちゃいけないことをやってくれた・・・・・・豊川は風呂から上がりドライヤーで髪を乾かしている時、鏡のなかの自分にそう呟いた。
その夜に昔見た同じ夢を見た。しかし今度は湾の外に出ていて、海上は凪いでいるのに風だけが強く、そしてとても冷たい。五年生になった豊川は夢の中である自覚を持っていたのだが、またしても目を覚ますことはなく、このままどこにもたどり着けず漂うだけの不安に駆られた。独りきりになれた安堵などなかった。ふと気づけば無音だったことが慈悲なのか無慈悲なのか分からない、そんな風の冷たさに震え続けるしかなかった・・・・・・どのようにして目が覚めたのか覚えてはいない。ただ時刻が午前5:45だったのだけは覚えている。昼の仕事をするようになって不眠に手こずる夜があるとき、ようやく、眠くなるのがその辺りの時刻と決まっているそうだ・・・・・・。
「なんだか話のオチみたいだけど本当のことなんだよ。午前5:45」
「・・・・・・夜の仕事をしていた時は午後の5:45だったのか?」ぼくには冗談を言うことしかできなかった。当然だと我ながら思う。
「確かに昼間に眠れなかった思い出は、たぶんないか、あまり思い出せないかな・・・・・・でもそうだな、朝の5時に店が終わって少しグダグダしてから家に戻ると6時前だったから、5:45って、あの頃の毎日にも関係があったと言えばあったけど。っていうか私にとって何かしらがある時刻なんだろうか? 今まで気にしたことなかったけど・・・・・・まぁ偶然だな」
「風って今も吹いてるの?」
「風?」
「そう冷たい風。胸の中にさ」
「そうだな。覚えている限りで言えば五年生のときに見た夢が最後だけど、たぶん今も吹いてると思う」
「どういう感じなの?」
「どういう感じ・・・・・・なんかさふと気づくと寒々しい気持ちになるんだ。そのとき、あっ、この感じって知ってるぞ、ってなる。けっこう落ち込むぜ」豊川は他人事のように笑った。
「いつか止むといいな」ぼくには他人事だったけれど、本当に願った。
「親子関係ってすごく大事なんだよ。覚えとけよ」
「俺もそれほど良好じゃない方だろうけど、覚えとくよ。ありがとう」
でもぼくはたぶん覚えなかった。そうたぶん・・・・・・。
ぼくらはしばらく黙ったまま、リングドーナツの残りを食べ、氷の溶けたアイスコーヒーとラテをそれぞれ飲み切った。もちろんそれは互いに促す合図だ。
店を出て改札までついてきた豊川は別れ際にぼくをハグした。ぼくも彼女に応えた。
「ラインの交換くらいしとこうぜ」当然のように提案した。だってそうだろう?
「もう帰れよ。週明けでいいよそんなモン。お前のメス猫が待ってるんだろ。とにかく悪かったな。無理やり捕まえてつまらない話を聞いてもらってさ」
「悪くないよ。ここに勤めて一番有意義な日だったよ。交換くらいすぐ終わるから、ほれっ」
でも豊川は首を振り、まさか週明けに三日も欠勤したのだ。ぼくは二度と彼女には会わないと思った。彼女なりの理由があるのだろうから、手段はいくらでもあったがこちらからも繋がろうとしなかった。
ぼくは髪を切り、予定していた日に区内へ引っ越し、決まっていた新しい職場に勤め始めた。与えられたルートを覚え、新しい職場の誰がどういう奴で、こういう奴なのかを知り、相手側もぼくを職場仲間として付き合ってくれるようになった。
子供が出来たのは夏前で、ぼくらは籍を入れたが式は挙げていない。だからなのかもしれないけれど、互いの親同士は微妙な関係が今でも続いている。もちろんぼくと父親の関係も未だ微妙だ。
あの日、町田の酒屋で月に一度値引きされるビールの箱買いはできなかった。ぼくが転がり込んでからずっと二人で続けていた毎月の細やかな楽しみだったのだが、帰りが遅すぎたのだ。「既読」だけでずっと帰宅を待っていた彼女は、しかし何も言わなかった。ただ最後の箱買いは初めての「エビス」にしようと決めていたことを、ぽつり呟いた。
ぼくも、もう嘘はつかなかったが、詳しく聞かれなかったのであえて話すこともしなかった・・・・・・。
週が明けて三日後に、小さな花束を抱え帰宅すると「ちゃんと戻ってきたんだね」と彼女は言った。
「ちゃんと帰ってくる以外、帰りようがないっしょ」ぼくは小さな花束を彼女に渡した。
彼女は適当なグラスに花を活け替えてから、冷蔵庫を開けると六缶パックに収まったままの「エビス」の500ml缶を二本取り出した。
「これで心置きなく引っ越せるわ・・・・・・あなたと」ぼくたちは缶と缶を軽く合わせた。
思えばそれはとても不穏な乾杯で、今年五月の「避難訓練」以来ちょくちょく現れる、今朝も漂ったあの不信感を表す表情の礎になっているに違いない。




