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塔と老人

 老人は言う。『この塔は私が生きている間は壊さないでくれ』


 目の前には廃墟と化した塔が立っていた。

 青年はどうして老人がこの塔に入れ込んでいるのか分からず一つ質問をした。


「あなたはどうしてこの塔に固執するのだ」


 老人はその言葉を笑う。それを青年は自分が馬鹿にされたのだと思って顔を赤くする。老人はそんな様子を見てすまないすまないと謝罪し、君を馬鹿にするつもりなど毛頭なかったと言う。


「ならばどうして」


 笑ったのだと。老人はどこか寂しそうな目で俯き青年に語り始めた。


『この塔は私が小さな頃によく来ていたんだ』


 そんな触れ込みから始まる老人の自分語り。


『私は独りぼっちだった。この塔は私の寂しさを少しだけ、ほんの少しだけだったけれど紛らわせてくれた』


 青年は困惑した。老人が独りぼっちだなどとは到底思えなかったからだ。老人は妻がいた。そして子供も三人いる。それだけじゃない。老人は幅広い交友関係を持っている。それなのに独りぼっちだと。けれどもそれが老人が小さな頃の話ならば、確かに自分の知る範囲ではない。青年は困惑を飲み込み、老人の声に耳を傾けた。


『悲しいとき。苦しいとき。辛いとき。私はこの塔のてっぺんまで階段を走った。この塔のてっぺんはそれはもう酷い景色だった』


 ああ、確かに。と青年は塔の隣にある大きな木を見つめた。こんなものがあったら景色もなにも、へったくれもない。しかし同時に疑問に思った。この大きさの木は老人が小さな頃はさほど大きくなかったのではないかと。確かこの木は自分が小さかった頃にはここまで伸びてはいなかったはずだ。それでも大きくはあったけれど。

 この木は確かに大きな木だ。だが果たして塔から見える景色を遮るほどのものだったのだろうか。青年の中での疑問が募るばかりだが、老人はそんな青年の内心もつゆ知らず話を続けていく。


『私はこの塔から見える景色。街の景色が嫌いだった』


 青年の疑問はその言葉で解かれたと同時に、新たに驚愕を与えた。

 老人は街を誰よりも愛している。誰もがそう思い信じて疑わない程に、老人は街の復興に献身的だった。最近もこの街の中心にある時計塔の補修に足りない費用を自費で肩代わりするほどだった。そんな老人が街の景色が嫌いだと、そう言ったのだ。青年は自分の聞き違いを疑った。しかし次に紡がれた言葉はそれを簡単に否定した。


『だった。というのは間違いかもしれない。私はこの街の景色が嫌いだ。それは今でも変わらない。寂しさを紛らわせるために塔にのぼった。だがこの景色を見ると余計に寂しくなった。惨めに思えた。苦しかった。だから次第に私はこの塔から見える景色を見ないように努めるようになった』


 老人は塔を寂しそうに見つめ、その壁に触れると目を瞑った。


『だが嫌いなこの景色を私は忘れてはならないのだ。自分が生まれ育った街に間違いはないのだから』


 一体どういうことだろう。青年はなぜ老人がこの街にいるのか分からなくなった。


『周りの人たちはそれはもう大層優しい人たちばかりだった。ただ小さな頃の私は純粋で、それでいて少し悪い人間だった。だからその優しさを傷のなめ合いだと決めつけ拒絶した。その優しさはかえって私に苦痛を与えると。私にはそんなもの必要ないのだと。だがそんなことはなかった』


 老人はいまだ壁に手を当て目を瞑ったまま口だけを動かしている。


『私は弱い人間だった。優しさに心地よさを覚えていたし、自分に必要なものだと確かに感じ取っていた。私はそれを認めてしまうと弱い人間になってしまうようで怖かったのだ。強い自分でいたかった。自分は強いと信じたかった』


 青年は老人の言っていることがあまり分かっていない。自分が強いだの弱いだのと、考えたことなど一切なかったからだ。しかし今少しだけ考えてみた。自分はどうなのだろうかと。分からない。それが答えだった。老人のように自分を評価することが出来なかった。だから老人の言葉を理解することなど到底無理なように思えた。ただ一つ、老人が強い人間であろうと弱い人間であろうとどちらかが正しくてどちらかが間違っているわけではないということ以外は。


『認めた後はまるで時間が早く過ぎていくように感じた。気が付けば愛する人が出来て、子供が出来て、私はいつしかこの塔に来ることがなくなっていた』


 確かにこの塔は長い間人が使っていた形跡がない。今は廃墟と化しているのだから。老人が使っていなかった時間がどれほど長いものだったのかは想像に難くない。そういうことは青年にも覚えがあった。小さな頃に遊んでいた遊具は今はもう精々眺める程度だ。きっと老人にとっての塔もそれに似たものだったのだろう。


『ある日私に転機が訪れた。あの日は最悪の日だったことを今も鮮明に覚えている。それがつい先日の話だ。私はどうやら病にかかってしまったらしい。それも現在の技術では治療法の見つかっていない病だそうだ』


