第36話 三兄弟のパウンドケーキ 3
食事はまだ始まったばかりだが、部屋の中には重苦しい空気が流れている。
アボット商会ではメイドが緊張した様子で、料理をテーブルへと運ぶ。
長兄のデレクは硬い表情を崩さず、久しぶりに実家へ訪れた次兄のアンディはそんな兄に不機嫌そうな様子を隠さない。
そんな二人を気にかけながら、クリスは少しでも雰囲気を変えようと彼らに必死に話しかける。
「それでね、僕が手渡すとお客さんが嬉しそうな表情になってさ。この仕事をしていて一番嬉しい瞬間だなって思ったんだ。――兄さんたちは?」
「俺が商売をやっていて嬉しいのは無事に全ての支払いが終わり、利益が確認できたときだな」
「……あんたらしいな。昔から紙の上のことばかり気にしてたもんな」
「アンディ兄さん……!」
「本当のことだろ? いつも文字と数字に追われてる」
非難じみた弟の言葉を気にした様子もないデレクはただ食事を進めている。
そんな姿がまた気に入らないのだろうアンディは眉間の皺を深めた。
会話を弾ませることに失敗したクリスは小さくため息を溢す。
次兄のアンディがこの家に足を運んだのは数年ぶりのことだ。母が他界したときに、長兄デレクと激しいケンカをして以来、実家へと戻ることはなかった。
思春期頃より、家にいるのを避け出したアンディは、自分の将来の職を父に否定されたのをきっかけに実家を出て過ごしてきた。財産分与の話がなければ、今夜のように実家に足が向くことはなかっただろう。
聖リディール正道院にクリスが菓子を依頼したのは、そんな事情がある。
三兄弟最後の時間になるだろう今日を、せめて少しでもお互いとって不快なものにしたくはなかったのだ。
だが、そんな思いは自分だけであったのかもしれない。
父や母、そして兄弟で過ごしたこの実家での最後がお互いをこれ以上、傷つけるものではないようにとクリスは祈るのであった。
*****
気まずい空気のまま、会食は進んだが、一向に相続の話にはならない。
クリスは気にかけるようにチラチラと二人の兄に視線を送るが、次兄のアンディが苛立ったように長兄のデレクに尋ねる。
「――で、話はどうなったんだ? 今日はこのために呼び出したんだろ。俺だって仕事を数日休まなきゃならないんだからな」
「あぁ、お前は自由に仕事を選んだからな。自分の意志で休めるというのは羨ましい限りだ」
「な!? 一日休めば仕事が遅れて信用にかかわるだろ! 父さんの仕事を継いだだけのあんたにはわからないだろうけど、一から店を立ち上げるって言うのは生半可な苦労じゃないんだ!」
「……お前は自分の夢を追いかけた。その責任を負うのは当然のことだろう」
言い争いになり始めた二人の兄に慌てるクリスだが、どちらの味方をすることも出来ない。昔から父の跡を継ぐことが決まっていた長兄デレク、一方で家を継ぐことが出来ない次兄のアンディは違う道を選ぶことしか出来なかった。
もし、父や母が今も健在であれば、三男であるクリスもアンディと同じ道を選んで生きていただろう。
だが、同時に実家で働いて気付いたのは長兄の苦労だ。
誰より早く起きて誰より遅く仕事を終える。
そんな長兄デレクの姿に、クリスは尊敬に近い思いを抱くようになっていた。
「あ! もうそろそろ、菓子が運ばれてくるはずだよ! 聖リディール正道院の菓子は『聖なる甘味』と呼ばれているんだ」
「……聞いたことがあるな。クリス、お前どうやって依頼したんだ?」
「手紙を出しただけだよ! ……兄弟最後の食事会になるんだ。せっかくなら、記憶に残るものにしたいじゃないか」
エレノアが送ったケーキを持って来たのは古くからこのアボット商会に努めるメイドのアビーだ。幼い頃より兄弟を知るメイドが菓子を運んで来たので、アンディは彼女に懐かしそうな視線を送った。昔より皺が増え、心なしか小さく見えるが健康そうな様子に内心で安堵する。
