第53話 降らない雨と聖女への期待 4
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その日、エレノアは久しぶりにキッチンに立った。
雨を降らせる力を使ってからというもの、自室で体と気持ちを休めていたエレノアが菓子作りをする気になったのだ。
カミラはエレノアに頼まれていた卵、薄力粉、バター、クリームチーズ、生クリーム、レモンを貴族用厨房から分けて貰った。本来はマスカルポーネチーズが良かったのだが、入手出来ないため、エレノアはクリームチーズと生クリームで作ることにした。
受け取ったエレノアは早速、ボウルでハンドミキサーで卵を泡立て始める。
「今から作るのはスポンジよ。それを使ってお菓子を作ろうと思って」
微笑むエレノアにカミラも安堵の笑みを浮かべる。聖女の力があろうとなかろうと、カミラにとってエレノアは唯一無二の存在なのだ。
その彼女が心身ともに健やかに過ごすこと、それ以上の願いなどカミラにはない。
「聖なる甘味、でしょうか? 今回はどのような方に差し上げるのですか?」
「うーん……そうね、今回は私が私の側にいてくれる人のために作るの。皆のためで、私のためのお菓子になるわ」
そう言ったエレノアは照れくさそうに笑うと、カミラに背中を向ける。エレノアが今回作るのは側にいてくれた人々、案じてくれた人々を思って作るものだ。
聖なる甘味は別として、エレノアは菓子を作ることを楽しむのが目的で、皆に菓子を振舞ってきた。しかし、今回は違う。
自身を見守り、必要としてくれた人々に感謝を表すための菓子なのだ。
当然、その中にはカミラも含まれている。
「皆さん、きっと喜ばれることでしょうね」
「……そうだといいのだけれど」
「そうに決まっております! お嬢さまがお作りになられたというだけで、この世界のどの菓子よりも価値があるというものです! 私であれば、その味、御心の素晴らしさを後世まで伝えます。もちろん、今まで頂いた菓子もです!」
気恥ずかしさから声が小さくなったエレノアが、不安になっているのだと思ったカミラは大きな声で否定する。ドアの間に顔を覗かせていたシルバーがふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らすが、エレノアに関してはカミラはいつでも本気である。
あげたい本人からの渡す前からの称賛に、エレノアは照れ隠しのようにカミラに用事を言い渡す。
「そ、そうだわ! 皆さんに三時間後に、貴族用厨房にいらっしゃられるか聞いてきて欲しいの! カミラ、お願いするわ」
「いつもお声がけしている方々でよろしいでしょうか」
「えぇ。スカーレットさまはもちろん、マーサやリリー、アレッタ達よ」
「かしこまりました。きっと皆さま、お喜びになりますね!」
「……えぇ、そうだといいわね」
にこりと笑ってドアの向こうへと向かうカミラを、上手く微笑めないままエレノアは見送る。少々顔が赤くなってしまったのは、力が入ったからではない。
再び鼻を鳴らしたシルバーをエレノアはちらりと視線を向けて、軽く睨むのだった。
*****
突然、エレノアから声をかけられたマーサやリリーは不思議そうに小首を傾げながら、席に腰かけている。
数日前に倒れたエレノアを心配して皆、彼女の自室を訪ねていたのだが、どうやら体調は良くなったらしい。
しかし、呼び出される理由はさっぱり思い浮かばず、そわそわきょろきょろとし始めたマーサをリリーが嗜めようとした瞬間、ドアが開き、エレノアとカミラが現れた。
「お待たせしてしまったかしら。皆さん、集まってくださってありがとう」
「いえ、こちらこそ。何より、エレノアさまのお顔色が良いので安心しましたわ」
スカーレットが悠々と優雅に座りながらそう言うので、マーサもぶんぶんと頭を振って頷いた。その姿でエレノアにはマーサが待ちくたびれ始めていたことが、すぐに伝わる。少々、笑ってしまいそうになるのを押さえ、エレノアはカミラに持たせた品を皆の前に出すように促す。
差し出された大振りな容器を皆、じっと見つめた。茶色い粉がかかったそれは初めて見るものだ。
「……エレノアさま、こちらは?」
「これはティラミス、という菓子です。滑らかにしたチーズに砂糖とレモン、そしてスポンジケーキにコーヒーをしみ込ませて、重ねあわせ、最後にココアを振りかけるんです。……他国の菓子ですの」
「まぁ。確か、ココアは最近このように粉状になったと聞きましたわ。新しい食材を使われるなんて、洗練された菓子ですのね」
決して派手さのない菓子ではあるが、スカーレットの言葉に皆、しげしげとティラミスを眺める。皆の視線に多少気恥ずかしくなってきたエレノアだが、これは彼女たちへの感謝の菓子なのだ。エレノアは気持ちを奮い立たせて、説明を続ける。
「この菓子の名前、ティラミスとは『私を持ち上げて』とか『元気づけて』そのような意味があるんです。その……私を心配してくださった皆さんへのお菓子なのです。召し上がってくださると嬉しいですわ」
エレノアの言葉にまず先に目を輝かせたのがマーサである。隣のリリーも遠慮しつつ、口元は嬉しそうに微笑む。スカーレットはエレノアの言葉に頬に手を当て、口元を緩めた。
しかし、アレッタは残念そうな表情になる。どうやら、「皆」の中に自分が入っていると思っていないようだ。それに気付いたマーサもリリーも不安そうな表情になる。
