表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/36

日本武道館 ー国旗の魂とも言える赤丸のなかー

 赤い浮遊体が再び目撃されたのは日本武道館の内屋根に吊るされる日の丸の中だった。日出国らしくデザインされた国旗の魂とも言える赤丸のなかに、それは重なるように浮かんでいたのだ。

 明治神宮の境内に出現してからおよそひと月後の水曜日、時刻は午後の六時を回った辺りで、目撃現場には一万人もの人間が立ち合わせた。

 手作りの団扇や色とりどりのサイリュウムを手にする聴衆は、何カ月も前に確保した自分の席を見つけ、学校や会社やバイト先から、なかには四季が移ろわない、籠る自宅の部屋の中からの者もいただろう。心から疲れる肉体と、腕を傷つけがちな自覚を持ったままであっても飛び立てる非日常的、ともすれば夢のなかそのものが訪れる数時間ばかりのショーの始まりに胸を膨らませていた。もちろん公演のスタッフや関係者もだ。

 女性五人組K・POPアイドルがきらびやかで質の高い、友好的で商業的でもあるプロアーティストとして歌い踊るステージは六時半を予定していた。会場内はまだ十分に明るく、流れているBGMの音量は小さかった。出入り口の外にある物販会場にはいまも列ができていて、特に女性客はトイレにも並ばなくてはならなかった。

 早く始まってもらいたい気持ちと、抱えきれないワクワク感をずっと持っていたい故、永遠に始まってくれないで欲しい、という北斗七星と南十字星を同時に合わせ持った。

 ファン同士で繋がるSNS上だけの友達と会場のどこそこで待ち合わせたとき、久しく人の手を強く握りあった彼ら彼女らはそれだけで、それこそトイレの列を愚痴って笑うだけで温かな涙目になった。私たちはもうすでに夢のなかなのかもしれない。互いの背丈だって比べられる実際の対面に緊張やら興奮やらで、想いがありすぎるから逆に、言葉に詰まってさえ別れがたい。しかし各々の席は離れているし開演時間はいよいよ迫る。アリーナや二階席、最上段へそれぞれの席に戻らなければならない。もちろん終演後の待ち合わせを約束して。

 学校を早引き宇都宮から一人できた女子高生がアリーナへ戻ると、箱詰めされた四つ入りの高級チョコレートを手土産にくれた(年齢不詳の)、今は休職中だというOLがいるはずの最上段席を振り返った。大まかな場所は教えてもらっていたが、よく分からなかった・・・・・・その女の子が最初の発見者だ。

 自分の席よりも後ろの頭上に垂れている日の丸の「赤丸」がどこかオレンジ色に見えたのだ。彼女は一瞬首を捻った。でもそんなことよりも年上の「友達」を探した。向こうはオペラグラスを持っていたので、私のことを見つけてくれているのかもしれない、と思うとうれしかったし、そういうことを想像するだけで親の言葉よりも、学校の先生や友達の言葉よりも安心できた・・・・・・ってことは、私は本当に寂しい奴なんじゃないだろうか? と思ってしまい少し悲しくなった。ライブ会場でなければ、たとえば学校帰りのバスの中ならこっそり泣いてしまっているかもしれないぞ、と思ったそのとき、それはどうにも説明のつかない衝動だったのだが、違和感を覚えた日の丸をもう一度確かめないわけにはいかなかった・・・・・・間違いない、目の錯覚ではない。彼女は興奮した。普段ならよほど困った状況でなければ知らない人に声を掛けるなどしない女の子は、勇気を出して、と言うよりも自然と、それは本当にごく自然だった。すぐ隣で会場内に流れているBGMのリズムに合わせ、一際派手な団扇をパタパタ膝頭に当てている中年男性に声を掛けてみた。

 「あの、すみません。あそこの日の丸、少し変に見えませんか?」

 すでに汗をかいていた、太鼓腹の眼鏡は自分が敏腕プロデューサーになれる、寝入り前の秘密の世界と同じ世界か、手足が長い上に三国語を流暢に話すメンバーの一人の婚約者として今日のステージを見守る夢のなかから戻されてしまった。しかし今まさに同じ気持ちでいるのだろう、若い女の子から声を掛けられたので、というわけでもない彼は露とも迷惑がらず、真っ直ぐな目をした女の子と一緒に後ろの頭上を振り返り、眼鏡の中の一重瞼を細め、それから外しもした。男は口を開けて首を捻ると、一緒に来ている隣の実弟の肩を叩いた。自分より社会的に出世し、しかも母親思いの弟の団扇も派手で、眼鏡だって掛けていた。太ってはいなく髪がやや薄いだけだ。弟も女の子へ優しく微笑むと、すでに首にかけている性能のよさそうなバードウォッチ用の双眼鏡を首から外した。彼は最初に、自分では覗かず兄の向こうにいる女の子へ渡した。大きな声で礼を言う女子高生には気付かれなかったことなのだが、その行為は彼の持っている優しさの一端である。もちろん実の兄は気づいていた・・・・・・女子高生は自分でも知らなかった色の声で狼狽えた。微妙に震えながら弟へ双眼鏡を返すと髪の薄い彼は十分に覗き終わりどうにも不思議がった。しかし次に渡された兄は声を掛けてきた女子高生以上の声量で驚き、そののぶ太い奇声にも似る中年男のシャウトは瞬く間にアリーナへ広がった。

 ステージに向かって国旗が裏側になる席からは誰一人として確認することはできなかったが、表面になっている側が目に入る場所であれば確認できた。そうそれは自分には「見える」か「見えない」かの確認だ。また今夜のライブをDVDにして後日発売する予定だった所属先のレコード会社は七台の撮影機器を用意していたのだったが、チーフディレクターは日の丸の撮影を嫌い許可しなかった。ビジネスだけが友好的な韓国人の彼には、天井からの撤去を言い出さずにいた(祖父母が拳を握り語ったことのある)「日の丸」でしかなかったからだ。


 「そこ」に「それ」が留まっていたのは長くて五分ほどだったろう。しかし十分過ぎる数のスマホで今夜の日の丸は撮影され、開演前の僅かな時間のなかでほぼ一斉にツイートされた。そんなわけで、先月に女優が投稿した「見える」とか「見えない」とかの不思議な、それはドレスの色が何色だ、とは違う次元にあるべき話題だったはずなのに、なんとなくうやむやになって忘れ去られたツイート騒ぎも再燃し、それどころかとんでもなく大きな話題になるのだった・・・・・・こともあろうか、時の総理大臣が「私は日本人だから見えます」と言い出してしまったのだ。


 ちなみにライブは最高だった。「それ」を「見えた」人も「見えなかった」人も国旗のことなど忘れ、韓国のアイドルと共に、目覚めたまま体感し得る、全身の骨が幸せを感じる「夢」のなかで歌い踊ったのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