冷たい風 ー死んだクラゲのようだったー
どうしても、誰かに自慢したかったの、と豊川は言った。だって本当に私が最初に見つけたんだから・・・・・・。
彼氏はいないが友達はいないでもないらしい豊川は、それでもこの動画を自慢できる相手を思いつけなかった。一つには「ヘイトデモ」の中から撮影しているからだ。彼女がハーフであることを知っている友達もいるし知らない友達もいた。しかしまさか「ヘイトデモ」に参加するはずはないし、もし仮にあったとしてもそれは「カウンター」の側からの参加だろう。誰ともそんな話をしたことなどないけれど、そう思われているのは明らかだ、と言う。きっとそうなんだろうな、とぼくにも思えた。
お前とは殆ど話したことなかったけれど、と豊川は続ける。お前は辞めるし、最後に自分の勘を試してみたかったんだ・・・・・・。
ぼくが配達先の半裸の老人に杖で襲われたときの話を耳にしたとき、あの職場で珍しく声を上げて笑ったらしい。そしたらその夜に、夢のなかではなく目が覚めている状態で泣いたと言う。泣くことが出来た、という言い方だった。冷たい風を感じる夢のなかではよく泣いたりもするのだが、その夜はスマホをいじりながらYouTubeでMEWの「Comforting sounds」を聞いていたら普段とはどこか違った時間の止まり方を感じていることに気づいた。すると突然泣き出してしまったらしい。訳が分からず自分でも酷く戸惑ったのだが、心当たりを持ったまま、まるで止まっていた生理が突然再開したような安堵を得た。だから泣くだけ泣くとさすがに頭は痛くなった。どうして何もしていないのに半裸の老人に襲われるほどバカなのだろう? あいつといつか話してみたい。それほどまでのバカなら、出来ればいくつかのことを打ち明けてみたい・・・・・・。
「打ち明けるってなに?」ぼくは危なくアイスコーヒーを噴き出すところだった。
「ただ聞いて欲しいだけだよ。慰めとかまさかアドバイスなんかいらない」
「聞いてればいい?」
「・・・・・・出来れば許してもくれるとありがたいっす」恥ずかしそうに下を向いた。
「逆に、許すってなに?」なんだか変な夜になり始めたけれど、豊川は何を悔悟しているのか興味はあった。
「許すっ、て言えばいいんだよ。形だけだよ。お前は神父でもなんでもないんだから」
なぜか逆ギレ気味だった。
「時間は平気か?」
「平気だよ」ぼくはうっかりしていて時間のことを忘れていたのだったが、まだ平気だと思った。
豊川はラテを一口飲み息を吐いた。
「・・・・・・子供のころあきちゃんのワンピースを盗んだことを謝ります。ごめんなさい」豊川は持ったままのマグカップの縁を指でいじりながら、あきちゃんかあきちゃんのお母さんか、誰かに謝った。神様とぼくにではなかったことは確かだ。
「で、俺は許すって言えばいいの?」不思議な立場に立たされたわけだが、彼女に付き合おうと思えた。
「う~ん。やっぱいいや。言われると腹が立ちそうだから」豊川の目は何かを本気で考えているように見えた。
「・・・・・・」言わなくていい、と言われると逆に言いたくなるものだ。
「親友を裏切ってしまい、みんなで追い込もう、と提案したことを謝ります。寺井さん本当にごめんなさい」
まるでぼくの目の中に「寺井さん」がいるかのように凝視した。当然だがぼくの目の中にはぼくがいるだけだし、仮に映っているとしたらそれは豊川本人でしかない。ぼくは見つめられながら豊川の目の中に豊川を探し返えそうとしたが、見つける前に彼女は瞼を閉じてしまった。ぼくの目の中になどいない「寺井さん」にしっかりと心から謝りたかったのだろう。
「許します」ぼくは言った。豊川は無視した。
「・・・・・・高校を辞めるまで同級生相手に三千円で身体を売っていたことを後悔しています。ごめんなさい」両親に対して謝ったのだろうが、そんなことよりもつい口に出てしまった。
「えっ、幾らだって?」
「値段を後悔してんじゃねぇんだよ、アホか」
「・・・・・・許せませんね」どっちがアホだというんだ。またしても豊川はぼくを無視した。たぶんそれほど腹を立ててはいないのだ。
「・・・・・・命を奪ってしまったことを今も悔やんでいます。でも今でも仕方のなかったことだったと思っています。どうかお許しください。ごめんね、本当に・・・・・・」
「・・・・・・」
金回りのよかった二十歳のころだったらしい。当時夜勤めをしていた店の同僚と二人、沖縄旅行の夜を楽しんだ。クラブで踊っているとき今夜もナンパされ、そのまま浜辺へ直行した。思い返すとその夜の相手は何よりも口が上手だった。もちろん使い方ではなく「嘘」のつき方だ。東京で高級車を専門に販売していると言う相手から、タクシーの中で渡されたのは事前に飲む避妊用ピルだ。小さく、しかしはっきり舌を鳴らしたタクシードライバーの顔をバックミラーに見ながら、錠剤を奥歯で噛み砕いて飲んでしまった豊川は、東京に戻ったらマセラッティを格安で売ってあげるね、と言われてからの記憶を失う。
翌朝ホテルのプラベートビーチに裸の女の死体が捨てられている、と腰を抜かしたホテルの従業員によって発見されたのだ。スマホと中身を抜かられた財布は波打ち際で潮に濡れていて、衣服は凪いだ海に漂っていた。昨夜穿いていた純白のパンティーは死んだクラゲのようだったらしい・・・・・・。