「クリス坊ちゃま、お手紙も同封されておりましたよ」
「ありがとう。わざわざ、手紙までつけてくれるなんて丁寧だね」
「……これは」
ケーキを見た長兄デレクは頑なな表情がほんの少し柔らかくなる。
次兄のアンディも目を開き、驚いた様子だ。
そんな二人の兄の様子には気付かず、クリスは手紙を読み上げ始めた。
「えっと、“この度はご注文頂きありがとうございます。こちらの菓子はパウンドケーキと、とある地域では呼ばれております。同じ量のバター、薄力粉、砂糖を使うことによって出来上がることがその名の由来です。” って書かれているよ」
その言葉にアビーが目を細め、三兄弟に視線を送る。
微笑む彼女の前に戸惑う兄弟だが、彼女はテーブルに置かれたケーキを見て何度も頷いた。
「懐かしゅうございますね。こちらはかつて、旦那さまが貴族の御屋敷から持ち帰ったものに似ております」
本来、こうした食事の席でメイドが口を挟むことはないが、アビーは兄弟にとっては幼い頃より面倒を見て貰った存在だ。
父母が他界した今、兄弟にとって心を許せる数少ない存在なのだ。
「あぁ、確かに父さんが持ってきた菓子に近い。あのときは確か、雨が降っていて大事そうにコートに包んで持って帰ってきたな」
「なんでか、あの人は食わないって言ってさ。俺たちと母さんで分けたんだよな」
デレクとアンディの言葉にクリスは嬉しそうに頷く。
今日初めてのまともな会話に、兄弟最後の会食にこの菓子を選んだのは間違えではなかったと思えたのだ。
メイドのアビーは兄弟の会話にまた口元に笑みを浮かべる。
「旦那さまは本当は甘いものが大好きでしたのよ」
「え! あの人、いつも食べなかったじゃないか」
「えぇ、皆さまが多く食べられるようにと、ご自身では召し上がりませんでしたね。奥さまはそのことをご存じで、ご自身の分はその場で召し上がらず、旦那さまにお分けしていました。――本当に仲の良いお二人でした」
知らなかった父と母の事実に驚くアンディとクリスだが、長兄であったデレクは表情を崩さない。彼はそのことを以前より知っていたのだ。
複雑そうな表情のアンディと硬い表情を崩さないデレクにクリスは話を変える。
「あ、でもさ、このケーキで喧嘩をしたよね? 母さんが自分の分のケーキを切って、その残りを三等分してくれてさ。だけど、大きさが違うからどれがいいかって喧嘩になって、僕が泣いてさ」
クリスの言葉にアンディは片方の眉を上げ、メイドのアビーはおかしそうに笑う。
予想外の反応に不思議そうなクリスに、アンディが肩を竦める。
「そりゃ、記憶違いだろ? 一番でかいのをお前に、次が俺、で一番小さいのを兄さんが……兄さんがそれでいいって言ったんだよ」
「え、じゃあ、なんで僕は泣いたの?」
「……こんなに美味しいお菓子をもう食べられることはないんだって言ってたぞ」
「貴族の屋敷から貰ったものだったからな」
自分の勘違いに顔を赤くするクリスだが、長兄のデレクも次兄のアンディも気を悪くした様子はない。
しかし、どこか感慨深そうに長兄のデレクは菓子を見つめる。
急に雰囲気の変わった兄にアンディとクリスが視線を向けると、デレクは思い切ったように立ち上がり、頭を下げた。
「すまない。財産分与で呼び出したが、分ける財産はもうこの家にはないんだ」
「え、どうして? 今、この商売は順調だよね」
「一緒に働いてるクリスがこう言ってるんだ! 説明しろよ」
突然の長兄デレクの発言に、驚いたアンディやクリスも立ち上がる。
だが、デレクは頭を下げ続けるばかりだ。
困惑し、戸惑うアンディとクリスは、兄デレクをただ見つめるのだった。
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