第34話 三兄弟のパウンドケーキ
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「――そうですね。私としても個別の依頼を受けるという試みは、良いと考えています。この聖リディール正道院に訪れる人々だけではなくとも、聖なる甘味を必要としている方々はいらっしゃるでしょう」
「では、個別のご依頼を受けても構わないのですね!」
嬉しそうなエレノアに、正道院長イライザは案ずるような表情だ。
試みとしては興味深く、中央より離れた聖リディール正道院へ訪れることが出来ない者にも聖なる甘味を届けることが出来る。
一方でエレノアの負担が増えるのではと、各地より手紙が届いているのも今まで伝えるのをためらっていたのだ。
だが、そんなイライザにエレノアは微笑みを浮かべて話しかける。
「ありがとうございます、正道院長。これでもっといろんな菓子を皆さんに届けることが出来ますわ! 私、まだまだ作ってみたいお菓子がたくさんあるんです」
紫の瞳を輝かせるエレノアは意欲的である。
正道院用に作る菓子は街の人々が入手しやすい物を作って販売している。
しかし、エレノアがハルであった頃に書き溜めたノートには様々なレシピがあるのだ。それを活かし、人々の需要に合った菓子を作れることで、より一層、人々に喜んでもらえるだろう。
自身の心配など軽々と超えるエレノアの意気込みに、イライザも側にいたグレースも口元を緩める。
「では、正道院用の菓子は今まで通り、ラディリスの者にお願いします。それに加え、もしも直接、依頼者から話を聞くことになった際はグレースたちにお願いしましょう」
「グレースさん、ご負担が増えて申し訳ないのですがよろしくお願いします」
「いえ、私にとっても聖なる甘味が受け入れられていくのは喜ばしいことです」
話を聞くのは平民研修士ラディリスが適任である。
日頃より彼女たちは職務として、正道院で働く者以外の外部の人々の相談や悩みを聞くことがある。祈祷舎に訪れた者や菓子を買いに来た者と接点を持てるのも、平民であるラディリスのみだ。
貴族研修士ヴェイリスは謹慎の身であると同時に、身分は貴族令嬢たちである。
交流の制限は彼女たちを守る意味があるのだ。
アレッタなど、雇用された同性の者との接点は持てるが、ほとんどの貴族令嬢はそれを求めはしない。貴族令嬢としてエレノアは寛容であり、スカーレットはその影響を受けている。
「それでは、届いた手紙をエレノア研修士にも読んでもらいましょう」
イライザが引き出しから手紙を取り出し、机の上に置く。
古い机の上に置かれた真っ白な封筒には、どんな人々がどんな理由で菓子を求めているのだろうか。人々に笑顔になって貰える菓子を作りたいと、エレノアは胸を高鳴らせるのだった。
*****
「この方はどうでしょう。ご依頼された時期も早いようですし」
「見せてちょうだい……あぁ、会食での菓子の依頼ね。それ自体は問題ないけれど、ちょっと状況が複雑だわ」
「……不仲のご兄弟の会食にお出しする菓子ですか」
手紙の主はアボット商会というそれなりに大きな店の三男クリスである。
現在、店を手伝う彼だが兄弟間が不仲であり、そんな中で財産を分与する話が持ち上がったため、会食を開くという。
おそらくはそれが三兄弟最後の会食になると書かれているため、相当彼らの溝は深いのだろう。
「不仲では菓子を食べる余裕すらなさそうです……」
「ですが、ここには思い出の菓子とあります。最後に思い出の菓子を食べて時を過ごしたいというお気持ちを、大事にしたいと思うんです」
グレースが不安そうに話す隣で、エレノアは異なる視点を語る。
不仲であるには変わりないが、せめて最後を飾る菓子は思い出の物にしたいというクリスの気持ちもわからなくはない。
何より、最後の菓子に聖リディール正道院の物を選んでくれた思いは嬉しいものだ。
「それでは、この方に決定ですね。あなたにこの手紙を預けます。手紙に書かれている情報が菓子作りの参考になるかと」
「ありがとうございます。手紙を元に、試作をしてみますね」
正道院長イライザから手紙を受け取ったエレノアは嬉しそうに微笑む。
薄い紙ではあるが、そこには依頼をしてくれた人々の思いや願いが込められている。そんな手紙を受け取ったエレノアは、真摯に向き合わねばと気を引き締めるのだった。
「お嬢さまは、その菓子に心当たりはあるのですか?」
「いいえ、ないわ」
紅茶を入れながら尋ねたカミラにエレノアは即否定をする。
この時代の菓子にはエレノアは詳しくない。
そもそも、この時代では貴族や裕福な商家でなければ、菓子を食べることは難しいだろう。正道院の聖なる菓子も復活したのはエレノアなのだ。
「では、思い出の菓子探しも難航するのでは……」
「それは多分、問題ないわ」
主人のこれからの苦労を思い、眉間に皺を寄せるカミラにエレノアは明るく答える。実は菓子作りにはある程度、パターンがある。
