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強い風が吹いた日 ー安全で温かな布団の中の暗闇ー

 風の強い日の朝二つのことが起きた。一つはパブリックなことであり、一つは個人的に。

 あの日、二つのことが起きた。一つは朝の六時に目を覚まして直ぐ、それはパブリィクな出来事(と言っていいのだと思う)だ。もう一つの方はきっかり三時間半後の午前九時三十分だった。こちらはとても個人的な出来事ではあるのだったが、雨の上がった朝六時と風の止んだ午前九時三十分の出来事の関係性はいわば分母と分子のようなものであり、間違いなく因果を孕んでいる。だけど二つのことが立て続けに起きた、あるいは「もたらされた」意味も理由もぼくには分からなし、今後の人生において何かを決定するとも思えない。真っ平なはずだった火曜日の朝に忘れ難い凹凸を経験したことだけは間違いないのだが。

 また、初めに断っていた通り一つはパブリックな出来事なので、つまり少なくはない数の人々の身にも起きた(それが凹なのか凸なのかは関係なく)わけだから、当時嘘をついていた人も、つきたくはなかった人も誰も彼もが六年前の大騒ぎを思い出すのだった。


 真夜中から翌朝にかけ、列島の西側にある前線が東側へ移動することにより天候が荒れる、と予報されていた夜、寒く乾いた外国の地で代表チームの最終予選は予定されていた。しかしキックオフは実に午前二時だ。しかも相手は予選グループにおいて単独最下位にいる全くの格下である。我が国の代表チームは主力メンバーの何人かを休ませ、サブを試すだろう、と言われていた。だからこそ誰を見たい、彼を見たい、との気持ちは多くのサッカーファン同様あったのだったが、明日も荷物を満載する2t車で朝から走り回る肉体労働を天秤に掛けるほどではない。むしろ真夜中に荒れだすという天候が朝の何時くらいまで続くのか、道がどれほど混んでしまうのうか? その方が遥かに気がかりだった。

 午後の十一時には風呂から上がり、湯舟の中で思い出した、妻と娘がベランダで育てているいくつかの鉢を部屋にしまった。この街では別に夜の匂いもしない夜空はまだ何事もなく、いつものように薄暗かった。

 スマホの充電が減っていたので、無駄にいじる、何よりも不必要な時間を過ごさずにいられた。もちろん充電しながら、真っ当な「心の声」と貴重なことを忘れがちな「時間」を、易々捨てるのは可能だが今夜はしなかった。するときもあるが、しない夜もある。とにかく今夜はしない夜だった。

 狭いキッチンの明かりを消して、寝室にしている和室の六畳間に入った。枕元の間接照明を消す前にスマホを電源に繋げた。

 今はまだ吹いていない夜の風を怖がる幼い娘は、眼鏡を掛けて雑誌を開いたまま寝ている妻の布団の中に潜り込んでいるようだ。安全で温かな布団の中の暗闇に広がる自分だけの世界観を育んでいるのだろう。

 「まだ起きてるの?」

 ぼくは目を閉じた妻の顔からフレームのない丸眼鏡を外し、茶器特集する雑誌を閉じると布団の盛り上がった所を撫でてみた。

 「風は吹いてる?」娘は母親の布団の中から返事をした。

 「まだ吹いてないよ。雨も降ってない」

 「よかった」声は本当にうれしそうだった。

 「どうして夜の風が怖いの?」

 「夜なのに風が吹くから」

 「・・・・・・」

 「だからよ」娘は布団から顔を出した。

 小学二年生の娘はもちろん親にはとても可愛いし、とんでもなく美人に思えるのだが、世間ではそう見られないらしい。一重瞼はぼくに似て、丸い鼻は妻に似ている。それでも乳歯の段からすでに歯並びは見事に整い、眉毛だって誰に似たのか角度のあるラインの先で小さな眉尻が得意げに上がる。この二つは十年後に向けた素晴らしいポテンシャルだろう。

 「そこで寝るとお母さんが狭いんじゃないかな?」ぼくは真ん中に敷かれている彼女の空の布団をパンパンと掌で叩いた。

 「嫌っ」娘は顔を引っ込めてしまった。隠れる素早さが磯場のカニのようだった。

 「夜が怖いの?」ふと思ったのでもう一度彼女に声を掛けてみた。

 「そう」娘は布団の中から少し楽しそうに答えた。

 「ふ~ん。そうなんだ」ぼくはそんなことなど知らなかった。

 「もっと大きくなったら怖くなくなるかな?」

 「大丈夫。きっと怖くなくなるよ」

 「だといいな」娘は顔を出した。

 「っていうかいつもぐっすり寝てるよ。口開けて」

 「うん」

 「だからきっと怖くなんかなくなっているじゃないのかな。たぶんそうだと思うよ。もっと小さい頃はなかなか寝なかったもん。泣いたりもしていたしさ」おねしょのことは言わなかった。娘にならそれなりに気を使えるのだ。

 「そうかな」

 「そうに決まってるよ。だから本当は風も雨もへっちゃらなんだよ」

 「・・・・・・」

 血の繋がる可愛い沈黙があった。たぶん子供は親から励まされるとうれしいのだ・・・・・・勝負するなら今しかない。ここは決定的な場面だ。タイミングよく裏へ抜け出してキーパーと一対一になったに等しい。もし外してみろ、こっちが眠れなくなるぞ!! 来年から娘には子供部屋を与えることになっている。そうなればなったで、台風の夜だろうがなんだろうと一人で寝るに決まっているし、万が一にも怖いから一緒に寝る、と言ってきたとして、三年生になった娘が父親と同じ布団で寝てくれるわけがない。彼女と風呂へ入る機会はもう永久にあきらめているが、正直面倒臭く感じることすらあった、夜の小さな人肌は、いつの間にか空想するしかない夢のようなものになってしまった今、つまりこの決定機は生涯で最後のチャンスになっちまうってことだ!!

 「こっちに来る?」

 「絶対に嫌っ」娘は大げさに首を振り、笑いながら息を止めて再び妻の布団に潜ってしまった。今度はあまりカニっぽくなかった。

 「・・・・・・」

 絶対に嫌っ、という言い方が自分で気に入ったらしいく、母親の布団の中で連呼した。聖歌を歌うように言ったり、不機嫌な神様が老人を脅すように言ってみたり、小鳥同士の会話風だったりで、なかなか楽しそうだ。そんなわけで交渉の余地はなかった。

 妻の寝息が勝利感に溢れているように聞こえだした気がする。なるほどこの絶望は血で繋がっているわけではない夫婦で分かち合うのはまずもって不可能だ。



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