第35話 三兄弟のパウンドケーキ 2
明日も20時に更新予定です。
クリスから受け取った手紙から、バターケーキだと推測したエレノアは早速、試作作りに乗り出した。
バターケーキの作り方は主に三種類に分けられる。
柔らかくしたバターに、全卵を混ぜて作る方法、柔らかくしたバターに、卵黄を加え、別に泡立てた卵白を加える方法、そして全ての材料を混ぜてから、溶かしバターを加える方法だ。
エレノアが試作に選んだのは一番目の方法である。
二番目の方法は、電動ミキサーのないこの時代に選ばれた可能性が低く、三番目の方法は一般的なスポンジ生地の作り方に近いものであるからだ。
「ドライフルーツにクルミが入ってるっていうのはミンスミートだと思うの。お酒の香りもしたって書かれているからね。今回は軽く和えたものを使ったけど、お届けするものにはちゃんと漬けたのを使いたいなぁ。それにしても、型も魔法で創れるなんて……本当にこの魔法って凄い! 私にぴったりよね」
《うむ。それでいつ頃、出来上がるのだ?》
キッチンは入室禁止のため、ドアの隙間から鼻を突きだしながらシルバーが尋ねる。カミラは呆れたような視線を送るが、エレノアはオーブンを覗き込み、嬉しそうに教える。
オーブンの中では膨らみ、綺麗な焼き色をつけたバターケーキが見える。
「もう少しで出来上がるわ。良い香りがしてるでしょ?」
《そうだな、我は嗅覚が優れているため、ひしひしと感じているぞ!》
「……この様子。やはり、時折これは本当にただの犬なのではないかと思うことがございます」
カミラの言葉が鼻同様、優れているだろう聴覚には届いていないのか、シルバーは鼻をくんくん、しっぽをぱたぱたと忙しい。
そんなシルバーの様子にエレノアは相好を崩す。
「自分が作ったお菓子をこれだけ楽しみにして貰えたら、やっぱり嬉しいものよ」
「……私も喜んでおります! ご相伴にあずかれるなど光栄の極みです! あぁ、どうして私の鼻は動かないのでしょう? まして、しっぽなど生えてはおりませんし……この喜び、お嬢さまに伝わっておりますでしょうか」
「ええっと、カミラ。その気持ちだけで充分だわ! さぁ、そろそろ出来上がりよ」
合図の音がオーブンから鳴り、エレノアはミトンを付けて菓子を取り出す。
ムラなく焼き色のついたバターケーキに満足気に頷いたエレノアに、シルバーがしっぽをせわしなく振りながら尋ねる。
《それで、菓子はいつ食べられるのだ?》
「冷めないと食べられないよ」
《……なんと。この香しさを前にして、食べられぬのか……》
「まだ、食べられぬのですか……」
エレノアの言葉に落ち込んでいるのは、シルバーだけではないようだ。
先程の言葉通り、カミラもしゅんとして落ち込んでいる。
「冷めたら、しっとりして美味しいケーキだからね。待つ時間も楽しみの一つ!」
型から取り出したバターケーキをケーキクーラーに置くエレノアに、シルバーは悲し気な眼差しを送る。
このケーキクーラーもエレノアの魔法で創り出したものである。
菓子作りに関することであれば、魔法に制限はないようだ。
エレノアの膨大な魔力、そして今までの常識に囚われぬ規格外の魔法は他の者に知れ渡れば、シルバーの存在もあるため、聖女と崇めたて奉られるだろう。
生活魔法でも属性魔法でもないエレノアの魔法は「菓子を作りたい」その願いに沿ってさえいれば、順応性が高いのだ。
そんなこと考えるカミラの目に飛び込んだのはエレノアが後片付けを始める姿である。まさかの主人の行為に慌てて、止めに走るのであった。
*****
夜も更けた正道院の使用人用厨房では歓声が響く。
エレノアが持って来た菓子にマーサやエヴェリンは目を輝かせている。そんな様子に困ったように笑うペトゥラは湯を沸かし始めた。
「皆にも試食してもらおうと思って。依頼を受けたケーキなんだけど、初めてのことだから少し気になって」
「それは任務重大ですね! あ、私がお茶をご用意しますね」
張り切った様子のマーサに皆、くすりと笑う。
バターケーキをペトゥラが切り分ける。このケーキはマーサたちの試食用で、エレノアには自室にカミラたち用の分があるのだ。
切り分けたケーキはほぼ同じサイズだが、幾分か大きいのをマーサに、次に大きいのをエヴェリンにとペトゥラは差し出す。