菓子の種類がまだ多くないこの時代であれば、推測はさほど困難ではない。
「この手紙に詳細が書かれているの。それを参考にすればそんなに難しいことではないわ」
「……そのような数枚の手紙で、目的に辿り着くことが出来るのですか? 流石はお嬢さまです。あぁ、お嬢さまは私の不安など軽々と凌駕されていきますね!」
大袈裟なカミラの態度はいつものことである。
気にせず、クリスからの手紙を読み進めると三兄弟の思い出の菓子の造形が、エレノアの中で固まってくる。クリスの菓子はかつて彼の父母が健在だったころに、ある貴族の家で土産に貰った菓子らしい。
「えっと、“バターの風味と甘さがあり、しっとりとした食感。またクルミや果実が入っており、酒の香りがした記憶がある”と書かれているわ。これはバターケーキで間違いないわね。我が家の調理人も作っている定番のものね」
貴族の屋敷では料理人を雇い、彼らが調理したものを食したり、客人に提供している。その腕前や技量の優秀さは、貴族の身分の高さと比例する。
エレノアの屋敷でもバターケーキは振舞われており、高位貴族であれば食したことがあるだろう。
だが、商人であるアボット家では貴族の家からの土産、それも菓子という普段口にすることのないものに、子どもであった兄弟は喜んだはずだ。
手紙にもその様子が書かれており、微笑ましさにエレノアは口元を緩ませながら読み上げる。
「“父はなぜか自分はいらないと話したようで、母と兄たちと分けました。一番大きく切ったのを誰が食べるかで喧嘩したことが、昨日のように思い起こされます。今、同じようなことで揉めている現状ですが、せめて最後にかつてを思い起こす菓子を兄弟で食べたいのです――” これは……責任重大ね」
菓子の大体の予測は付いたが、それは兄弟の関係性まで変えることは出来ない。
それでもせめて、家族の思い出にあるケーキを最後の菓子にしたいという、クリスの気持ちに応えたいとエレノアは思う。
《で、清らかな魂の者、それは美味なのだな? いつ作るのだ?》
エレノアの横に座ったシルバーはぱたぱたとしっぽを振って、期待に満ちた眼差しを送ってくる。シルバーの言葉のわからないカミラですら、何を期待しているかは一目でわかるほどだ。
呆れたようなカミラの視線を気にする様子もなく、しっぽを振り続けるシルバーにエレノアはある意味、作り甲斐があるとくすくす笑うのだった。
*****
日も暮れたが王都の往来ではまだまだ人の声が騒がしい。
この日最後の客を見送ったクリスは店の戸締りを確認し、長兄であるデレクのいる部屋へと急ぎ、ドアを叩く。
先程、聖リディール正道院より手紙が届いたばかりなのだ。
許可の声にドアを開け、嬉しそうにクリスは報告をする。
「デレク兄さん! 聖リディール正道院から手紙が来たよ! ねぇ、言ったでしょう? どんなときでも希望を捨ててはならないんだよ、父さんが言ってたとおりだ」
興奮気味に語る末の弟に、兄デレクは厳しい視線を送る。
聖リディール正道院へ聖なる甘味を依頼すると言い出した時も、デレクはクリスを止めた。
商売が軌道に乗ったとはいえ、一介の商家の依頼を受けるとは到底思えず、またその資金がどれほどになるかもわからない。
三男であるクリスは長兄であるデレクからすると、見通しが甘いのだ。
「その手紙が依頼を受けるという内容だと確認したのか?」
「いや、その……まだしてない。一緒に確認したいじゃないか」
「そういうところだぞ、クリス」
恥ずかし気な様子のクリスは慌てて封を開け、手紙を読み進める。
そんな弟から視線を外し、デレクは出納帳を確認する。数字は間違っていないか、無駄はないか、彼はいつも確認を怠らない。
勤勉で生真面目な長兄デレクはこのアボット商会を父から受け継いだ。
そんな兄をクリスは尊敬しているが、デレクからすればクリスの甘さや情に流されやすい点は商売に不向きであると捉えている。
客からの評判は良いようだが、それは数字に反映されないのだ。
「あぁ! デレク兄さん! 大丈夫だ、聖なる甘味を最後の食事会に送るって書いてあるよ!」
「…………いくらかかる」
「えっと……正道院への寄付でいいって! なんて良心的なんだろう……」
弟クリスの言葉にデレクは苦虫を嚙み潰した表情になる。
寄付でいいということは金額が提示されていないのと同じだ。
いくら寄付するのか、それはクリス個人ではなく、アボット商会として考えねばならない。店の看板に傷がつくような金額を寄付するわけにはいかないのだ。
性格の穏やかなクリスではあるが、共に働くようになって、商人として至らない点がデレクには目につくようになった。
「……アンディ兄さん、来てくれるかな」
「わからん。来なければ、それまでの話だ」
悲し気な表情を浮かべるクリスに気付かぬ振りをして、デレクは店の経営のためにまだ仕事を続けるのだった。
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