冷たい風 ー机のスタンドライトもちゃんと消したー
朝鮮人と日本人の組み合わせだった夫婦は、一人娘が小学校二年の冬に離婚した。朝鮮人の父親は我慢強く憎たらしい目で微笑み返す日本人の妻へ、ある程度の手加減をして当たり前のように振るっていた暴力と、口は確かに堅かったもののしかし一旦開けば嘘ばかりつく、まだ幼い娘を手放すことに後悔などなかった。請求された慰謝料と合意した今後十数年間の養育費を、日本人の血が流れる孫の顔を一度も見ることのなかった、人一倍意思の固かった裕福な母親の死亡保険を使い、もちろん実の兄弟とはかなり揉めたのだったが、ついには押し切りまとめて支払うとむしろ清々したに違いない。
妻と娘を失くし、実母を亡くし、姉と弟ともほぼ生き別れを決断した男は、とっくに伊豆ドライブの相手とも縁が切れていて、本当かどうか確かめようなどないけれど「ソウル」で出会った、一まわりも歳の違う「脱北者」の踊り子と、あくまで見かけは幸せそうに大阪で暮らしているらしいんだ、と豊川は教えてくれた。
「冷たい風っていうのはさ・・・・・・」豊川は続ける。
「バカな母がようやく別れる決断をする切っ掛けになったのは、髪をひっつかまれて台所を端から端まで引きずられたことがあって、それはどうしても許せなかったからなんだ。私が中絶したあと髪を丸めたのも、そのことが少しばかり影響していたのかもしれない」
「・・・・・・」ぼくは頷くことすら出来ず、話し続ける彼女の言葉に耳を傾けた。
その日は親善試合としての日韓戦が「国立競技場」で行われ、当時のフルメンバーを収集した両国代表はどちらも負けてはならなく、それは「日本のホームゲーム」だけに韓国代表はなおさらだったし、もちろん日本代表もなおさらだった。
試合内容はよく覚えていない、というよりも豊川は試合そのものを見てはいなかった。去年よりあてがわれた、二階の自分の部屋で嘘のような話だが自ら「算数ドリル」を開き、そのころはすでに分数計算まで進んでいた。
下の階で皿の割れる音がすると母親の悲鳴も聞こえた。小学二年生の女の子は、目の前にある分母と分子を約分することが出来なくなった。
聞き慣れた乾いた音が、今夜は普段よりも多く聞こえ、再び皿かグラスの割れる音がして母親の悲鳴は「朝鮮人っ」と叫んでいた。
「記憶を変えて覚えてしまっているのかもしれないけれど、今の私はそう覚えているんだよ」
「・・・・・・」
今、下へ降りて行っても私には何もできないし、すごく怖いし事態を悪化させるだけなのが分かっていたのだが震える手で「算数ドリル」を閉じ、丸くなり始めていた鉛筆を握り直すと表紙の青い小鳥の目に突き刺した。幼い少女は静かに立ち上がり、そして実に机のスタンドライトもちゃんと消した。
「何見てんだっ!!」父親は割れた皿やグラスのとっ散らかる、真新しい血痕もある、荒れた台所に仰向けで寝そべった母親の長い黒髪を鷲掴んでいて、気が付けば階段の下に立っている娘に怒鳴った。裸足の父親の足もとには一際色の濃いい血溜まりが出来ていた。
「・・・・・・」これが私にも半分流れている血の色なんだ、と娘は心の中で呟いた。その時は全くバカげた色だなと思ったらしい。
「仕事仲間と賭けをしていたんだって。幾らかはしらないけど結構な額で、でも額が問題ではなく、なんて言うか・・・・・・分かる?」
「出自的な?」
「まぁね」豊川は下らなそうに鼻を膨らませた。
母親はトレーナーを着ていて、ジーンズも履いていたし踵まで隠すスリッパも履いていた。父親の右の土踏まずの傷に比べれば、殆ど無傷だったがもちろん心は違う。夫よりもずっと深手だった。
「バックパスを奪われて負けやがったんだ」台所で雑誌を読みながらテレビ観戦していなかった妻は、テレビを消して熱く語りにやって来た夫の解説を片手間で聞き、少しだけ笑った。夫も笑った。しかし笑い方に不穏な空気を感じた妻が雑誌から目を離すと椅子事引き倒されたのだった・・・・・・。
怒鳴りつけられた娘は、睨み付ける父親の目から視線を外し、髪を掴まれたままこちらに首をもたげている母親と目があった。母親の目は怯えてはいなかったし、涙を流してもいなかった。ただとうとう行き着いてしまった「情」の限界点でしか浮かばない「無」に冷やされるとても冷たい目をしているだけだった。もちろん、父親に何も言えない、庇ってあげられない、私に対してのモノではない。この男を愛してしまい縁を持った自分自身に対する、どうにも冷めたモノだ。
その夜に初めての冷たい風が、夢のなかで胸の内に吹いた。




