世田谷センター ーマダムたちは一斉に半笑いしたー
注文書を抱えて事務所に戻ると、今日の受注確認当番のみならず、残っていたマダムたちからの苦言は一言二言では済まなかった。豆腐の誤配で帰着が遅くなり提出がこの時間になってしまったことよりも「豊川」についてだった・・・・・・ぼくはかなり遅くなってしまったことを詫び、一通り目を通し修正しておいたと嘘をついた。事務所には当番以外に三人残っていた。いつもの顔ぶれだ。理事として組織の実権を握る、いわば「主流派」である。人使いは荒いし、少なくともぼくの釈明に関する限りでいえば、何を言っても、それがどれだけ正直で正確なものであろうが、ぼくの口から発せられると、都合のいい単なる装飾語として翻訳され、あるいは誤訳されるしかなく、言い返されないことを合意しているとでも思っている彼女たちはいつも楽し気にネチネチ微笑んだ。
働き始めた当初こそ怒鳴り返してやりたい気持ちを抑えていたものだが、今ではすっかり慣れたし、よくよく考えれば彼女たちはいつだって、ぼくが何かをしでかしてしまったとしても、追い込んでやるぞ、というハイレベルでの説教をすることはなかった。当たり前だが彼女たちは「男性」ではなく、ぼくが「同性」ではなかったからかもしれない・・・・・・。
お疲れッしたッ、と一言挨拶して部屋を出ようとしたとき、自分の机で事務仕事をしていたマダムAが「豊川さんってまだいるの?」と顔を上げずに言った。ぼくは「あっ、はい」と返事してそのまま帰ろうとしたのだったが、残っているA~Dのマダムたちは一斉に半笑いしたのだ。だからぼくも笑ってやった。
それからが実に長かった。あの子はどうだ。あの子はこうだ。池田くんはどうだからこうで君の為を思って言うのよ。分かっていると思うけれどこれは彼女の悪口じゃないのよ。あの子はなんで髪が短いのよね? あの子って休みの日は何してるの? そんなこと知るわけないでしょ!! 彼氏っているの? あんたの彼女って猫なんでしょ? ええ。あの子なんてやめて猫で我慢しなさいよ。もう帰っていいっすか? 二人で帰るの? そうなの! いつも一緒に帰っていたの!! みなさんマジで若いっすよね、女子高生みたいっすよ。ありがとう。いや嫌味っすよ。嫌味でもうれしいはよね? ゲラゲラ(その後しばらくの間マダムCが女子高生の時どれほどモテたかを語り出してしまい、誰も話を聞いていない時間があり、他のマダムたちは止めていた手を黙々と動かしたので中断していたそれぞれの仕事ははかどった)・・・・・・で、どうして彼女がまだ残ってるのよ? あんたこれ本当にチェックした? ええ、何かありました? 新規の組合員番号はまだ手書きなのに抜けてるわよ。ああ寺井さんっすね。自分で調べて書いてよ。マジっすか? マジよ。いま舌鳴らした? いえ。聞こえたわよね? あの子もよく鳴らすわよね。わざと聞こえるようにチッてするよね。私も鳴らされたことあるよ。寺井さんの番号言いますよ。自分で書きなさいよ。チッ。いま舌打ちしたでしょ! ・・・・・・。
更衣室で着替える前に小会議室へ顔を出すと豊川は机に突っ伏していた。
「遅せぇよ」豊川は机上で組んだ腕のなかに顔を埋めたまま言った。
それはそうだろう。二十分近くかかったのだ。ニ、三分で戻ってくるはずの時間を待っていたのだから体感としてはニ、三十分の話ではなかったはず。
「やっぱり他所へ行きましょう。かなり危険ですよここは」
「もういいよ。町田のメス猫が怒っちまう」
「そんなら駅まで送ってくれよ」
「・・・・・・」
顔をあげた豊川はぼくを見て少し笑った。
「明日にするか?」
「お前がスクーター押せよ」
「・・・・・・そっちが用事あんだよな?」
「まぁ、そうですね」
「で、俺がお前のスクーターを押して駅まで行く?」
「YES」
「誰かがお前に用事があったとして、お前はそいつのスクーターを押して歩くか?」
「いいえ」
「OK。押してやるよ」今更、こいつとは波長が合う気がした。
「冗談だよ。駅まで行ってやる」豊川は機嫌悪くもなく立ち上がった。