それに気付いたエレノアは微笑む。この中では年長になるペトゥラの優しさを感じられたのだ。普段、厳しく指導しているようにも見えるペトゥラは年下の二人、特にまだ不慣れなマーサを気にかけていた。
クリスからの手紙にあったケーキの思い出と少し重なり、エレノアは切ない思いにもなる。
「――どうかなさいましたか? コールマンさま」
「いえ、ペトゥラは優しいのね」
「! その、子どもには栄養が必要ですので……」
恥ずかし気に言い訳をするペトゥラの様子は普段の毅然とした姿と異なり、どこか可愛らしい。微笑むエレノアに、どこか気まずそうにするのでまたエレノアの笑みが深くなる。
そのとき、エヴェリンの声が響いた。
「マーサ、きちんと声をかけなさい!」
「すみません……その、不注意でした」
「二人とも、コールマンさまの前ですよ? お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」
突如、上がった二人の声にペトゥラはたしなめるが、その状況はエレノアにもペトゥラにもわからない。
ただマーサに厳しい視線を送るエヴェリンの姿と、しょんぼりと落ち込んだマーサの姿に何かが起きたことだけは確実である。
「何があったの? 二人とも」
「その、紅茶を入れたのですが、コールマンさまの分をご用意していなかったのです。……申し訳ありませんでした」
マーサは肩を落としているが、ペトゥラとエレノアは戸惑う。
エレノアは今までこの使用人用厨房で食事を摂ったことはない。公爵令嬢であるエレノアが他家の使用人と同じテーブルに着く方が常識外なのだ。
この不思議な関係性もハルとしての記憶を持っているからこそ、築かれている。
だが、職務について間もないマーサは、エヴェリンがそのことを指摘したと考えたのだ。
「私の分の紅茶は不要よ。問題ないわ、そしてエヴェリンもそのことを知っているはずだわ」
「え! では、違うことで怒られたのですか?」
驚くマーサにため息を溢したのはエヴェリンである。
一方でマーサは何かまた叱られることがあるらしいと目を大きく開き、エヴェリンを注視する。エヴェリンはつかつかとそんなマーサに近付くと左手を腰に当て、右手で彼女の額をつんと突く。
「うっ!」
「私が『声をかけなさい』と言ったのは、紅茶を置くときのことよ。私とぶつかっていたら火傷をしちゃうでしょう?」
「あ! そうだったんですね……。確かにさっきエヴェリンさんが振り向いていたら、火傷をさせてしまったたかもしれません。申し訳ありませんでした!」
「いえ、その……まぁ、大体はあっているけれど」
しゅんとした様子でおでこを押さえつつ頭を下げたマーサに、エヴェリンは口をもごもごと動かし、言葉に悩んでいるようだ。
おそらくはマーサが火傷をすることを心配しての注意だったのだろう。
しかし、マーサ本人にそう告げるのは気恥ずかしくなったらしい。
小さな行き違いにエレノアは口元を緩め、そんな彼女にペトゥラが申し訳なさそうな視線を送る。
「お互いを思い合ったうえでも行き違いが起こることもあるわよね」
「……コールマンさまの前で申し訳ありません」
「申し訳ありませんでした!」
頭を下げる二人にエレノアはくすくすと笑う。
マーサはエヴェリンのために紅茶を用意し、その紅茶で火傷をするかとエヴェリンがマーサを案じた。
お互いを考えたうえでの行き違いで、エレノアが気を悪くすることはない。
それ以上に視点によって同じ事柄でも、事実としての認識が異なる点に気付かされる。
「視点の違いによるすれ違いね……」
エレノアの頭によぎったのは、菓子を依頼したアボット商会のことだ。
三兄弟も同じようにそれぞれに事情があるだろう。立場によって見え方や感じ方は異なるものなのだ。
しかし、エレノアにはそこまで介入することは出来ない。
彼女が依頼されたのはあくまで、食事会の菓子の作成だ。兄弟間の揉め事やその原因を探ることはエレノアの仕事ではないのだ。
出来ることはただひとつ、誠意をもって菓子を作り、三兄弟最後の食事会にふさわしい出来栄えにすることである。
まだしょげたマーサと困った表情のエヴェリンに微笑みを返しながら、自分のするべきことに立ち返るエレノアであった。
ブックマークや評価、いいねなど
いつもありがとうございます。
パウンドケーキは3種類の作り方があります。
それぞれに膨らみやすさや生地の食感が微妙に異なるそうです。