 青年は驚いた。そんな話老人から聞いたことなど今まで一度もなかった。つい先日とは言うが、青年は昨日も老人に会っている。そのときはそんな素振りも話もなかった。


『私は心の中で妻に謝罪した。子供に謝罪した。志半ばで死にゆく私をどうか赦してくれと。そしてその末に、この塔のことを思い出した。私は老いぼれた体に鞭を打ち山を登り塔の前まで来た。子供の時はあれだけ簡単に来れていたのに、今はこんなにも苦しい。ここに来て私は自分の死を強烈に感じたよ』


 青年は何とも言えない悲しみを帯びた表情を浮かべる。老人はそれを見ることもなくただ今なお目を瞑る。老人は今何を考えてこの話を語っているのだろうか。青年はその心情をおもんばかることは出来なかった。


『感傷に浸った。かつて毎日とも思えるほど足しげく通った塔だ。過去の出来事が鮮明に思い出された。私の人生はこの塔がきっかけだったのだと今になって分かった。私はこの塔がなければ。この塔から見える景色を見なければ。それを嫌ってなければ、ここまで街を愛することはできなかっただろう』


 だんだんと老人の話が理解できなくなってきた。嫌いなのに愛しているとはいったいどういうことなのだろうかと。思えば老人が嫌っていたのは街の景色だ。街そのものではない。ただだからと言ってその街の景色をつくっているのは老人でもある。資金を出したこともそうだが、何より老人は昔大工をしていたのだ。自分が作り出した建築で現れる景色が嫌いだと。それはどうも悲しくはないだろうか。


『私は街の復興に忙しい。崩れかかった建物を壊し作り直す。使われない建物を壊し更地にする。この塔も街の一部だ。いつかは壊してしまうだろう。壊れてしまうだろう。だがそれは私の死んだ後にして欲しいのだ。生きている間はまだこの塔に触れていたい』


『なんてことない子供のわがままだと思ってくれてもいい。この塔だけなのだ、私に残っている街は』老人はそう言いながらようやく目を開いた。


『戦争に巻き込まれこの街は私が子供のころにほとんど壊滅した。残った建物もすくない。同じように立て直しても同じものではない。この塔だけが、私の知っている街の景色だ。せめて生きている間は、この街と共にいたい。そんなわがままだ』


 ここにきて青年の頭は疑問ばかりが湧いて思考する余裕すらもなかった。

 どういうことだ。戦争は老人が生まれる前の話のはずだ。いったい老人は何の話をしているのだ。

 老人は混乱する青年を見てこみあげるものがあったのかしきりに笑った。青年は混乱冷めやらぬまま、しかし自分が馬鹿にされているのだと理解し顔を熱くした。


「そんな話を私が子供の頃に老人に聞いたのだ」


 老人は笑いながら言った。曰くその老人は自分が子供の頃によく遊んでいたこの塔に急に現れたのだと。そしてそれから毎日来るようになってある日この話を聞かせてくれたと。そして急に来なくなったと。

 青年は今までこの話が目の前の老人の話だと信じて疑わなかった。そして老人もそれを理解し、かつこの老人は笑ってしまわないようにと努めるため目を閉じ壁を向いていたのだ。それに気が付いた青年は老人を軽く責めた。「全くどうしてそんな悪戯をするんだ。病の話も出て来て心配した純情を返して欲しいものだ」と。

 老人は絶えず笑い、ようやくそれが落ち着いてきたころに話を続けた。


「子供だった私は老人が言っていることがよく分からなくてね。ただ漠然と、この老人にこの街の景色を好きになって欲しいと思った。だから老人に訪ねたのだ。どうやったらこの景色を好きになるのか。老人は私の頭を撫でながら悲しそうに言ったんだ」

『その日が来る前にきっと私は居なくなってしまう。だからこの塔だけが拠り所なのだ。この塔を失いたくないんだ。だがそうだな。この塔が無くなれば私はこの街の景色を好きになれるかもしれない』


 その話を聞いて青年は何とも言えない無力感に襲われた。そしてそれは目の前の老人も同じだった。


「だから私はこの塔を残すことにした。この街はもはや戦争の後を感じないくらいに美しくなった。そんな美しい街を彼は愛していた。だが、この塔から見える景色は嫌っていた。それはきっとこの塔が好きだったから。壊れた街を思い出してしまうから。かつて存在していたものとは別の景色が広がっているから。彼の心情をはかることは出来ないが私はそう思った」


 青年はその話に納得し、自分が感じていることを言語化してくれたと思った。


「だがこの塔を壊してしまってもいいのかもしれないとも思う」

「え?」

「彼はこの塔を自分の拠り所にしていたと言った。拠り所にしていただけだったのだ。彼はもういない。だからもう壊してしまってもいいのかもしれない」

「そんな」


 悲しいことを言わないでくれ。


「だが私はそれが酷く悲しい。だから私も君にこの言葉を言おうと思っている。彼の言葉としてではなく、私の言葉として」


「この塔は私が生きている間は壊さないでくれ」老人は笑いながら言った。

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