世田谷センター ー青いマニキュアの小さな壜の蓋を閉めながらー
バカ共が人種差別を叫んでいた川崎の空に赤い浮遊体が現れ、今度は多くの人のスマホだけではなく何台かのテレビカメラにも、新聞記者やジャーナリストと共にいたプロカメラマンのカメラにも姿を捉えられた日からおよそ四ヶ月ほどが経っていた日の夕方というか夜の始まるころのこと・・・・・・その日ぼくは午後のコースのどこかで木綿豆腐を失くしてしまったらしく、最後の配達先に着いたとき残っている豆腐は、マジかよ絹が一丁だぞ!! という顔なじみの衝撃に打ちひしがれたのだが、とにかく解決しなければならない。絹豆腐を注文していた家に電話を掛けたり、頼りない我が記憶の番人からの通報に望みをかけ、結局は頭に血が上るだけで終る配達先へ直接戻ったりをした。そんなこんなでセンターに帰着する時刻は通常よりも一時間近く遅かった。よくある話だが、毎度同じように同じ気持ちで凹むものだ。失くしものを探し回るのも、もう最後だから、と楽しむ余裕なんて微塵もく忘れたけれどどうにか解決はした。
夜の七時を回ると事務所に残っている人は限られた。回収した注文用紙の帰着後チェックは事務所の中にある、すでに帰った人の机や、誰のとも決まっていない、いくつかの机で行えるのだが、面倒臭い小言や学校の教室と変わらない噂話を耳にするのが嫌だったので小会議室と呼ばれる別の部屋ですることにしていた。
この時間ではまずもって誰もいない部屋に明かりがついていたとしても不審感は全くなかった。季節になればエアコンすら消し忘れる反原発の連中なのだから、電気くらい消し忘れて当然だ。そうとしか思えなかったか、そんなことすら思っていなかったのかもしれない。
回収した四十枚ほどの注文用紙を抱え、四つの長机が「口」の字に配置される、窓のない白い小部屋のドアを開けて棒立ちしてしまった。ドアから近いところでこちらへ背を向けた私服(黒いニット帽を被り、緑色のビロード生地にマスカラスとドスカラスが刺繍されたスカジャンを着ていた)の豊川が座っているのだ。パイプ椅子を二脚向き合わせ、片方に座りもう片方には細いジーンズの裸足を乗せ青いマニキュアを足の爪に塗っていた。見慣れている色のくすんだ青い制服姿とは違う、もっと強く「かかわりたくない」と思わせる、見事な雰囲気があった。エアコンはついていなかった。
とは言え、と言うかむしろ余計に、嫌だな、と思ったのでドアを開けたまま立っていると、寒いから閉めろよ、と動じていない背中が言ってきた。四年も同じ職場にいるのだから仕事に関する何かしらの会話くらいは何度もしていた。だから、このぶっきら棒で上から的なタメ語調にもそれなりの抗体力を持ち合わせてはいる。問題はこのまま入室してしまうと、窓もない白い蛍光灯の照る無機質な環境下で「こんなやつ」と二人きりになってしまう、という事態よりも、明らかにぼくがここにやってくるのを待っていた風に思えることだ。いつからいたのかは知らない。しかしぼくがここで、大概は一人で仕事終わりの作業をするのは豊川に限らず誰もが知っていることだった。
「寒いから閉めろよ」もう一度同じ姿勢で同じことを言った。
「・・・・・・」ぼくは無意識に深く呼吸してからドアを閉めた。
丸めた背中に縫われる覆面兄弟を睨み付けながら、いつもの大体の場所に座った。部屋の奥側真ん中からやや右側だ。豊川は左斜め前となり、まだ自分の足に顔を向けていたので俯いていた。机の上にはスクーターの鍵とiPhoneと黒い靴下が二つ乗っていて、机の下には迷彩柄のコンバースが脱ぎ捨てられていた。
「・・・・・・」
ぼくは正直緊張していた。会話などしたくなかったが、相手が黙っていると余計に構えてしまい注文用紙のチェックに集中出来ない。そういうときは往々にして独り言を呟いてしまう。消費材の番号や数量が若干分かりにくい数字を見つけると、モゴモゴ言った。三桁のモンなんかないっしょ、とか牛乳なの卵なのどっちだよ、とか。そしてチラっと左斜め前を盗み見した。豊川は足の爪に息を吹きかけていた。
「・・・・・・さて」と豊川が言ったとき、ぼくは無理して顔を上げなかった。変な話だが顔を上げなかったことで勝利感を得たのだったが、次の一言には顔を上げざるを得なかったどころの話ではない。一生涯考えつきもしなかったはずの、しかもそれはド直球の質問を投げ込まれた。誰かの言葉を聞き取る器官が人間にあることを不思議に思ったほどなのだが、驚きに固まる表情は口と目を開いてしまうだけだった。投げ込まれた質問に比べると物足りない硬直だったのが今では残念な気もする。
「お前さ、朝鮮人?」豊川は青いマニキュアの小さな壜の蓋を閉めながらそう聞いてきた。
「・・・・・・」知ってはいて、理解もしているのだったが、これまでの「舐め切っていた人生」において、見たこともないような言葉が埃の帯のように宙を舞っているのが目に見える気がした。そうそれは耳ではなく目に見えたのだ。ドアを開けたとき玄関先に宇宙人が立っているのを見た家主が受ける違和感に似るのかもしれない感じに見舞われ、しばし否定も肯定も出来なかった。
涼しい顔をする豊川は靴下を履いた。パイプ椅子の下に脱いだ靴も履くと二つの椅子の向きを直して座り、斜めからだったがぼくと向き合った。