強い風が吹いた日 ータイミングは時として友好的な偶然で成立する場合もあるー
家から自転車で十五分くらいのところに、持ち帰り用包材を飲食店へ届ける、ぼくのトラックは停めてある。都のトラック協会に紹介された平場の駐車場だ。もちろん会社が費用をもっているわけだが、ひと月に幾らなのかは知らない。ぼくの担当するルートや、会社の駐車場まで通う交通費等を勘案するとここから出発する方が遥かに効率はいいし、経費としてもあまり変わらないか、少し安いのかもしれない。そんなわけで、勤めだしてすぐに自転車通勤となり、すっかり朝と夕の通勤ラッシュとは無縁でいられている。
雨が降ると広範囲の水たまりが出来てしまう駐車場は23区内にあっても空が広い。いくつかの鉢を置く家のベランダから見上げる空よりずっと広く、転職して以来季節が移行したとき最初にオリオン座を見つける場所になった。
赤い浮遊体がデジタルの世界でさえ消えてしまった、雨の上がったあの日の朝、駐車場には結構な水溜りが出来ていた。まさかデジタルの世界にも同じ風が吹いて、それで吹き飛ばされたわけでもないだろうが、パッカー車や2t、3tのトラックが停まる駐車場の水溜は現実世界の強い風に水面を揺らせていた。自分のトラックの後ろへ自転車を置き、今朝はなんだか空を見上げた。午前七時前ぼくは会社のスマホから出発のデータを送信して発車した。
雨はすっかり止んでいたのだったが、いつもより道は混んでいたし、思った通りにラジヲでは赤い浮遊体が消えた、という話題を取り上げた。
本当に消えたと思いますか? 七年前あなたは見えましたか、見えなかったですか? あの頃にどんな思い出がありますか? 等々どのチャンネルでも今日の「テーマ」としてリスナーからのメールを募った。当時と同じように好き勝手しゃべるパーソナリティとアシスタントの局アナウンサーは誰もが普段の放送より高めのテンションで番組を進めていた。夜の七時に駐車場に戻ってくるまでAMもFMも同じだった。AFN放送は英語なので理解出来なかったけれど、日本中でこれだけ話題になっている「空」なのだから、少しくらい触れていただろう。なんにせよ「管制権は彼らのモノ」だから・・・・・・それはさておき、二つ目の出来事は五軒目の配達先でのこと。そこは狛江の商業ビルに先月開店したばかりの新規店舗だ。
道が混んでいたわりには、普段よりも五分、十分遅れただけだった。
いずれにしろ二つ目の個人的出来事は、すこぶる可愛く愛想もいい若い女の子の販売員と荷受けの検品をする洋菓子屋でのことではない。ビルの入退館手続きをする保安室の受付で起きるのだった。
搬入を終えた他所のトラックと目配せで挨拶を交わし、L字に畳まれた空の籠車と納品用の番重が店舗別にきちんと整理される、搬入車専用スペースにトラックを停めた。今朝は順番を待つ時間が殆どなかった。タイミングは時として友好的な偶然で成立する場合もあるのだ。伝票を持って運転席から降りると強い風はヤードにも吹き込んできていて、二枚つづりの伝票は手の先で勢いよく反り返った。
降ろす荷物を数えてから手押し台車に乗せ、週に一度ちょっとだけ呼吸を整えてから対面するようにしている素敵な店員に、少なからず浮かれていた。新規が増えると大概は面倒なものだが、稀に億劫さを超越してしまう配達先が現れる。先月から配達が始まったばかりだったので三回目だった。
彼女と検品するときに、軽く赤い浮遊体の話題を振ってみようかな? と考えながら保安室の窓口に挨拶した。開いてある大学ノートに搬入先と事業者名と自分の名前と連絡先(会社から支給されているスマホの電話番号)と、窓口に座る警備員が差し出す入館バッチの番号、最後に手元の置時計で入館時刻の9:23を記入した。警備会社のワッペンを縫い付ける紺色のブレザーを着て、少し目深に同色の制帽を被る警備員は黒い髪の女だ。今朝もこれまでと同じ人物だったが、特に印象に残っていなかった。左胸の名札に目を向けたこともない。一応は「おはようございます」と声を掛けあう程度で、それはつまり性別に関係なく警備員として著しく不愛想ではない、というだけであり、むしろここでの搬入に関してはショーケースに色とりどりのケーキを陳列しているか、ショーケースそのものをアルコール拭きしているはずの素敵な店員にしか気が向くことはない。もちろん何を期待しているわけでは決してないのだが、内心にある細やかな喜びは許していただきたい。記入時に差し出された「12」番の赤い丸バッチを胸元につけた。トラックヤードに吹き込む今朝の風に突っつかれ、ある程度の隙間を作ってしまっている両開きのスイングドアを台車の先端で押し開け開店前の一階フロアーへ入った。
天井のスピーカーが押し黙ったフロアーの各店舗は開店準備に追われどこも忙しそうだ。地震や戦争ではないのなら、世間が何をどう騒ごうとも変わりない朝はいくらだってあるのだから。




