駅前のカフェ ー二つのリングドーナツー
センターから駅まで歩くと大体十五分かかる。
なぜかジャンケンをして、しかも負けてしまったので豊川のスクーターを押すことになったのだが、ぼくはステッカーだらけの半キャップを被りエンジンを掛けゆっくりと車道を走った。ときどきスピードを上げてからかうとき、彼女は大きな声で笑いながら怒り、ついには赤信号で止まったぼくを逆に挑発すべく歩行者用の信号を無視してダッシュした。あの十数分は彼女とのかけがえのない思い出だ。結局ぼくらは駅前のカフェに寄り、あの衝撃的な動画を見せられるのだったが、その後どうしてか生い立ちなども打ち明けられた。
奥の席を譲っただけなのに、一度引いた汗を再びかくくらい遠慮しているのが可笑しかったぼくはアイスコーヒーのSとアイスラテのMに二つのリングドーツを乗せたトレーを壁際の四人席に運んだ。
「どうも、すみません」と言い白い革の財布を開ける豊川へ、いいよ、と言った。
ルチャ兄弟を脱ぎウールの赤いセーターになった豊川は引かず、適当な額の小銭をテーブルへ撒きそれをぼくの方へ押しやった。
ぼくも厚手のパーカーを脱いで古着のネルシャツで席に着いた。撒かれた小銭からラテ代だけ受け取り、少しのやり取りが起きた。餞別だから、と言われたとき、だとしたら余りに少額すぎないか? との思いを共有したぼくらは二人で笑い最後は財布に戻させた。
「・・・・・・ありがとう」と言って豊川は他所を向き薄い唇を嚙んだ。死ぬほど不思議だったし、今でもよく分からないのだけれど少し涙目だったのだ。もちろんそんなこと指摘するつもりはなかった・・・・・・とは言え、しばらくこちらへ顔を向けなかったものだから町田の彼女にLINEした。
色々トラブってしまい、まだセンターにいます。エビスの買い出しには間に合うよう戻ります。
彼女にちょくちょく嘘をつく方だけれど、相手が豊川とはいえ他の女の子といるときに嘘をつくのは初めてだったので、それなりの罪悪感があった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
ぼくはアイスコーヒーに口を付けシュガーリングドーナツを齧り、紙ナプキンで指先を拭いた。
「・・・・・・」豊川は他所を向いたまま溜息をついた。死ぬほど意味不明な感情を整えようとしているのだ。
「・・・・・・」冗談のつもりで豊川のチョコレートリングドーナツも一口齧ってみた。
視線の端で見えていたはずだが無反応だったので、ぼくの耳は一瞬で赤くなり後悔した。
「・・・・・・」
「こっちの方が不味いぞ」どうしてぼくは、足を付けただけでわかる、溺れそうに冷たい川でわざわざ泳ぎ始めるのだろう?
LINEを確認すると既読がついた。ぼくらの間で既読スルーは基本的に「了解」だ。
「彼女か?」豊川は何度か瞬きをしてからようやくこっちを向いた。
「まぁな。こっちの方が不味いぞ」ぼくは豊川のチョコレートリングドーナツを指さした。
豊川は鼻で笑うとぼくのシュガーリングドーナツを手前に持ってきて、自分のと交換した。
「・・・・・・いつだか配達先のじいさまに襲われたんだろ?」
「うん?・・・・・・あぁ、あったよ。脱走兵とか言われてな」何を言っているんだ?
「お前って、なかなか素敵な奴だよな」豊川はラテに口を付けて、本当はどちらも不味くなんかないドーナツを齧った。
「年寄に襲撃される男が好みの女がいるってことを初めて知ったよ。今後どこかでチャンスが来たら、そう言って口説いてみるよ」
「・・・・・・よしっ」
豊川は言った。
「ダラダラしても悪いから本題に入りましょうか」豊川はテーブルのスマホをいじり、椅子に掛けていたスカジャンの内ポケットからワイヤレスイヤホーンのケースを取り出すと一応は紙ナプキンで指を拭ってから片方をぼくに渡した。
「どうせ喜んで女の耳に舌を突っ込むんだから、私の耳垢が残ってても平気だよな? 」豊川はシュガーリングドーナツを食べながらケラケラ笑った。
「バカじゃねぇか、わざわざ言われなけりゃ気にしなかったぞ。大丈夫かお前のコレ?」言われたからさすがに少し気になってしまったが、拒むことは出来なかった。向こうは向こうでぼくが齧ったドーナツを食べているのだ。
「息くらい吹きかけてもいいですか?」ぼくは渡された片方のイヤホーンに息を吹きかけた。
「お前って、あれ、最近どこでもワイのワイのやってる赤い浮遊体、あれ見える人?」
「見えないよ。お前は?」
「マジかっ」豊川の声は大きく、洋楽のバラードが流れている店内にポツリポツリいる客がこっちを見た。
「それが何か? そもそも日本人の半分は見えないんだぞ。つまりだな、お前が見えて俺が見えないっていうことはだな、あそこの人は見えてもこっちの人は見えないってことだ。って言うかあれって一体何なんだよな」ぼくは入り口の傍に一人でいる男と観葉植物の横のソファーにいる女のことを顎で指した。
「そうか、見えんのか。やっぱりお前って感じだな。うかつだったぜ」
「やっぱりお前だった、ってそれよくない言い方ですよ。国民の分断を助長しますよ。分かります?」
「ちなみに彼女はどっち?」
「見えるらしいよ」
「へぇ~」
「なに、へぇ~って?」
「へぇ~って感じだよ。それだけ」
「へぇ~」
豊川はトレーを端に寄せて二人の間にスマホを置いた。一分ほどだったかもう少し長かった動画を再生させた。それは本当に彼女の裸の自撮りよりもショッキングであり、にもかかわらずぼくには全く「見えなかった」のだ・・・・・・。