「こちらはその……他国の文化では皆で分ける菓子なのです。身分に関係なく、分かち合うことに意味があるのです。それが先程の名前の由来になっておりますの」
嘘である。しかし、にっこりと微笑んだエレノアはそんな素振りを見せはしない。エレノアの意図を読み取ったのか、スカーレットも穏やかに笑みを浮かべた。
「それでは、その国の風習に従って皆で分けましょう。わたくしは問題ありませんわ」
スカーレットの言葉に、部屋の中は安堵の空気が流れた。マーサに至っては表情を一変させ、うきうきとしているのが伝わってくる。
カミラが取り分けようとするのをエレノアは止めた。今日は皆にエレノアが振舞う菓子なのだ。その中にはカミラも含まれている。
「今日は私にさせて? 心配して気遣ってくれた皆へ作った菓子なのよ」
「はっ。出過ぎた真似を致しました」
そう答えるカミラの分のティラミスはエレノアの自室の冷蔵庫の中だ。
エレノアは大きなスプーンで皆の分を取り分けていく。初めて味わうティラミスを皆はどう思うだろうか。緊張を抱くエレノアだが、そんな不安もあと数分で消え去るだろう。ティラミスを口にした皆の笑顔に、エレノア自身が幸福な思いになるはずだ。
*****
一方、王都では長きに渡って降らなかった雨を呼んだウィローが聖女だという声が高まっていた。広がり、高まっていくその声を信仰会や貴族も無視していることが難しくなってきている。貴族の中にまで、聖女に最も近いのがウィローなのではとまことしやかに噂が流れる始末だ。
そんな中で信仰会の上層部は会議を開いた。議題はもちろん、聖女を騙るウィローとギル・ヒューズのことである。
「そもそもヒューズという男は正道院の者ではないのだろう? なぜ聖女候補をあの男が管理し、支配しているんだ。ヴェリテルの正道院できちんと管理していれば、このようなことにはならなかっただろうに……」
「しかし、田舎町で聖女が出るなど考えられなかったことだ。今さら、管理不足を嘆いてもしかたあるまい」
今後を危惧する正道院上層部の者たちの議論は、堂々巡りである。既に聖女であると多くの者が信じ始めたウィローを批判し、否定すれば民からの反発は免れない。しかし、ギル・ヒューズという怪しげな男が関わっているウィローを聖女と認める気は信仰会にはもちろんない。
「やはり、聖女候補をこちらも立てるしかないだろう。民の人気もあり、魔力が高く、貴族からも反発が少ない人物は限られる。やはり、エレノア嬢しかいないだろう」
「あるいはスカーレット嬢はどうだ? 魔力こそ、多くはないがエレノア嬢よりは管理しやすい。エレノア嬢はあのコールマン家だぞ? 決して、我らの意のままにはならぬだろう」
貴族である方が、民からも同じ貴族からも納得されやすい。平民であるウィローに対立するならば、彼女以上に聖女にふさわしい条件を用意せねばならないのだ。
それでいて、扱いやすくなければ聖女となっても信仰会の管理下に置くことが出来ない。王家に奪われる可能性、他国に奪われる可能性もあるのだ。
「しかし、エレノア嬢が聖リディール正道院へ向かうきっかけは王家にあります。王家を快くは思っていないでしょう」
「だからといって、我々を良く思ってもいないだろう。コールマン家はどの宗教とも一定の距離を置く。やはり、管理しやすいのは今、正道院にいるスカーレット嬢の方だな」
そんな会話を聞いていた一人の老人がふむと一言呟く。その一言で、部屋にはぴりっと緊張感が走った。部屋の最も奥に座る長いひげを蓄えた老人はこの場で最も地位が高い。彼は現在、信仰会の会長であるスタイロンという男だ。
長年に渡り、会長を務めるこの男の深い皺の奥の目は既に白い。しかし、そんなことを感じさせないほどの威圧感でこの場を制していた。
「スカーレット嬢か、エレノア嬢か。どちらにせよ、聖リディール正道院にいるのであれば、そこにウィローという少女を送ってはどうか。理由は聖女候補としての資質を問うとでもすれば良いだろう。ギル・ヒューズとウィローを離すことが出来る」
ヒューズという男の管理よりウィローという少女を離せば、彼女を信仰会側につかせる可能性が高まる。現状、ヒューズもウィローも情報が少ないのだ。彼らを切り離すことで、つけ入る隙も生まれるだろう。
「……ヒューズは乗って来るでしょうか」
「ふむ。いくら世間で聖女だと噂が高まっても正式に聖女だと認めるのは我ら信仰会の審査を経て、王家に認められてからだ。ヒューズとしてもそれを望むだろう。そもそも候補であれば、何人いても構わぬではないか」
「そ、そのとおりです。さっそく、聖リディール正道院とヒューズに連絡を取ります」
その言葉にスタイロンは微笑むが、皺の奥に隠れた目は決して優しいものではない。長年に渡り、多数の貴族や王家と渡り合うだけの力をつけたスタイロンは、信仰だけでこの地位を守ってきたわけではないのだ。
「罪を犯し、謹慎中の少女に聖女の名を騙る少女――毒には毒をだな」
老人のかすれた声は、部屋にいた者たちに聞こえることはなかった。
*****
正道院長室に向かうエレノアの手にはティラミスがある。これは正道院長イライザとグレースの分だ。彼女たちも、倒れ、自室で過ごす自分を案じていたとエレノアはカミラから伝え聞いたのだ。
「喜んでもらえるといいのだけれど」
微笑むエレノアはこれから聖女問題に巻き込まれていくことを知らずに、嬉しそうに正道院長室へと向かうのだった。
暑い日が続きますね。
ご体調にお気を付けください。
明日も更新します。




