第57話 三人の聖女候補 4
午前中のまだ日差しの強くない時間帯に、エレノアは第一庭園へと訪れた。そこには作業に勤しむグレースがいる。目的は彼女にも作った菓子を手渡すことだ。
菓子の販売にも携わるグレースだが、こうして植物の手入れをするのも彼女にとっては大切な時間なのだ。
エレノアの存在に気付いたグレースは複雑そうな表情で微笑む。
「初めてこちらへエレノアさまをお連れした日のことを覚えていらっしゃいますか? 他のご令嬢は野菜や果実にご関心を示すことなどありません。それなのに、エレノアさまは嬉しそうに目を輝かせて……私も嬉しく思ったものです」
グレースの言葉に気恥ずかし気にエレノアは微笑む。
初めてこの聖リディール正道院へ来たときには、状況も十分に把握出来ない状況であった。そんな中、柔和に接してくれたグレースとこの第一庭園に、エレノアはここでの日々に希望を見出したのだ。
目の前に広がる瑞々しい野菜や果実、どれも研修士たちが毎日丁寧に手入れした成果であろう。
「エレノアさまが聖女になられれば、素晴らしいことです。それでも、それを望まない私もおります。信仰会のことを思えば最善ですのにね」
それ以上にエレノアとの別れ、そして聖女となる重責が彼女にかかることを恐れてしまうのだ。
「ここは素敵な場所ね。きっとこれからもそうなんだわ。だって、グレースたちがいるんですもの」
「……そうなるように努めますわ」
眉を下げ、グレースはそれ以上何も言うことが出来ない。
彼女が聖女であれば、信仰会はもちろん民の希望となる。それを引き留めるような言葉は、長年研修士として務めてきたグレースには口に出せないのだ。
もう一度、第一庭園を見渡したエレノアは穏やかに微笑むのだった。
その夜、作った菓子を持って使用人用厨房へとエレノアは歩いていく。
扉の向こうではマーサ、エヴェリン、ペトゥラの三人が神妙な面持ちで待ち受けていた。そんな三人にいつものようにエレノアは微笑む。
「お菓子を作ってきたの。いつもみたいに笑顔で出迎えて?」
「……申し訳ありません」
「もう、謝らないで。私が聖女になるって決まったわけじゃないし、なったらお祝いすべきことだわ。ね、そうでしょう」
困ったような表情を浮かべたままの三人に、エレノアは菓子を手渡していく。小さな袋に入れた菓子を受け取ったものの、三人とも口を付けようとしない。
仕方なくマーサの袋を取ると開封し、中の菓子を取り出して口に入れる。突然のことに驚いたマーサだが、目を丸くする。
「美味しいです! 甘くって香りがよくって、サクサクしてます!」
「ふふ、良かった。その顔が見たくって作ったんだもの」
笑顔になるマーサにエレノアもまた笑顔になる。ハルであった頃もここに来てからも菓子作りを続けてきた理由がこの笑顔だ。菓子を作ることも楽しみであるが、その先に誰かの笑顔があるからこそ、作る意欲も湧く。
「慣れないここでの生活で皆とお菓子を作るのは凄く楽しかったわ」
「もったいないお言葉です」
「本当にありがとうございます」
エレノアに礼を述べるペトゥラとエヴェリンだが、マーサは下を向いたまま、ぎゅっと菓子を抱きしめたままだ。
そんなマーサをペトゥラが注意しようとした瞬間、マーサが顔を上げてエレノアをじっと見た。
「もっとエレノアさまのお菓子が食べたいです! だから、聖女さまにはならないでください……」
身分が上のエレノアに対し、不敬な発言ではある。叱責すべきペトゥラだが、マーサの表情からは必死さが伝わり、一瞬躊躇した。
エレノアは嬉しそうに微笑むとマーサの頭に手を置き、髪を撫でる。
「マーサ、ありがとう。嬉しいわ」
「……っ」
マーサの瞳からはぽろりぽろりと涙が零れる。
立場を考えれば、マーサの行動は問題ばかりだ。それでもマーサの思いはエヴェリンとペトゥラにも十分に理解出来る。
頬を零れる涙を拭いもせずに、こちらを見つめるマーサの姿は純粋で美しい。
菓子を渡した人々はエレノアを案じ、別れを惜しんでくれた。出会ってそれほど時間が経っていないにもかかわらず、築けた関係をこの先もエレノアが忘れることはないだろう。今後、どのような道を歩むとしてもだ。
微笑むエレノアもまた、まっすぐで純粋な瞳でマーサを見つめていた。
*****
魔法鳥から届いた手紙と送られた物にクレアは不敵な笑みを浮かべる。
ヒューズの信奉者の中には貴族もいる。魔法鳥を扱える者もいたのだ。それを使って届けられた手紙、そして物でヒューズの意志をクレアは知ることが出来た。
これから自分とリリーが何をするべきか、それを思うと興奮と緊張で指が震える。そんな内心を隠すかのように、クレアは笑みを深めるのだった。
そこに戸惑った表情でメラニーが近寄る。その手には小さな紙袋があった。
「クレアさま、そのこちらを今、頂いたのですがどういたしましょう」
「何? それ、お菓子じゃない。誰から?」
「……エレノア・コールマンさまの遣いの方からです」
「はぁ? 何それ、どうかしてるわ」
「一応、目の前で魔法を使い、問題がないかを証明してくださいました。ご心配でしたら、他の方に魔法で……」
メラニーの言葉に面倒くさそうにクレアは手を振る。
菓子に何かが仕掛けられた可能性は低い。ここでの食事にも問題はなかったのだ。もし何かあれば、それはコールマン家の責任となるだろう。そのような状況で何かしてくるとは思えない。
それよりもクレアはこれから自身がなすべきことに集中したかった。手に持った小さな瓶はヒューズからの指令に使うものだ。
「好きにしたらいいわ」
「ありがとうございます!」
メラニーは菓子の入った袋を持って、ウィローの側へと駆け寄る。ぼんやりとしているウィローに微笑みながら、話しかけた。
「ウィロー、お菓子よ。立派なお菓子だわ。あの方にはああ言ったけど、念のために私がまず食べてみるわね」
「…………」
菓子は二つの楕円をくっつけた不思議な形をしている。それをそっと口に含んだメラニーは驚きで目を大きく開けた。
サクッとした食感の菓子はバターの豊かな風味がする。噛むほどに甘さが口の中に広がり、また口に運びたくなる軽快な食感だ。挟んでいるのはジャムであろうか。甘酸っぱい味わいが生地によく合う。
幸せな味わい以外、体に変化のないことからメラニーはウィローの口に菓子を入れる。
「っ!」
「美味しいのね、ウィロー。よかったわ……そういえば、ウィローには初めてのお菓子かしら」
「…………っ」
優し気な表情で見つめるメラニーを、ウィローは何か言いたげに見つめている。理由を問おうとしたメラニーだが、こちらへと向かってくるクレアの気配に諦めて再び菓子をウィローの口に運ぶ。
おとなしくそれを食べるウィローであったが、やはりじっとメラニーのことを見つめ、何かを考えている様子なのであった。
*****
《先程の菓子は旨かったな。なんという名だ》
「……秘密。美味しかったならそれで充分よ。皆も喜んでくれたしね」
エレノアの作った菓子はパーチ・ディ・ダーマという。名前こそ聞き慣れない響きではあるが、チョコレートをアーモンドパウダーを入れた生地で焼き上げたクッキーで挟んだものだ。今回、エレノアはチョコレートではなく、煮詰めたジャムを挟んだ。
エレノアは聖リディール正道院の人々、兄と父、カミラとシルバーに菓子を贈った。この菓子を選んだ意味はその名にある。
イタリアの菓子でその名の意味は「貴婦人のキス」なのだ。
最後となるかもしれない菓子はエレノアからの深い感謝が込められていた。
「さぁ、もう寝なきゃ。ここで過ごせるのもあと数日、毎日を大事にしなきゃ」
あと数日で、三人の聖女候補たちが課題の成果を報告する日が訪れる。
聖女の課題として、菓子作りがふさわしいのかと言われればエレノアも自信はない。しかし、自分らしい課題の選択と渡した人々の笑顔にエレノアは満足していた。
《……清らかな魂を持つ子よ。汝と交わした誓いを覚えているか?》
「ん? シルバー、ごめん。もう一回言って?」
《いや、なんでもない》
ふぅとため息を溢すとシルバーはエレノアの枕元に丸くなる。初めてのことに戸惑いながらもそのふんわりとした柔らかさと温もりは、不安になりつつあるエレノアに安心感を与える。
シルバーの温かさに誘われるようにエレノアは眠りへと落ちていくのだった。




